第1話 仮勇者、とりあえず傭兵になる
「やれやれ、どうしてこうなるんだか……」
射るようにぶつけられる凶暴な視線に、俺は気が滅入りそうだった。
今朝方、ギルドで受けた護衛任務。
とある商人が隣町まで商品を馬車に積んで移動するのでそれを護衛する――言葉面だけなら実に簡単な任務であったし、報酬も同類の仕事に良かったので受けることにした。本来、隣町までの距離は徒歩で4日程度、馬車であれば更に短期間で踏破できる行程なのだが、依頼者はどうやらかなりの小心者らしい。万が一、ということに備えてギルドに護衛を依頼したのだそうだ。報酬にしたところで決して安価ではないというのに、それほど商品が大事なのか。
いずれにせよ、のんびりできそうな任務だと思っていた。――当初は。
今の状況としては、非常によろしくない。
地理的には、隣町への行程も8割方過ぎ、本日中には目的地に到着すると思われる地点。
まずは背後。
依頼主の商人は腰を抜かして動けない、馬車馬は怯えきって身動きできず役立たず。
そして周囲。
視界に広がる、リトルオークと呼ばれる魔物の群れ。
その特徴的な細長い腕は、先端で土やら血やらで薄汚れた爪を持ち、体長は1メートル半といったところ。どす黒い肌、額から伸びる太く短い角、そして瞳孔の開ききった白く濁った瞳。そこに理性というものはまったく感じられず、いわゆる鬼というものはこういう連中のことをいうのではないかと思う。
リトルオークはいわゆるポピュラーな魔物だ。今回のように商人の馬車であったりとか、旅人が襲われるというのもままあることであるし、護衛の傭兵に撃退されるということも非常によくあること。
だが、それはあくまでも数匹単位での話。
今回のように、50匹近いリトルオークがたがたが馬車1つ襲撃するというのは、異常だ。
「き、君ッ! 早く、なんとかしてくれ、よ……! こういうときの為に――」
40代ぐらいの小太りの商人は怯えきった声を上げていた。
情けないほどに震えた声を絞り出すその姿は、先日初めて顔を合わせた際の居丈高な様子が見る影もなくなっている。
「分かっていますよ。ただ、お願いですから下手に動いたりしないで、じっとしててくださいね?」
腰の抜けた男にそんなことを言う必要もないかとも思ったが、念押しの為に注意すると、改めて剣を構えなおす。
武器は、細長い剣1本である。余計な装飾はなく、ただただシンプルな拵えの剣だ。これを選んだ理由は唯1つ、安価だったからだ。
「こいつは何か別口で手当てでも貰わないと割に合わないな……」
溜息混じりにそう呟くと、勢いよくリトルオークの群れへと駆け出した。
☆ ☆ ☆
「はい、どうもお疲れ様。これが今回の報酬」
「……どうも割に合わない気がする」
そう言ってブツブツと文句を垂れている男に、私は銀貨3枚の入った皮袋を手渡した。
ヴァルゴアン王国、王都サンエストル。ここは王都唯一のギルド窓口である。
私の名前は、ライド・アルム。王都サンエストルのギルド職員。
ちなみに年齢は今年で34で、妻帯者だ。
私の来歴を語るには、ギルドという組織について説明するところから始めなければならないのだが、生憎と私は説明が上手でない。である故に、簡潔に説明するに留めたい。
ギルド――正式名称、傭兵互助組合の歴史は深い。気の遠くなるような昔に創立されたらしいが、細々とした歴史などどうでもいいだろう。
現在ギルドは、傭兵達の仕事受注窓口となっている。
仕事の内容は実に多種多様で、例えば魔物討伐、旅の護衛、レアな物品の探索から、果ては近所の引越し作業の手伝い、土木工事などなど、はっきり言えばなんでもあり。要は、人手が足りないと考える人々が正当と思われる報酬を用意してギルドに依頼し、仲介者となるギルドが傭兵に仕事を紹介し、依頼が達成されれば依頼主から預けられた報酬を傭兵に渡す、という仕組みだ。
それゆえに、傭兵、という言い方は少し語弊がある。
その内実はいわゆる冒険者と呼ばれるような連中で、戦士や魔法使い、盗賊紛いのろくでなしまで様々だ。
そして私は、このギルドの事務員というわけだ。
働き始めてからこれまで、ずっとギルドで働いてきた。おそらく生涯ギルドで働き続けるのだと思う。日々舞い込む人々からのギルドへの依頼の整理、傭兵達の依頼受託手続き、任務完了報告に対する報酬の支払いなどなど、なかなかに忙しい日々を送っている。
そして、既に顔馴染みとなったこの青年――タカオ・アサクラも、当ギルドの会員だ。
「なんだい、若い男がぶつぶつと文句が多いね。望んで受けた任務だろうに」
「依頼文通りの任務だったんなら、それは文句なしなんですが。リトルオークの群れに襲われるなんて、予想外もいいところです」
「あぁ、そのあたりの話は依頼主さんから聞いたよ。随分と活躍したそうじゃないか。そりゃあリトルオーク40匹を斬り倒すというのは大変だったろうけど。怪我人もなし、商品も無事に送り届けることができた。いいことづくめじゃないか」
「おかげで剣は買い替えですよ。汚れてしまって使い物にならない」
はぁ、と沈み込む溜息とともに、タカオは肩を落とした様子でギルドから出て行った。
「なんだか今日はお疲れですねぇ、タカオさん」
と言って、横から話しかけてきたのは、同じく事務員で、後輩のレイナ・フォノス。
まだまだ幼さ残る童顔、赤毛の目立つ少女である。綺麗、というよりは可愛らしいという言葉が似合う、まだ若い18歳の新人だ。仕事を覚えたてで危なっかしさ残る彼女をフォローをする私は、さながら彼女の指導係といったところか。
確か彼女がこのギルドに事務員として配属された同時期に、彼、タカオ・アサクラもギルドに入会したのではなかったろうか。
「ん、ああ……今回の依頼、護衛任務というよりは、結果的には討伐任務も兼ねることになってしまったからね、疲れているんだろう」
「でも凄いですよねぇ。リトルオークとはいえ、40匹ですよ! それもたった1人で! ランクCだなんて不釣合いもいいところじゃないですか」
そう言って目を輝かせている彼女の様子は、彼、タカオ・アサクラを贔屓目に見ていることが丸分かりで。
「まぁ彼はギルドでの仕事は小遣い稼ぎ程度にしか考えてないみたいだからねぇ。いずれは本業に戻らないといけないって、以前に聞いたことがあるような、ないような……?」
「あれ、タカオさんってギルドで生計立てているんじゃないんですか。本業って……?」
さぁ、とだけ言って、私は窓口に向かってきた次なるギルド会員の応対に移った。
それにしても、最近は治安が良くない。
街中が、というよりは、街の外がというべきか。数年前であれば、たかが隣街に行くだけのこと、いくら大事な商品だからといって、ギルドに護衛を依頼するだなんてことはなかった。突発的に出没する盗賊はともかくとしても、魔物の心配はなかったからだ。
ところがどうしたことか、ここのところ旅人や冒険者、商人が魔物に襲撃された、という話をよく耳にする。
遂には王宮の騎士団の隊列まで襲われたというのだから、相当だ。
魔物の活性化の原因。それは、魔王の復活―――らしい。
魔王が数百年の眠りから復活した――そういった噂話が人々の間に回り巡るようになった頃と、魔物の活性化とは時期的に一致する。御伽噺程度にしか私も知らないのだが、魔王は独特の魔力、瘴気というものを持つらしい。ここのところの魔物の活性化は魔王復活による瘴気が原因ではないのか――これも噂話としてよく出回っている。伝承や御伽噺でも、魔王降臨の折は、魔物が人々を襲い、苦しめていたらしい。
魔王復活の真偽の程はともかくとして、勿論、それ以前に魔物による襲撃事件がなかったわけではない。
よくあること、といってしまえば、よくあることだった。
だからこそ傭兵がいて、ギルドがあるのだ。
だが、ここのところは少し異常だと私は感じている。
魔物の討伐依頼は以前に比べてその依頼件数が格段に増加している。
それはとりもなおさず、人々の生活圏に対し、魔物が侵食しているということで。
おかげで各都市のギルドは血気盛んな傭兵達で大賑わいらしく、ここ、サンエストル・ギルドもその1つだ。
「ライド君、君もやはりそう思うか」
「はぁ……少し異常でしょう、ここのところ。最悪、魔物が街の中まで押し寄せてきかねない勢いだ。風の噂では、小さな街ではそういうところもあって、手痛い目に遭っているとか……」
「おいおい、さすがにそこまで酷くないよ。そりゃたちの悪い嘘だな」
そう言って、人懐こい笑顔を浮かべるのはサンエストル・ギルドの長だ。
真っ白な髪に皺の出始めた柔らかな顔つき、そして特徴的な大きな眼鏡。本人はここのところよく、そろそろ隠居して静かに暮らしたいなんて言っているが、冗談ではない、ただでさえ忙しくなってきたというのに、このギルドを取り仕切る長の交代だなんて、内部事務が立ち行かなくなってしまう。
大口依頼主との折衝、処理困難事案の王国ないし他ギルドへの協力要請、逆に王国・他ギルドから協力要請があった場合の傭兵の選定など、挙げていけばきりがないが、内外渡っての連絡調整をこなすのがギルド長の役目だ。
柔らかな眩しい日光が照らす、明るいギルド長の執務室内で私は本日の依頼処理結果を報告していた。
「魔王の復活、か。こうして魔物が跋扈するようになると信じざるをえなくなるねぇ。王国からそんな話は聞かないが……」
まぁ教えてもらえないだけかもしれないけどね、とギルド長は苦笑混じりに話す。
ヴァルゴアン王国。
大陸の東南部に位置する、海に面した温暖な気候を有する国家である。
国土は狭く、隣国のオーラキア帝国に比べれば弱小国家であるが、由緒ある国だ。
ギルドは独立的に運営されているが、王国とは協力関係にあり、ギルド長は定期的に国王と会合の場を設けている。個人的にも親交が深いらしく、世間話をするのがほとんどということだが、やはり会談の場、様々な情報のやり取りがあるらしい。
「ここだけの話だがね……どうもお隣の帝国では、あの《勇者召喚》の儀式を行うらしい。懇意にしている帝国の大臣からこっそり教えてもらったんだが、ね」
「ほぉ。それは初耳ですよ。そうなると魔王復活も噂話ではなく、真実、というわけですか」
《勇者召喚》。
伝承によれば、魔王打倒のために異世界から勇者を召喚するための魔法なのだという。
勇者は大いなる光の力を持ち、魔王の瘴気・闇を打ち払う力を持っているそうだ。
魔王を倒した勇者は、役目を果たした後に、異世界へと帰還するという……。
この《勇者召喚》の儀式、帝国の宮廷魔術師たちのみに伝えられる究極の魔法、と言われている。
これが行われるということは、いよいよ今代の勇者が召喚されるということで、やはり魔王は復活したということ。
「こういう世界になってくると、ギルドが忙しくなるのも当然といえば当然だよ。そもそもこの傭兵ギルドというのは、魔王討伐の際に時の皇帝が世界の冒険者を集めたのが始まりというからね」
「《勇者召喚》があるのに? それは少し話としておかしくはないですか?」
「まぁまぁ、そこは伝承や御伽噺がもとだからね。ギルド設立の理由はもっと別にあるのかもしれないけど……なにせ数百年も前のこと、誰にも真実は分からないよ」
☆ ☆ ☆
「……勇者、ねぇ」
「お、信じてねぇな、タカオ。本当さ。いつの時代も魔王が現れりゃあ、勇者が倒すってな。そりゃあ、絶対よ。神々が世界をそういう仕組みにしてくれてんのさ」
鼻息荒く我が事のように話すのは、武器屋の主人だ。
店内のカウンター内の椅子に座って、カウンターから身を乗り出さんばかりに熱く語っている。我知らず訝しげな表情になっていたのか、主人は更に語り続けた。
リトルオークの血や体液で薄汚れた剣を新調するために馴染みの武器屋に足を運んだのだが、街中で頻繁に語られる噂話――すなわち、魔王復活の話をよくある世間話として振ったのが運のツキ。自分以外に客がいないということもあってか、この主人、熱く語り始めたのである。
「そりゃあ、生き証人なんかいねぇ。だがな、数々の伝承・寓話・御伽噺、これらはいずれも勇者の存在を認めてるんだぜ?」
「いや、別に信じてないわけじゃないんだけど」
「じゃあ、いいじゃねぇか。お前さんも聞いているだろ、魔王復活の噂は。くわえて魔物の活性化。こいつはもう間違いない、北方大地で魔王が復活したんだ。今頃、お隣のオーラキア帝国では《勇者召喚》が準備されているはずさ。いずれお披露目されるだろうよ」
この主人が言う伝承・寓話・御伽噺は、それこそ星の数ほどあるが、内容に大した差はない。いずれも、大筋としては同じだ。
すなわち――
魔王が降臨し、平和に暮らす人々を苦しめる。
時の為政者――国王であったり、皇帝であったり、高名な魔法使いであったり、ばらつきがある――が《勇者召喚》の儀式により、異世界より勇者を召喚する。
勇者は大いなる光の力をもって勇敢に戦い、苦難の末に魔王を討伐、世界に平和をもたらす。その後、勇者は元いた異世界へと帰還する。
――といった具合だ。
現在では《勇者召喚》の魔法は、隣国のオーラキア帝国にのみ伝えられるとされている。
「大いなる光を以って、魔王の闇を振り払わん――そんな一節が何かの伝承にあったかな」
「そうだろ、光の勇者だ。 帝国には《白の騎士団》《蒼の騎士団》《紅の騎士団》ってなとんでもなく強い騎士様たちがいるらしいが、そんなお人たちであっても倒せねぇ魔王を、大いなる力を持った勇者は討つことができるのさ」
勇者はすべてを断ち切る光り輝く剣、あらゆる攻撃・魔法を跳ね除ける光の盾・鎧を装備し、あらゆる魔法を使いこなし、魔物にやられた傷に苦しむ人々をたちどころに治癒したという。
これは、いつぞや聞いたことのある御伽噺の一節だったか。
何にしても、これが全て真実だというなら、確かにその勇者というのは神にも等しい力を持った異世界人、というわけだ。
(……それじゃあ、俺はいったい何なんだ……?)
俺、タカオ・アサクラ――朝倉隆雄とて、2年前に《勇者召喚》によって召喚された異世界人なのだ。
――そう、魔王復活の前に。
「―――おぉっと、すまねぇ。つい熱くなっちまった。えぇっと新しい剣だったな。安い奴でもいいのかい?」
「ああ、構わないよ。とりあえず、そこらの魔物が斬れれば十分だ」
「それぐらいの剣なら吐いて捨てるほどあるが……なぁ、タカオよぉ。
もう少しばかりいい武器を持ったらどうなんだよ? さっきの勇者の話じゃないが、ギルドの傭兵の噂話だってよく耳にするんだ。ここサンエストルにだ、ランクB以上の腕前を持ってるってのに、討伐任務を受けたがらねぇ、やっと20歳になったばかりの小生意気な小僧がいるってな。
どう考えてもお前のことじゃねぇか!」
「確かに俺のことかもしれないけどさ……いや、それはいくらなんでも買い被りすぎだよ。俺なんかランクCが精一杯だし、護衛や雑事任務の方が性に合ってる」
傭兵ギルド。
そこに俺が入会したのは2年前のことだ。まだまだこの世界のことについて右も左も分からない状態だったというのに、無理やりにあの爺さん――ホムレウス・オノアンに連れてこられたのをよく覚えている。
このギルドだが、傭兵達はそれぞれランクを付けられて登録されている。
具体的にはランクE、D、C、B、A、S、そしてSSまでだ。
ランクEというのは、要はギルドで登録して間もない者。
ランクDはその後一定期間を過ぎた者で、要はここがスタート地点、誰もが通る道だ。
その後、様々な依頼を受けて後、ランクC、B、Aへとギルドより認定される。
ランクDにはまだまだ駆け出しで危なっかしい者も含まれるので、ランクCに認められてやっと一端の傭兵として認められるという具合だ。
そして、俺はこのランクC、というわけだ。自身を顧みても、分相応である。
ランクAなどは一流の戦士、魔法使い、狩人だし、ランクS以上になると超一流である。残念なことにサンエストル・ギルドにはランクA以上の傭兵は1人もいないので、俺は一度もランクA以上にはお目にかかったことがない。だが、噂だけはよく聞く。傭兵ギルドに登録される者としては、まさに憧れの対象なのだ。
「それこそ帝国内にあるギルドにでも行って、本格的に腕を磨いたらどうなんだ?
俺はお前さんならランクBより上だって夢じゃないと思うんだがなぁ。王都サンエストル、とはいったものの、帝国内に数多くある都市に比べたら、やっぱり小せえ。そんなところのギルドに居たって、いつまでたっても上は目指せねぇと思うぜ」
「だから、買い被りすぎ! それに、そこまで上を目指そうとは思わないよ」
「……ったく、若者が夢のないことを言うなよ。ランクSになって、二つ名で呼ばれるようになりたい、ぐらい言ったらどうなんだ? もっとこう、上を目指そうって心意気を持ったらどうだい?」
「あのね……」
ギルド内の昔からの慣習として、ランクS以上の傭兵には二つ名を用意するということがあるが……。
冗談じゃない。ランクSなど夢のまた夢だ。
話に聞くと、ランクSに認定された者は、言い方は悪いが人間離れした化け物染みた連中と聞く。ランクSでそれなのだから、ランクSSなど何をいわんやだ。それこそ、伝承に語り継がれる勇者みたいな人間なのではないだろうか。
「まったく惜しいもんだ。……ほれ、この剣なんかどうだ? 安価だし、何より軽くて使いやすい。耐久性にちょっと不安があるが、斬れ味はそこそこだぜ。銅貨2枚でいい」
そう言って、主人が放りなげてきたのは鈍く光る、今までのものより少し剣身が太めのものだった。
……十分十分。財布代わりの皮袋から、手早く銅貨2枚を主人に手渡した。
「ふぅ……なんだか疲れた」
つい先程購入したばかりの剣を乱雑に棚に立てかけ、俺は倒れこむようにベッドに寝転んだ。
ここは異世界より召喚された俺が、まず最初に目にした風景、ホムレウス・オルノアンの家である。
いわゆる一軒家というやつで、俺風に言えば、リビングにキッチン、それに寝室、あとちょっとした地下室があるだけの、簡素な家だ。
俺が召喚されるまではホムレウス1人で暮らしていたというのだから、これで十分だったのだろう。
俺が召喚されてから後はしばらく2人で暮らしていたので、少し手狭ではあったが、今となってはホムレウスも音信不通で1年以上戻らず、ここは事実上、俺の家のような状態だ。
この家だが、王都サンエストルより少し離れた小高い丘に建っている。
国王の住まう城、そして王都を一望できる景観は中々に壮観であるが、なにしろ街から遠い。
近いうちに、サンエストル内に一室――言ってみればワンルームマンションか――を借りて引越しを考えているほどだ。
「とはいえ、あの爺さんがいつ戻ってくるか分からないしな……」
それにしても、ホムレウスが旅立ったのは突然だった。
ようやくこの異世界に、勝手の違う生活に、ギルドでの仕事に慣れ始めた矢先のこと。
何の前触れもなく、ホムレウスはこの家から出て行った。
理由は実に簡潔、「調べたいことがあるから」で、いつ戻るのかと問えば、「分からん」、の一言だった。
当時は、勝手にこちらの世界に呼んでおいて無責任すぎると、随分と憤慨した。
確かあの爺さんは最初に「こちらの世界で生き抜いていくうえでの知識、技能は与えてやる」と言った筈である。
だというのに、あの爺さんから教えてもらったことなど、そう多くはない。
こちらの世界におけるいわゆる一般常識と、簡単な魔法の使い方ぐらいである。
そのほかのことについては、結果的にすべて自力で習得することになったのだ。
幸い、文字は読めたし、言葉は通じた。
これで文字は読めず言葉も通じずだったら、八方ふさがりだったが、この家にあった本から、様々なことを学んでいった。
そして、確信した。
この世界は、自分がいわゆるファンタジーと呼ぶ世界そのものなのだということを。
まるで漫画やゲーム、小説の中のような世界。
モンスターがいて、剣で戦って、魔法があって、王様がいて……。
科学技術にどっぷりと浸かり、それを少しも不自然に思わない現代っ子である自分としては、とんでもなく戸惑ったものだ。
そんな迷子も同然の状況の俺を、世界を知るためと称してサンエストルのギルドに連れて行き、ここで日中仕事をしろと言われて放置されたのだから、たまったものではなかった。
なにせ俺は、この世界においてはとんでもない世間知らずなのだ。
おかげで何もかもがまず実践から始まったので、大変だったが、随分と勉強させられ、そして同じ分だけ恥ずかしい思いをした。
道徳・倫理感覚の違いから荒っぽい事態になったこともある。
だが、何かをしなければ生きていけなかった。
生きていくために、死に物狂いで学習していった。
雑用的な依頼から始まり、少しずつこの世界を知り、剣の使い方を我流で覚え、魔物とも闘えるようになった。
――盗賊の討伐ということで、人間を斬ったこともある。
正直、これには悩まされた。
魔物を殺すのはまだよかったが、人間となるととてつもない抵抗があった。
これを乗り越えるのにはかなり苦労したし、悩みに悩んだもののだが――……。
1つ言えることは、ホムレウスは何一つ助けてくれなかったということだ。
あの爺さんは1日中地下室――俺が召喚された部屋に篭もりっぱなしで、何やら怪しげな、というと少し語弊があるが、ともかく外から見て明らかにおかしいと思えるほどの様子でいろいろと研究している様子だった。俺にいろいろ――といっても微々たるものだが――教えてくれたのは召喚されてからのほんの数日、後はずっと地下に篭もりきりだった。
俺は俺でこの世界に慣れるのに必死で、ホムレウスに関心を寄せる余裕などなかった。
助言を請う、といった事も最初はあったが、完全に無視を決め込まれたとあって、早々に諦めたのである。
なので、よく考えてみればホムレウスが突如として出奔した時は、俺は久しぶりに彼と会話したと言える。
「《勇者召喚》……。ホムレウスは確かにその儀式で俺を召喚したと言っていたけど」
様々な伝聞によれば、《勇者召喚》の儀式はオーラキア帝国の宮廷魔術師にしか伝えられていないという……。
だとすれば、その宮廷魔術師以外に召喚された俺は、本当に勇者なのか……。
さらにいえば、俺が呼ばれたのは魔王復活なんて人々の間に取りざたされる前で、加えて今になって帝国では《勇者召喚》が行われるのではと噂されていて……。
「う~ん……やめた。堂々巡りだな」
こんなことは、少し物事を考える余裕ができた頃に散々考えたことだが、答えなんて決して出ない。今でもふと頭に思いつくが、ただただ悩むだけなので、このあたりはもう考えないようにしている。
今の自分にできることは、少しでも早く元の世界へと帰る方法を探すことだ。
魔王を倒すなどと、そんな無理はない。
ホムレウスは魔王を倒さなければ元の世界には帰れないと言っていたが、そんなはずがないのだ。
異世界から異世界への道があるのだから、それを逆に進むということもできるはずだ。
その道を押し開く手段が、魔王討伐以外にも何かあるはずだ……と思う。
もうこの世界にも慣れてきたのだし、そろそろ帰還の術を捜し求めてもいいと思う。
本当にそういった方法があれば、の話だが……。
「あぁ、もうッ! だから考えるなっての!」
不安ばかり押し寄せる厄介な思考に見切りをつけるべく、俺は無理やりにでも眠ることにして目をきつく閉じた。