第3話:執事セバスチャンの“記憶の再構築
セバスチャンは、公爵令嬢エリスの部屋を出てすぐ、廊下の角で立ち止まった。手帳を開き、先ほどまで記載されていたはずのマルグリット・デュポン伯爵令嬢の証言部分を凝視する。そこは確かに空白だった。
先日のアルバート子爵の件といい、今日のセリーナ、そして今、デュポン令嬢の証言。エリス様の周囲で起こる**「言葉と記憶の消失」**。これは偶然ではない。
(エリス様の言葉が、論理的矛盾を孕んだ発言を、現実から、そして人々の記憶から消し去る……)
セバスチャンは、深く息を吐いた。長年の執事生活で培った冷静さをもってしても、この超常現象には動揺を禁じ得ない。しかし、同時に彼の推理の虫が疼いた。
(デュポン令嬢は、「ルルカ令嬢の部屋に施錠した」と偽証した。だが、エリス様が指摘した通り、ルルカ令嬢は鍵をかけ忘れる癖がある。では、なぜデュポン令嬢は嘘をついたのか? そして、もし部屋に鍵がかかっていなかったのなら、誰が首飾りを盗んだのか?)
セバスチャンの脳裏に、夜会の参加者リストが浮かび上がる。公爵邸の構造、使用人たちの動き、そしてゲストたちの行動。あらゆる情報がパズルのピースのように散らばり、彼の中で急速に再構築されていく。
彼はまず、ルルカ・リベルテ子爵令嬢の部屋へと向かった。部屋の前では、いまだ取り乱した様子のルルカ令嬢と、彼女を慰めるデュポン令嬢の姿があった。
「セバスチャン! まだ犯人は見つからないの!? 私の首飾りは!?」
ルルカ令嬢が、セバスチャンを見るなり詰め寄った。その瞳は、涙で潤んでいた。
「ご安心ください、ルルカ令嬢。わたくしどもも全力を尽くしております。つきましては、恐縮ながら、もう一度いくつかお尋ねしてもよろしいでしょうか」
セバスチャンは、恭しく頭を下げた。ルルカ令嬢は、不満そうにしながらも頷いた。
「デュポン令嬢にも、改めてお話をお伺いしたいのですが」
セバスチャンがデュポン令嬢に視線を向けると、彼女は僅かに顔を引きつらせた。
「わ、わたくしは、先ほどセバスチャン様にお話した通りですわ。ルルカの部屋を出る際、確かに施錠いたしましたもの」
デュポン令嬢は、やや早口で答えた。その言葉には、どこか落ち着かない響きがあった。
(……この証言は、先ほどエリス様によって消し去られたものと、寸分違わない。彼女は今、自らがつき続けている嘘を、真実だと認識しているのか……?)
セバスチャンの脳裏に、エリスの無邪気な言葉が蘇る。「ルルカってば、いつも慌てん坊で、鍵をかけるのをよく忘れちゃうじゃない?」
「デュポン令嬢。では、その施錠された鍵は、どこにございましたか? まさか、施錠した鍵を、そのままルルカ令嬢の部屋に残してこられたわけではございますまい?」
セバスチャンは、真っ直ぐにデュポン令嬢の目を見て問うた。その言葉には、何の感情も籠められていない。
デュポン令嬢は、一瞬たじろいだ。
「そ、それは……わたくしが持っておりますわ」
デュポン令嬢は、自身のドレスのポケットに手をやった。しかし、そこには何もなかった。彼女の顔色が変わる。
その時だった。
デュポン令嬢の口元が、**一瞬、砂嵐が走るテレビ画面のように揺らいだ。彼女の口から出たはずの「わたくしが持っておりますわ」という言葉が、音もなく空中に霧散した。**同時に、彼女の顔に、先ほどセリーナや公爵夫人が見せたような、虚ろな表情が浮かび、そしてハッと我に返る。
「……わたくし、何を……?」
デュポン令嬢は困惑したように、宙を彷徨う手を見つめた。彼女の記憶からは、鍵に関する直前の発言が消え去っている。
セバスチャンは、心の中で舌打ちした。
(エリス様の能力が発動した。つまり、デュポン令嬢は今、「鍵を持っている」という明確な嘘をついたのだ。そして、その嘘は消え去った。……だが、なぜ鍵を持っていないのに、部屋に施錠したと偽証する?)
彼は、ルルカ令嬢に視線を向けた。
「ルルカ令嬢。大変申し訳ありませんが、貴女の宝石箱は、どのようにして開けられておりましたか?」
「え? それが、鍵がかかっていたのに、なぜか開いていて……」
ルルカ令嬢が答えた途端、彼女の顔にもノイズが走り、言葉が消え去った。
セバスチャンは、再び冷や汗をかいた。
(「鍵がかかっていたのに、なぜか開いていた」……この発言も、論理的に矛盾している。つまり、宝石箱は施錠されていなかったか、あるいは……)
彼の思考が、再び加速する。エリスの能力が、次々と偽証を暴き、真実のピースを「消去法」で炙り出していく。
(ルルカ令嬢の部屋の鍵は、かけられていなかった可能性が高い。そして、宝石箱の鍵も、かかっていなかった可能性。だが、ルルカ令嬢は、自分で鍵をかけていたと信じ込んでいる。……そうか!)
セバスチャンは、静かにデュポン令嬢に視線を向けた。
「デュポン令嬢。貴女は、ルルカ令嬢の宝石箱の鍵を、ご存じでございますか?」
デュポン令嬢は、ギクリと体を震わせた。彼女の顔から、再び血の気が引いていく。
「な、何を……わたくしが、そんなものを知るはずが……」
空間が、三度揺らめいた。
デュポン令嬢の否定の言葉が、**「パリンッ」という乾いた音と共に消滅した。**彼女は顔を覆い、ガタガタと震え始めた。
セバスチャンは、確信した。
(デュポン令嬢は、**ルルカ令嬢の宝石箱の鍵の在処を知っている。**あるいは、その鍵自体を持っている。彼女が隠そうとしているのは、首飾りの場所ではない。自分が、宝石箱を開けたという事実そのものだ!)
彼の脳内で、パズルが完成する音が響いた。ルルカ令嬢の鍵のかけ忘れ。デュポン令嬢による偽証。そして、宝石箱の鍵の知識。
「デュポン令嬢。わたくしの推理が正しければ、貴女はルルカ令嬢の部屋の鍵を、施錠せずに持ち出しており、そして、ルルカ令嬢の宝石箱の鍵も、以前から所有していた。よって、貴女は、誰にも気づかれることなく、ルルカ令嬢の部屋から首飾りを持ち出すことが可能であった。……そのような認識でよろしいでしょうか?」
セバスチャンの言葉は、氷のように冷たく、正確だった。
デュポン令嬢は、ガクリと膝をつき、顔を上げた。その瞳には、絶望と、そして隠しきれない嫉妬の色が浮かんでいた。
「わたくしは……わたくしはただ、ルルカがいつもちやほやされるのが羨ましかっただけ……。ほんの少し、困らせてやろうと……」
その言葉は、消えなかった。論理的な矛盾を含んでいなかったからだ。
ルルカ令嬢は、親友の告白に、ただ呆然と立ち尽くしていた。
その一部始終を、エリスはベッドの上で、大あくびをしながら聞いていた。
(うーん、なんか、みんな難しいお話してるわねぇ。眠くなっちゃった)
彼女は、欠伸を噛み殺し、再びふかふかの枕に顔を埋めた。
セバスチャンは、すべてを終えてエリスの部屋に戻ると、疲労困憊の表情で静かに報告した。
「エリス様。首飾りは、デュポン令嬢のドレスの裾に隠されておりました。ルルカ令嬢の部屋の鍵は、やはりかけられておらず、宝石箱も鍵がかかっていない状態だったようです」
「へぇー、そうなの。よかったわね、首飾り見つかって」
エリスは、既に眠そうだった。セバスチャンは、そんなエリスの頭を、そっと撫でた。
(この方の無邪気さが、真実を暴き、時には嘘を消し去る。そして、わたくしは、その残された真実の断片から、論理を再構築する。……公爵令嬢エリス様。貴方様は、やはり底知れない)
セバスチャンは、夜空の月を見上げた。
公爵令嬢エリスが巻き起こす、無自覚な論理の破壊と、デタラメ推理の道は、始まったばかりだった。