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第2話:消えた首飾りと、見えない証言

その日の夜、エリスは自室の豪華な天蓋付きベッドで、満ち足りたため息をついた。今日の夕食は、アルバート子爵のせいで少しばかり騒がしくなったが、最終的にデザートのチョコレートケーキが丸ごと自分のお皿に乗せられたのだから、結果オーライというものだ。


「んふふ……幸せ」


 ふかふかの枕に顔を埋め、明日のおやつのことを考えていると、コンコン、と控えめなノックの音がした。


「エリス様、執事のセバスチャンでございます。少々よろしいでしょうか?」


 落ち着いた、しかしどこか疲れたような声が聞こえる。セバスチャンは公爵家を長年支える老執事だ。常に冷静沈着で、どんな時も完璧な立ち居振る舞いを崩さない。今日のような晩餐会の後では、さぞ疲れていることだろう。


「はーい、どうぞー!」


 エリスが返事をすると、ドアが静かに開いた。セバスチャンはいつも通り無表情だが、その瞳の奥には微かな疲労の色が見て取れた。


「夜分に申し訳ございません。実は、少々困ったことが起こりまして」


 セバスチャンは、そう前置きした。彼の声には、僅かながら焦りの色が滲んでいる。エリスは上体を起こし、目を丸くした。


「困ったこと? なぁに? もしかして、明日の朝食のパンが焦げちゃったとか?」


「いえ、そのような些末なことではございません。……ご婦人方の間で、盗難事件が発生いたしました」


 セバスチャンの言葉に、エリスはぱちくりと瞬きをした。盗難事件、と聞いても、エリスの中では「明日の朝食のパン」と同じくらいの重大度でしかなかった。


「盗難? 誰かのケーキがなくなったの?」


「いいえ。……ルルカ・リベルテ子爵令嬢の、形見の首飾りが忽然と姿を消した、とのことです」


 ルルカ・リベルテ子爵令嬢。公爵夫人が主催する定期的な婦人会によく顔を出す、快活な令嬢だ。つい先日も、エリスは彼女と庭園で摘んだ花で花冠を作ったばかりだ。


「形見の首飾り、ですか……それは大変ね」


 エリスは、少しだけ真剣な表情になった。形見、と聞けば、それがどれほど大切なものかは理解できたからだ。


「はい。現在、リベルテ子爵令嬢は非常に取り乱しておられます。すでに公爵様にもご報告済みですが、わたくし共も、まずは事実関係の確認を急いでおります」


「ふむふむ。で、何か分かったの?」


「はい。幾つかの証言を得られました。まず、ルルカ令嬢は、首飾りを『晩餐会の始まる直前まで、自室の宝石箱に入れていた』と。そして、夕食後、自室に戻ったところ、鍵のかかっていたはずの宝石箱が開いており、首飾りが消えていた、と」


 セバスチャンは、淀みなく説明した。彼の脳内では、すでに幾つもの情報が整理され、繋ぎ合わされているのだろう。


「ふうん。鍵がかかってたのに? じゃあ、泥棒さん?」


「その可能性は高いかと。しかし、邸内に不審者の侵入形跡は一切ございません。そこで、わたくし共は、晩餐会の間、公爵邸に滞在されていたゲストの中に、犯人がいるのではないかと疑っております」


「えー、やだなぁ。まさか、お友達の中に悪い人なんているわけないじゃない」


 エリスは唇を尖らせた。その言葉は、セバスチャンの心に微かな衝撃を与えた。

(「まさか、友達の中に悪い人なんているわけない」……か。その無垢な言葉が、時には真実を暴き、時には嘘を消し去る。先日のアルバート子爵の件を鑑みるに、これは……)


 セバスチャンは、微かに眉を動かした。彼はエリスの能力の存在を、アルバート子爵の事件で既に確信していた。そして今、彼女の何気ない発言が、事件の核心に触れる可能性を秘めていることに、密かな期待を抱いていた。


「……現在、リベルテ子爵令嬢と、ご友人のマルグリット・デュポン伯爵令嬢の証言を再確認しております」


 セバスチャンは、話題を続けた。


「デュポン令嬢? あの子もいるのね!」


 マルグリット・デュポン伯爵令嬢は、ルルカ令嬢の親友だ。いつも二人で行動していることが多い。


「はい。デュポン令嬢は、ルルカ令嬢の部屋には鍵がかかっており、晩餐会の間、誰も入っていないことを確認した、と証言しております。ルルカ令嬢が首飾りを置いて部屋を出た後、ご自身で施錠した、と」


 セバスチャンは、手帳に記された情報を確認しながら言った。


「ふうん……じゃあ、やっぱり泥棒さんなのかなぁ」


 エリスは再び首を傾げた。その時だ。


「でも、おかしいわ、セバスチャン」


 エリスの声が、セバスチャンの耳に届いた。

 彼の背筋に、微かな緊張が走る。


「だって、ルルカってば、いつも慌てん坊で、鍵をかけるのをよく忘れちゃうじゃない? こないだも、自分で『鍵を閉め忘れて、お母様に怒られちゃったわ』って、困ってたもん!」


 エリスの言葉は、まるで子供が日常の出来事を話すかのように、純粋な響きを持っていた。しかし、セバスチャンの脳内では、その言葉が稲妻のように駆け巡った。


 空間が、微かに、そして激しく揺らめいた。

 セバスチャンの手元にある手帳に書かれた、デュポン令嬢の証言が、白い光の粒子となって瞬時に消え去った。同時に、セバスチャンの脳裏にあった「デュポン令嬢の確かな証言」という記憶が、泡のように弾けて消滅した。


「……っ!?」


 セバスチャンは、自身の記憶の変容に、一瞬言葉を失った。脳が、消えた情報を必死に再構築しようとしている。彼の額に、冷たい汗が滲んだ。


 エリスは、セバスチャンの反応に全く気づかず、続ける。

「だから、ルルカが鍵を閉め忘れてたのに、デュポンさんが『私が鍵を閉めたの』って言ってるのって、変じゃない?」


 セバスチャンは、激しく瞬きをした。

 彼の記憶からは、デュポン令嬢の「私が施錠した」という証言が消滅している。しかし、エリスの言葉が残した**「ルルカ令嬢が鍵をよく忘れる」という情報と、「デュポン令嬢が不自然な発言をした」という事実**だけが、明確に彼の脳内に刻み込まれていた。


(つまり、デュポン令嬢の証言には、明らかに論理的な矛盾があった。そして、その矛盾した発言は、エリス様の能力によって「無かったこと」にされた……! だが、なぜデュポン令嬢は、そのような偽証を?)


 セバスチャンの思考が、急速に加速する。

 首飾りの盗難。不審者の侵入形跡なし。そして、ルルカ令嬢の部屋は「鍵がかかっていたはず」という証言の矛盾。


(もし、デュポン令嬢が「施錠した」という証言が嘘ならば……ルルカ令嬢の部屋は、最初から施錠されていなかったか、あるいは……)


 セバスチャンの脳裏に、一つの可能性が閃いた。


「セバスチャン? どうしたの? また固まっちゃった」


 エリスが、心配そうにセバスチャンの顔を覗き込んだ。


「いえ、エリス様。わたくしはただ、今、貴方様の無垢な指摘が、事件の霧を晴らす糸口となると確信いたしましたので」


 セバスチャンは、深々と頭を下げた。彼の顔には、微かな決意の色が浮かんでいた。


(デュポン令嬢は、何らかの理由で、部屋が施錠されていたと偽証した。そして、ルルカ令嬢は、習慣として鍵をかけ忘れた可能性が高い。……そうなると、容疑者の範囲は、一気に絞り込まれる)


 セバスチャンは、手帳を閉じ、静かに立ち上がった。


「では、エリス様。わたくしは、もう一度デュポン令嬢にお話を聞いてまいります。今度は、より深く、隠された真実を引き出せるでしょう」


「え? 頑張ってねー! セバスチャンってば、なんだかいつも忙しそうね」


 エリスは、無邪気に手を振った。


 セバスチャンは静かに部屋を後にした。彼の脳内では、エリスの言葉によって引き起こされた「情報操作」の余波と、そこから導き出される新たな推理が、熱を帯びていた。


 これは、公爵令嬢エリスが巻き起こす、無自覚な論理の破壊と、デタラメ推理の、新たな一歩に過ぎなかった。

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