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第4話:庭園の密室と、記憶の改変

翌日、公爵邸の庭園は、朝の光に包まれ、露を宿した花々が宝石のように輝いていた。しかし、その美しい景観とは裏腹に、公爵家には再び不穏な空気が漂っていた。


 庭師のリーダーである老齢のサイモンが、庭園の一角にある豪華なガラス張りの温室の前で、血相を変えて立ち尽くしていた。彼の足元には、無残にも茎を折られた、珍しい品種の白薔薇が散乱している。


「ま、まさか……こんなことが……」


 セバスチャンが駆け寄ると、サイモンは震える声で訴えた。

「執事様! わたくしの、わたくしの丹精込めた薔薇が……! しかも、温室の鍵は、私が昨夜、確かに閉めておいたはずなのに、なぜか開いておりました!」


 セバスチャンは温室の扉を確認した。確かに鍵は開いている。そして、扉のガラスには、まるで誰かが押し入ろうとしたかのような、不自然な指紋のような痕跡が幾つか残されていた。

(温室は、外から鍵をかけると、内側からは開けられない構造になっている。そして、鍵はサイモンが持っていたはず。不審者の侵入形跡もなし。……密室、か)


 セバスチャンは、眉をひそめた。昨日からの連続だ。


「サイモン。昨夜、この温室に誰かが近づくのを見た者は?」


「それが……わたくしが温室を施錠した後、しばらくして、エリス様がお一人で庭園を散策しておられましたな。あとは、夜警の者が巡回していたかと」


 サイモンの言葉に、セバスチャンはハッと息を飲んだ。エリス様?


 その時、庭園の小道から、花冠を頭に乗せたエリスが、スキップしながら現れた。


「セバスチャン! サイモン! 見て見て、可愛いお花があったから、花冠作ってみたの!」


 エリスは無邪気に微笑む。その手には、色とりどりの小花で編まれた、愛らしい花冠が揺れている。彼女の髪には、薔薇の棘が一本、絡みついていた。


 セバスチャンは、エリスの髪の棘に気づいた。そして、温室の扉に残された不自然な痕跡に、再び目をやった。

(……まさか、エリス様が?)


 セバスチャンは、冷静さを保ちつつ、エリスに尋ねた。

「エリス様。夜分恐れ入りますが、昨夜、温室の近くを通られましたか?」


「え? うん、通ったよ! だって、セバスチャンが『夜の庭園も美しいですよ』って教えてくれたから、お散歩してみたんだもん!」


 エリスの無垢な返答に、セバスチャンは固まった。

(わたくしが、そのようなことを?)


 セバスチャンの脳裏に、**一瞬のノイズが走る。そして、彼の記憶の中で、「エリスに夜の庭園散策を勧める自分」という場面が、ふわりと霞んで消えた。**彼は、そのような会話をした記憶が、綺麗に抜け落ちていた。


「……え?」


 セバスチャンが困惑していると、エリスは首を傾げた。

「セバスチャンってば、また話がコロコロ変わるわねぇ。ついさっきまで、すごく綺麗な夜のお庭の話をしてたのに」


 エリスは、無邪気に笑う。セバスチャンの額に、冷や汗が滲んだ。

(エリス様の能力が発動した……。つまり、わたくしがエリス様に夜の庭園散策を勧めた、という事実は、論理的な矛盾を含んでいた、ということになる。だが、なぜ? そして、その矛盾が解消されたことで、何が真実として浮上したのだ?)


 セバスチャンの脳内が、急速に回転し始めた。

 エリスは昨夜、温室の近くにいた。温室の鍵は開いていた。そして、エリスの髪には薔薇の棘。温室の扉には、指紋のような痕跡。


(エリス様は、ご自身で温室に入られた、ということか? しかし、施錠されていた温室に、どうやって?)


 セバスチャンは、温室の扉の取っ手部分を凝視した。そこに、僅かな引っかき傷のような跡を見つけた。それは、細いもので引っかいたような、微細な傷だった。


「サイモン。この温室の鍵穴は、最近何か変わりましたか?」


「いえ、執事様。長年、この温室は同じ鍵を使用しております。頑丈で、ピッキングなど不可能です」


 サイモンの言葉は、セバスチャンの思考を一時停止させた。ピッキングが不可能ならば、エリスが施錠された温室に入った、という可能性は低い。しかし、エリスの言葉は「嘘」を消したのだ。


(エリス様が温室に入った、という事実自体が、論理的に矛盾しているわけではない。矛盾しているのは、「施錠された温室に、エリス様が入った」という前提だ……)


 セバスチャンは、エリスの言葉と、消え去った自身の記憶を繋ぎ合わせた。

 エリスは「セバスチャンが勧めたから庭園に行った」と言った。その部分の記憶が消えた。つまり、セバスチャンが勧めていないのに、エリスが庭園に行った、という事実が、エリスの言葉によって浮上したのだ。


 そして、最も重要なこと。エリスの髪に絡みついた薔薇の棘。そして、温室の扉の不自然な痕跡。


(温室は、外から鍵をかけると、内側からは開けられない。だが、それは**「正規の方法」で施錠されている場合**だ。もし、鍵が……)


 セバスチャンは、温室の鍵穴をもう一度、綿密に調べた。そして、僅かに、しかし明確な**「歪み」**を発見した。それは、鍵穴の内部が、何らかの衝撃によって歪められている跡だった。


「サイモン! この温室の鍵は、最後にいつ確認されましたか?」


「え? わたくしが毎朝、施錠されているか確認しておりますが……」


 サイモンの言葉に、セバスチャンは首を振った。

「そうではない。鍵をかける際に、何か異常はなかったか、と聞いているのです」


 サイモンは、記憶を辿るように考え込んだ。

「そう言えば、昨日の夕方……温室の鍵が、少し固く感じられたような。強めに押し込まないと、鍵が回らなかったような気が……」


 その瞬間、セバスチャンの脳裏に、パズルが完成する音が響いた。


(なるほど……! エリス様は、昨夜、夜の庭園を散策された。その際、開いていた温室に、好奇心から入られた。そして、中で珍しい薔薇を折ってしまった。慌てて温室を出ようとしたが、温室の鍵が元々壊れていて、内側から開けられなくなっていた! エリス様は、無意識のうちに鍵穴を無理やりこじ開けようとして、あの痕跡を残し、その際に髪に棘を絡ませた。そして、なんとか温室を出た後、温室の鍵は、内側から無理やり開けられた衝撃で、不完全に閉まってしまったのだ! だから、サイモンが鍵をかける時に固かった。温室は、見かけ上は閉まっていたが、実際は施錠されていなかった!)


 セバスチャンの推理は、一瞬にして目の前の光景を組み替えた。エリスの言葉が消し去った「私自身が勧めた」という記憶。それは、エリスが「言われたから行った」という理由が嘘だったこと、つまり「自らの意思で」温室に近づいたことを意味していたのだ。


 セバスチャンは、エリスに静かに視線を向けた。


「エリス様。もしかして、温室の中の薔薇を折ってしまわれたのは……貴方様でございますか?」


 エリスは、ハッと目を見開き、花冠を落とした。その顔は、真っ赤に染まっている。

「え、えっと……その、あのね、可愛かったから、ちょっとだけ……」


 エリスは、小さな声で白状した。その言葉は、**消えなかった。**論理的な矛盾を含んでいなかったからだ。


 サイモンは、絶句した。

「エ、エリス様が……!?」


 セバスチャンは、深々と頭を下げた。

「サイモン。誠に申し訳ございません。今回の薔薇の損傷は、エリス様による不慮の事故でございました。温室の鍵穴も、以前から不調であった可能性がございます。至急、修理の手配をさせていただきます」


「そ、そんな……」


 サイモンは呆然としていたが、セバスチャンの真摯な態度と、エリスの正直な告白に、やがて頷いた。


 エリスは、バツが悪そうに俯いた。

「ごめんなさい、サイモン……薔薇さん、痛かったわよね……」


 サイモンは、エリスの純真な謝罪に、むしろ胸を打たれたようだった。

「いえ、エリス様。貴方様が無事であれば、それで……。ですが、今後はどうか、お気をつけて」


 セバスチャンは、再び夜空を見上げた。いや、今は朝の庭園だった。

 この公爵令嬢の無邪気さが、真実を露わにする。そして、その過程で消え去った言葉が、新たな「真実」への道を示す。


 これは、公爵令嬢エリスが巻き起こす、無自覚な論理の破壊と、デタラメ推理の、新たな形に過ぎなかった。

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