第7話:『消えた遺言と、記憶の穴』
仮面舞踏会の喧騒が収まり、公爵邸に再び静寂が戻った翌日、新たな騒動が持ち上がった。今度は、遠縁の親戚にあたる老伯爵の訃報と、それに伴う遺言状の紛失という、さらに深刻な事態だった。
公爵の書斎に集まったのは、公爵夫妻、そしてセバスチャン。エリスは、普段は立ち入らない場所だが、公爵が疲労困憊の様子で「エリスの顔を見て癒されたい」と珍しく弱音を吐いたため、おやつのカヌレを手に同席していた。
「セバスチャン、改めて報告を。本当に、遺言状が見つからないのか?」
公爵が、額を押さえながら尋ねた。
「はい、公爵様。故ロベール伯爵の弁護士が立ち会いの下、屋敷中をくまなく探しましたが、どこからも見つかりません。伯爵は生前、『私の遺言状は、他の者には決して見つからぬ場所に保管してある』と豪語しておられたそうですが……」
セバスチャンは、沈痛な面持ちで報告した。ロベール伯爵は、財産を巡る親族間の争いが絶えず、特に長男と次男が遺産相続で激しく対立していた。遺言状が見つからなければ、法廷で泥沼の争いとなるのは必至だ。
「しかし、あの偏屈なロベール伯爵が、遺言状を残さないはずがない! 彼は何よりも財産に執着していたのだから!」
公爵夫人が、苛立たしげにテーブルを叩いた。
「えー? そうなの? でも私、こないだロベールおじ様と会った時、『遺言状は、もう書き終えて、弁護士さんに渡したから安心だ』って言ってた気がするんだけど?」
エリスは、カヌレをかじりながら、何気なく呟いた。
その瞬間、公爵夫妻の顔色が変わった。公爵夫人が、慌ててエリスの口を押さえようとする。
「エリス! 何を言い出すのです!」
**空間が、激しく波打ち、歪んだ。公爵夫妻の記憶の中で、エリスが発した「遺言状を書き終えて弁護士に渡した」という言葉にまつわる、ロベール伯爵との会話の記憶が、霧散するように消え去った。**彼らの瞳が虚ろに揺らぎ、ハッと我に返った。
「……わたくしは、何を……?」
公爵夫人は、困惑したように宙に彷徨う手を見つめた。公爵もまた、眉をひそめていた。
セバスチャンの背筋に、氷のような冷たさが走った。
(エリス様の能力が発動した……! つまり、ロベール伯爵が遺言状を弁護士に渡した、という事実は、何らかの論理的矛盾を孕んでいた、ということになる。なぜ? そして、その矛盾が解消されたことで、何が真実として浮上したのだ?)
セバスチャンは、エリスの無邪気な言葉と、消え去った公爵夫妻の記憶を繋ぎ合わせた。
ロベール伯爵は、確かに「遺言状は書き終えた」と言った。しかし、それが「弁護士に渡した」という部分に矛盾があった。
(弁護士は、遺言状を受け取っていないと主張している。ロベール伯爵の性格を考えれば、遺言状を残さないなどありえない。だが、もし、伯爵が遺言状を「書き終えた」と信じ込んでいた、あるいはそう錯覚していたのだとすれば?)
セバスチャンは、ロベール伯爵の屋敷での捜索状況を思い起こした。弁護士は、伯爵の書斎の鍵がかかった引き出し、金庫、さらには隠し部屋まで調べたと言っていた。しかし、遺言状はどこにもなかった。
セバスチャンは、エリスが持つカヌレに目をやった。そして、ふと、ある考えが閃いた。
「エリス様。失礼ながら、故ロベール伯爵と会われた時、その遺言状の話以外に、何か変わったことはございませんでしたか? 例えば、伯爵の身の回りや、持ち物について、何か覚えていることは?」
エリスは、カヌレを飲み込み、少し考えた。
「うーん……あ! そういえばね、おじ様、すごく新しい眼鏡をかけてたわ! いつも古いの使ってるから、『新しいの買ったの?』って聞いたら、『ああ、最近、手元がよく見えなくてな』って言ってたの」
エリスの言葉に、セバスチャンは息を飲んだ。
(新しい眼鏡……手元がよく見えない……!)
セバスチャンの脳裏に、パズルの最後のピースがピタリとはまる音が響いた。
「公爵様、夫人。もしや、ロベール伯爵は、遺言状を『書いたつもり』になっていただけなのではございませんか?」
セバスチャンの言葉に、公爵夫妻が目を見開いた。
「何を言うのだ、セバスチャン! ロベール伯爵は、あんなに几帳面な男だったぞ!」
公爵が反論したが、セバスチャンは首を振った。
「公爵様、思い出してください。エリス様が申し上げた、『遺言状を弁護士に渡した』という伯爵の言葉は、エリス様の能力によって消え去りました。これは、その発言に決定的な矛盾があったことを示しています」
セバスチャンは、公爵夫妻に問いかけた。
「そして、エリス様が指摘された、**『ロベール伯爵が新しい眼鏡をかけ、手元が見えにくいと漏らしていた』**という事実。これらを総合すると、一つの結論にたどり着きます」
セバスチャンは、壁の前に立ち、そこに飾られているはずだった絵画の消失事件を思い出した。あの時、エリスは「絵が見える」と無邪気に言った。
「ロベール伯爵は、遺言状を**『透明インク』**で書いていたのではございませんか?」
セバスチャンの言葉に、公爵夫妻の顔から一気に血の気が引いた。
「透明インク……!? まさか!」
夫人が絶句した。公爵もまた、驚愕に固まっている。
「ロベール伯爵は、生前、『他の者には決して見つからぬ場所に保管してある』と豪語していた。そして、手元が見えにくい中、新しい眼鏡で『書いたつもり』になっていた。透明インクであれば、誰の目にも見えず、まさに『見つからぬ場所』と言える。彼は、それを書き終えたと錯覚し、弁護士に『渡した』と偽りの認識を持っていた可能性がございます!」
セバスチャンの推理は、完璧にロベール伯爵の性格と、エリスの言葉が消し去った矛盾点を説明していた。
「ですが、なぜ、そんな……」
公爵が呻いた。
「恐らく、伯爵は遺産争いを防ぐため、あるいは死後に親族が困惑する様子を楽しもうと、そのような悪趣味な仕掛けを施したのでしょう。遺言状は、書斎の机の引き出しの底、あるいは書物の奥などに、透明な文字で書かれているはずです。特殊な光を当てれば、あるいは特定の薬品を塗布すれば、文字が浮かび上がるかと」
その瞬間、公爵夫人が、ガクリと膝をつき、顔を上げた。
「ああ……ロベール伯爵らしいわ……! あの偏屈者が、最後までそんな悪戯を……!」
夫人の言葉は、消えなかった。論理的な矛盾を含んでいなかったからだ。
エリスは、またも状況が理解できない。
(透明なインク? そんなの、美味しいの?)
彼女は、残りのカヌレをぺろりと平らげた。
セバスチャンは、公爵夫妻に深々と頭を下げた。
「至急、弁護士を呼び、専門家と共に遺言状を捜索させます。これで、相続問題も解決に向かうかと存じます」
公爵は、ようやく安堵の息をついた。
「セバスチャン……お前は、本当に……。そしてエリス、お前もだ。お前の何気ない一言が、いつも真実を導き出す」
「えへへー」
エリスは、褒められたと勘違いし、頬を赤らめて嬉しそうに笑った。
セバスチャンは、公爵令嬢エリスが巻き起こす、無自覚な論理の破壊と、デタラメ推理の道が、どこまでも続くことを確信していた。そして、その道は、決して飽きることのない、謎と驚きに満ちたものになるのだろう。