プロローグ
仕事の合間に飲む温かい紅茶と、うちの可愛いハウスメイドが作ってくれた焼きたてのスコーンは最高である。
それこそ、夜会で浴びた貴族連中の嫌味も、こだわりが強すぎる職人どもへの苛立ちも忘れるぐらい。
「もちろん、契約がふいになりそうなのも忘れるぐらい!」
「……」
ちっとも慰めになっていないエルリックの台詞を、アッシェンは黙殺。
赤い螺旋の煙突から煙を吐く蒸気船のデッキで頬杖をつき、夜の港を見下ろす。
煌々と輝くガス灯の明を映す水面に、帆を下ろした漁船。それから、本日の仕事を終えたアイリスとシャーマニーの定期船が十つ。
あとさっきまでは、自分たちをここまで送ったキャンベル伯爵家の馬車もいた。
キャンベル伯爵家は、アッシェンのウルフ商会がシャーマニーの社交界に入るつてで、領地に工場と店舗を展開する共同事業を立てていた、いわば商談相手であった。
相手への利益を提示して、土地代と税の小競り合いを重ね、設計図をつくり、経営方式や人材確保についても話を詰めて……本日、破談した。
正確には、嫁入りした上で、キャンベル家の事業として継続することを提示された。
「肩を持つつもりは無いけど、先方の善意ではあるぞ。女が頭になって商売してると、社交界じゃ受けが悪いし。そもそも、おまえワーカーホリックの上、前に雇ったメイドが産業スパイだったせいで使用人も雇ってないだろ。だから、私生活を心配してるんだよ。この前なんて職場に3連泊だし」
「……」
顔を見なくても、エルリックが腕を組み、ひとりで相槌を打っているのが分かる。
「伯爵家の利益拡大の算段もあるから、無理に受ける必要は無いぞ。でもどっかに嫁入りするのは、まあまあ賛成」
「………」
「仕事のサポートをしてくれる近侍から、ココアを淹れてくれるメイド見習いまでいて、商売に理解がある男爵家の僕とか!」
顔を見なくても、両手で自分を指さしているのが分かる。
キャンベルの令息にも、似たようなことを言われたな。
「その年で商会の舵を切ってるのは尊敬するけどさ。仕事三昧で、家に帰っても誰も出迎えてくれないって、寂しすぎない?」
「……」
別に。衣食住がある程度満たされていればいい。
普段はほんの強がりを込めてあしらうが、今は気分じゃない。
そもそも、エルリックの言っていることは、決して間違いではない。
間違いではない故に、腹が立つ。
「まだカチカチのパン頬張りながら、書類見てるんだろ。金に余裕があるのにその生活、なかなか虚しいぞ」
「……」
アッシェンは聞き流すふりをして、夜の港ぼんやり見つめる。
そして一台、発船時刻まであと僅かの港で、檻を乗せた護送馬車を見つけた。
御者席には手綱を握る御者と、袖なしの外套を羽織った男。檻の中にいるのは、遠目からでも分かるぐらい汚れた布を被った人間。奴隷か囚人で間違いない。
囚人ならばシャーマニーでは民衆の娯楽として、顔を見えるようにするから、おそらくは奴隷だろう。
この国はアイリスと違い、奴隷制が禁止されては無いが、見たのは初めてだ。
もっとも、アイリスは外国で奴隷を買って持ち込むことは禁止されていないため、表面的なものではあるが、
「おいしい紅茶ってのは、頭も心も元気にしてくれるんだ。とりあえず」
「そうか。では私も雇ってみよう」
「帰ったらうちでお茶でも……ん?」
なるほど、その手があった。
滑らかに喋るエルリックに背を向け、アッシェンはタラップに足をかける。
左手で碧のスカートの裾を持ち上げて、ブーツで階段を鳴らしながら、凝固剤で固められた港に降り立った。
係船柱のロープを手にした男に目もくれず、アッシェンは護送馬車の前に立つ。
「その奴隷、私にくださりませんか?」
名乗りもなしに問いかけてきた少女に、御者は眉を顰め、隣の外套を羽織った男に目をやる。
男は顎をしゃくりあげ、面倒くさそうに口を開いた。
「残念だが、売り手は決まっている」
「だったらこれを」
肩掛けの鞄からペンを取り出し、口に咥える。
次に小切手を左手に持って、さらさらと数字を書き込む。
奴隷の相場と元の買主への詫びも含めたら、大体これぐらいか。
「それだけあれば十分でしょう?」
「いや、だから売り手が」
「あなたへの口利き代も必要ですね」
「……」
外套の男が、腕を組んだまま口を閉ざした。
つまり肯定か。
「では、こちらを」
御者と男の分の金額を書き込みながら、檻の前に進む。
淑女風に、それでいて有無を言わせない強気な姿勢で。
三枚の小切手を揺らしながら、品定めをするような男の視線に笑みを返す。
「船の時間が近いので、早く出してくれませんか?」
男は御者台から降り、手早く檻の鍵を開けた。
錠前が外れた檻の隙間に身体を滑らせ、隅で膝を抱えていた奴隷に手を伸ばす。
「さあ、出ていらっしゃい」
「……」
奴隷がゆっくりと立ち上がり、ゆっくりと檻の外に出てくる。
アッシェンはその手を掴むと、外套の男に小切手を渡し、右手を胸の前に添えて礼を取る。
「では、ごきげんよう」
指先一つ動かせず、固まっている奴隷の手を引いて、アッシェンは船に踵を向けた。
御者が何か言いたげにしていたが、気づかないふりをする。
さっさと港を離れてしまえば、こっちのものだ。
「思い切りすぎだろ、アッシェン!」
タラップを登りデッキに戻れば、エルリックが船乗りに金を渡していた。
奴隷分の船賃を払ってくれたのだろう。
「建て替えどうも。アイリスに着いたら返すよ」
「何時でもいい。それよりこのひと」
顎を斜めに突き出し、エルリックが奴隷を見上げた。
「名前は?出身国は?家事出来るの?あと売られる前の……」
売られる前の仕事は?
奴隷に詰め寄りながら問いかけるおしゃべりなエルリックの台詞が、ぴたりと止まった。
何事かと口を開きかけた、そのとき。
「はじめまして、ミス・ウルフ」
低く、それでいて濁りの無い穏やかな声が、アッシェンのファミリーネームを紡ぐ。
振り返れば、奴隷が膝をついて頭を垂れていた。
右の手はアッシェンの指を乗せるように優しく触れ、左の手は胸に添えられている。
「至らない身ではありますが、誠心誠意、お仕えすることを誓いましょう」
顔を上げた奴隷の頭から、ぱさりとぼろ布が落ちる。
露になったのは、白磁のような白い肌に、上等なはちみつの色をした瞳。短く刈られた金の髪は、月とガス灯の光をうけて、白い輝きを帯びている。
控えめに言って、どこぞの神も裸足で逃げ出すほどに美しい男が、目の前にいた。
……いや、今考えるべきはそこではない。
「私のことは、サフィ、とでもお呼びください」
先刻まで檻の中にいたとは思えない、柔らかく優雅な笑み。
しゃんと伸びた姿勢に、流れるような礼。
アッシェンやエルリックには無い、骨の髄まで染み渡った品の良さ。
多分、否間違いなく、上流階級にいた人間だ。
「ええっと、きみ、いや貴方、爵位は?ファミリーネームは?」
「そのようなものはありませんよ。身寄りも家もね」
「なにそれ、没落、口減らし、どこの」
落ち着きを捨ててまくしたてるエルリックの横で、アッシェンは奴隷に手を握られたまま、心の中でひとつ、つぶやいた。
こいつ、お茶もお菓子も駄目そうだな、と。
地上と船をつなぐタラップが外され、汽笛が夜の港に響き渡る。
アッシェン達を乗せた船が、シャーマニーの陸を離れていった。