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第9話:偽りの手紙と、消失した差出人

 その日の午後、公爵邸の応接室は、凍り付いたような空気に包まれていた。公爵は顔色をなくし、手に持った一枚の手紙を震える指で握りしめている。その隣では、公爵夫人が心配そうに公爵の背を撫でていた。


「ま、まさか……この私が、国家反逆罪の容疑をかけられるとは……」


 公爵が、絞り出すような声で呟いた。セバスチャンは、公爵の傍らに控えて、その手紙を覗き込んでいた。手紙には、公爵が隣国に軍事機密を漏洩したという、恐ろしい内容が記されていた。差出人は、公爵がかつて師と仰いだ、今は隠居している老侯爵、アルベール・ド・モンテスキューの名前が署名されている。


「セバスチャン! この手紙は、本物なのか!?」


 公爵の問いに、セバスチャンは眉をひそめた。

「筆跡鑑定は早急に行いますが、確かに侯爵様の筆跡に酷似しております。しかし……」


 セバスチャンは、手紙の隅に、微かな汚れのようなものが付着しているのを見つけた。それは、墨汁のような、しかし少し異なる匂いを放っていた。


「モンテスキュー侯爵が、公爵を陥れるような真似をするはずがない! 彼は、誰よりも国を愛し、公爵を高く評価しておられた!」


 公爵夫人が、強い口調で反論した。


 その時、エリスが、ティーカップを持ったまま、応接室にひょっこりと顔を出した。おやつの時間になっても誰も来てくれないので、自分から探しに来たのだ。


「お父様、お母様、セバスチャン! なんでみんな暗い顔してるの? もしかして、またデザートが売り切れちゃった?」


 エリスは、無邪気に尋ねた。そして、公爵の手にある手紙を見て、首を傾げた。


「あ、この手紙! これ、モンテスキューおじ様が書いたやつじゃないわ! だって、こないだ会った時、『最近、手が震えて、まともに字が書けないんだ』って、嘆いてたもん!」


 エリスの言葉に、公爵の顔色が変わった。

「エリス! 何を言い出す! モンテスキュー侯爵は、まだ矍鑠とされているはずだ!」


 **空間が、激しく波打ち、歪んだ。公爵の記憶の中で、エリスが発した「手が震えてまともに字が書けない」という侯爵の嘆きの言葉にまつわる会話の記憶が、ガラスが砕けるように消え去った。**公爵の瞳が虚ろに揺らぎ、ハッと我に返った。


「……わしは、何を……?」


 公爵は困惑したように周囲を見回した。


 セバスチャンの背筋に、氷のような冷たさが走った。

(エリス様の能力が発動した……! つまり、公爵様が「矍鑠としているはずだ」と否定した言葉は、論理的な矛盾を孕んでいた、ということになる。なぜ? そして、その矛盾が解消されたことで、何が真実として浮上したのだ?)


 セバスチャンは、エリスの言葉と、消え去った公爵の記憶を繋ぎ合わせた。

 モンテスキュー侯爵は、手が震えてまともに字が書けない状態にあった。にもかかわらず、手紙の筆跡は「酷似している」。


(酷似しているが、本物ではない。つまり、偽造された筆跡だ。だが、侯爵ほど高潔な人物が、なぜこのような手紙を偽造するのか? いや、偽造犯は侯爵ではない。侯爵の筆跡を真似た別の人物だ。そして、エリス様が指摘した「手が震えて字が書けない」という事実。これは、侯爵自身の言葉を借りて、偽造を見破らせるヒントだった!)


 セバスチャンは、手紙の端に付着した、微かな墨汁の匂いに似たものを再び嗅いだ。そして、公爵夫人が普段使用している文房具入れに目をやった。夫人は、時折、趣味で絵を描く際に、特殊な絵の具や墨汁のようなものを使用しているのを知っていた。


「夫人。失礼ながら、この手紙の隅に付着しているのは、貴女様がご使用になっている**『特殊な墨』**ではございませんか?」


 セバスチャンの問いに、公爵夫人がギクリと体を震わせた。彼女の顔色が、一瞬にして青ざめる。


「な、何を言うのです、セバスチャン! わたくしが、そんな……!」


 **空間が、激しく揺らめいた。夫人の否定の言葉が、「パリンッ」と音を立てて消滅した。**彼女は顔を覆い、ガタガタと震え始めた。


 セバスチャンは確信した。

(夫人は、この手紙の偽造に関わっている。だが、なぜ? 公爵夫人自身が、夫である公爵を陥れる理由など、考えられない。ならば、夫人は誰かに利用されたのか? あるいは、別の目的があったのか?)


 セバスチャンは、静かに夫人に視線を向けた。

「夫人。貴女様は、この手紙を、誰に、何の目的で作成されたのですか?」


 夫人は、その場に膝から崩れ落ちた。震える声で、彼女は告白を始めた。

「わ、わたくしは……わたくしはただ、先日、公爵様が、隣国の王女との縁談の話を持ち出されたので……。公爵様を、少しだけ困らせて、その話をなかったことにしたくて……」


 夫人の告白は、消えなかった。論理的な矛盾を含んでいなかったからだ。


 公爵は、絶句した。

「縁談……!? だから、こんな真似を……!?」


 エリスは、またも状況が理解できない。

(お母様、お父様のこと困らせたかったの? なんだか、ケンカしてるみたいで悲しいなぁ……。でも、モンテスキューおじ様、字書けないのに、なんで手紙書いたことになってるんだろう?)


 セバスチャンは、深い疲労感と共に、しかし確かな結論を導き出した。

(なるほど。夫人は、公爵の浮気を疑い、あるいは縁談の話を阻止するため、モンテスキュー侯爵の筆跡を真似て、公爵を困らせる手紙を偽造したのだ。その際に、侯爵の筆跡の癖を真似るため、手が震える設定を逆手に取り、自分の筆跡をあえて震えさせて書いたのかもしれない。侯爵の「手が震える」という情報は、この偽造手紙の真犯人を特定する、唯一無二のヒントだった)


 セバスチャンは、公爵夫妻に深々と頭を下げた。

「公爵様、夫人。この手紙は、国家反逆罪に関するものではございません。夫人が、公爵様を困らせる目的で作成された、『偽りの差出人』の手紙でございます。夫人が使用された特殊な墨の痕跡と、モンテスキュー侯爵が『字が書けない』というエリス様の証言が、その真実を物語っております」


 公爵は、驚愕から安堵へと表情を変えた。夫人も、顔を赤らめて俯いた。


 エリスは、残っていたティーカップの中身を飲み干した。

(はぁ、美味しかった! 結局、デザートは出ないのかなぁ……)


 セバスチャンは、公爵令嬢エリスが巻き起こす、無自覚な論理の破壊と、デタラメ推理の道が、どこまでも複雑に、そして人間臭いものになっていくことを確信していた。

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