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第5話:絵画の消失と、不可視の筆跡

 その日の午後、公爵邸の図書室は、不自然な静寂に包まれていた。普段ならセバスチャンの手入れが行き届いた書棚の間を、微かな風が吹き抜ける音すらしないはずなのに、今日はどこか張り詰めた空気が漂っている。


 公爵夫人が、顔色を失って一枚の空っぽの壁を凝視していた。そこには、代々公爵家に伝わる、魔術師が描いたとされる幻想的な風景画が飾られているはずだった。しかし、今はただ、埃を被った壁のシミだけが残されている。


「わ、私の、大切な絵画が……! 一体、誰が……!」


 夫人の悲鳴にも似た声が、静寂を破った。公爵も、険しい表情で腕を組み、壁を見つめている。


「セバスチャン! 一体どういうことだ!? この図書室は、常に施錠されており、鍵は私と夫人、そしてお前しか持っていないはず!」


 公爵の問いに、セバスチャンは深々と頭を下げた。

「申し訳ございません、公爵様。わたくしも今、確認したところでございます。確かに鍵はかかっておりましたが、絵画だけが忽然と消えておりました。窓も、全て内側から施錠されており、不審者の侵入形跡はございません」


 セバスチャンの報告は、図書室が完璧な密室であることを示していた。昨夜の温室に続き、再び不可解な事件の発生だ。


「まさか、盗難、ではないでしょうね? そんな、誰がこんなこと……」


 夫人が震える声で呟いた。その時、ひょっこりと図書室に顔を出したのは、おやつの時間だと思い込んでいるエリスだった。


「お母様、お父様、セバスチャン! 何してるのー? もしかして、みんなでかくれんぼ?」


 エリスは無邪気に問いかけた。その手には、図書室の開いたドアの近くに落ちていた、絵筆が握られている。先端には、まだ絵の具の乾いた跡が僅かに残っていた。


 セバスチャンは、エリスの手にある絵筆に気づいた。そして、夫人が絵画が飾られていた壁のシミを撫でているのを見た。シミの形は、絵画の額縁の跡だ。しかし、よく見ると、そのシミの周りに、微かに、しかし確かに、乾いた絵の具のようなものが飛び散った跡がある。


(絵画の消失……そして、エリス様が絵筆を持っている……?)


 セバスチャンは、内心で警戒態勢に入った。


「エリス! その絵筆は、どこで拾ったのだ? まさか、お前がこの絵画を……」


 公爵が、やや厳しい声でエリスに尋ねた。エリスは、きょとんとした顔で絵筆を見つめた。


「これ? これね、図書室のドアのすぐそばに落ちてたの! きっと、誰かが落としちゃったんだね。あ、そういえば、昨日も、私、図書室で、誰かが絵を描いてる音を聞いた気がするんだけど」


 エリスの言葉に、公爵夫人が顔色を変えた。

「何を言いますの、エリス! この図書室は、私が鍵を管理しており、昨日は誰も入っておりませんわ! 絵を描く音など、ありえません!」


 夫人の強い否定に、セバスチャンは直感的な違和感を覚えた。そして、その瞬間、**夫人を取り巻く空間が、まるで水面に石が投げ込まれたかのように、歪んだ。夫人の口から放たれた「昨日は誰も入っておりませんわ」という言葉が、音もなく空中に霧散した。**彼女の瞳が虚ろに揺らぎ、ハッと我に返った。


「……わたくし、何を……?」


 夫人は困惑したように、宙を彷徨う手を見つめた。彼女の記憶からは、直前の否定の言葉が消え去っていた。


 セバスチャンの脳内が、急速に回転する。

(エリス様の能力が発動した。つまり、夫人による「昨日は誰も入っていない」という発言は、論理的に矛盾していた。……なぜ? そして、エリス様が聞いたという「絵を描く音」は、実際に存在したのか?)


 セバスチャンは、公爵夫人を冷静に見つめた。夫人は、公爵家の絵画を何よりも大切にしている。彼女が絵画を隠す理由など、思い当たらない。しかし、なぜ嘘をついた?


(もし、夫人が誰かを庇っているのだとすれば……)


 セバスチャンの視線は、再びエリスへと向かった。エリスは、まだ絵筆を握りしめ、不思議そうな顔で壁のシミを見つめている。


「ねぇ、セバスチャン。この絵がなくなった壁、なんか絵の具の匂いがするわ。私、この匂い、知ってる気がするんだけど……」


 エリスが、無邪気にシミに鼻を近づけた。セバスチャンも、わずかに鼻腔を刺激されるような、微かな絵の具の匂いを感じた。それは、水性絵の具のような、独特の匂いだ。


(絵の具の匂い……! そして、壁のシミの周りにあった、乾いた絵の具の飛び散った跡……)


 セバスチャンの思考が、一気に繋がった。

 エリスの「絵を描く音を聞いた」という証言が、夫人の記憶から消えた。つまり、夫人は図書室に誰も入っていないと嘘をついたが、実際には誰かが絵を描いていた。

 そして、エリスの手にある絵筆。そして、壁に残された絵の具の跡。


(この絵画は、盗難ではない……! 誰かが、この壁に、直接絵を描いたのだ! そして、その絵は、まるで透明な絵の具で描かれたかのように、肉眼では見えない。だが、エリス様が感じた匂いと、壁に残された微かな痕跡が、その真実を物語っている!)


 セバスチャンは、ハッと息を飲んだ。彼の脳裏に、パズルが完成する音が響く。


「公爵様、夫人。失礼ながら、一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


 セバスチャンは、恭しく、しかし強い確信を込めて言った。


「この公爵邸には、透明な絵の具を扱う画家、あるいはそのような絵の具の存在を知る者は、おられますでしょうか?」


 公爵夫人が、ギクリと体を震わせた。公爵も、目を見開いた。

「透明な絵の具……? まさか……!」


 夫人は、動揺した様子で公爵を見上げた。その瞳には、隠しきれない焦りと、微かな愛情が混じり合っていた。


 セバスチャンは、夫人の反応に確信を得た。

(夫人は知っている。そして、絵画を隠した理由も、庇うべき人物も……)


「夫人。もしや、貴女様が、この絵画を……」


 セバスチャンの言葉を遮るように、夫人が顔を覆い、すすり泣いた。

「ごめんなさい……あなた……。その、私、この絵画が、どうしても気に入らなくて……。それで、隠そうと……」


 夫人の言葉は、消えなかった。論理的な矛盾を含んでいなかったからだ。


 公爵は、呆然と夫人を見つめた。

「私の、大切な絵画を……夫人が……!?」


 エリスは、またも状況が理解できない。

(お母様、なんで泣いてるんだろう? もしかして、絵がなくなって悲しいの? でも、絵は、ここに描いてあるのに……)


 エリスは、無邪気に指で壁のシミをなぞった。その指先には、微かな絵の具の感触が残っていた。


 セバスチャンは、真実を確信した。公爵夫人は、透明な絵の具を用いて、壁に直接、前の絵画を模写するかのように描き直していたのだ。夫人は、絵画を「隠した」つもりでいたが、実際には「描いた」のだ。そして、エリスが聞いた「絵を描く音」は、まさしく夫人が描いていた音だった。夫人の「誰も入っていない」という嘘は、エリスの能力によって消し去られたが、それは夫人が**「誰かに見られたくない」という心理的な理由**からついた嘘だったため、絵画の消失そのもののトリックとは別の層の嘘であった。


 セバスチャンは、そっとエリスの手から絵筆を受け取った。

「公爵様、夫人。この絵画は、盗難ではございません。夫人が、**『不可視の筆跡』**で、この壁に直接描き直されたものかと」


 公爵夫人は、顔を上げ、驚愕の表情でセバスチャンを見つめた。

「な、なぜそれを……」


 セバスチャンは、深々と頭を下げた。

「エリス様が、その絵筆を拾われ、壁から絵の具の匂いがするとおっしゃいました。そして、何よりも、夫人の『誰も入っていない』という言葉が、エリス様の能力によって消え去った。その事実が、夫人が図書室にいたこと、そして『絵を描く音』が真実であったことを証明しております」


 公爵は、絶句した。夫人は、顔を赤らめ、俯いた。


 エリスは、図書室の空っぽの壁を、またも不思議そうに見つめていた。

(なんで、みんなには見えないのかなぁ。すごく素敵な絵なのに)


 彼女には、壁に描かれた透明な薔薇の絵が、鮮やかに見えているかのようだった。


 セバスチャンは、心の中で呟いた。

(公爵令嬢エリス様。貴方様の無自覚な一言が、嘘を消し去り、真実を浮かび上がらせる。そして、わたくしは、その残された真実の断片から、論理を再構築する。……貴方様は、やはり底知れない)


 公爵令嬢エリスが巻き起こす、無自覚な論理の破壊と、デタラメ推理の道は、いよいよ深まっていく。

この作品もお試し作品なので、人気がないようでしたら、この作品もここで終わりになります。

感想などがありましたら、いただけますと嬉しいです。

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