第14話:盗まれた宝石と、記憶の改ざん
その日の午後、公爵邸の庭園に面した温室で、公爵夫人が再び顔色をなくして立ち尽くしていた。彼女の手に握られた、空っぽの豪華な宝石箱。中には、先日、公爵から贈られたばかりの、大粒のエメラルドのネックレスが収められているはずだった。
「セバスチャン! 私の、大切なネックレスが……! まさか、また盗難だなんて……!」
夫人が、今にも泣き出しそうな声で訴えた。温室は、朝、サイモンが施錠したばかりであり、窓も全て閉まっていた。不審者の侵入形跡は一切ない。
「申し訳ございません、夫人。私も今、確認したところでございます。温室の鍵はかかっておりましたが、宝石箱だけが……」
セバスチャンは、眉をひそめていた。またしても、密室での消失事件だ。しかも、盗まれたのは、高価な宝石だ。
その時、温室の入り口から、エリスが顔をのぞかせた。彼女の首元には、キラキラと輝く、どこか見覚えのあるエメラルドのネックレスが光っていた。
「わぁ! お母様、このネックレス、すごく綺麗だね! 私、お父様が『エリスに似合うと思って、お母様がくれたんだよ!』って言ったから、つけてみたんだもん!」
エリスは、無邪気にネックレスを指差した。
公爵夫人の顔色が変わった。公爵もまた、驚いた表情でエリスを見た。
「エリス! 何を言い出す! そのネックレスは、夫人に贈ったもので、まだ誰にも渡していないはずだ!」
**空間が、激しく波打ち、歪んだ。公爵の記憶の中で、エリスが発した「お母様がくれたんだよ」という言葉と、それに続く「エリスに似合うと思って」という言葉にまつわる会話の記憶が、ガラスが砕けるように消え去った。**公爵の瞳が虚ろに揺らぎ、ハッと我に返った。
「……わしは、何を……?」
公爵は困惑したように周囲を見回した。
セバスチャンの背筋に、氷のような冷たさが走った。
(エリス様の能力が発動した……! つまり、公爵様が「夫人からエリスに渡された」という事実を否定した言葉は、論理的な矛盾を孕んでいた、ということになる。なぜ? そして、その矛盾が解消されたことで、何が真実として浮上したのだ?)
セバスチャンは、エリスの首元のエメラルドの輝きと、消え去った公爵の記憶を繋ぎ合わせた。
公爵は「まだ誰にも渡していない」と主張したが、エリスは「お母様がくれた」と言った。そして、その「お母様がくれた」という部分の公爵の記憶が消えた。つまり、夫人はエリスにネックレスを渡した。
(しかし、夫人はネックレスが盗まれたと信じている。そして、今にも泣き出しそうだ。これは矛盾する。夫人は、ネックレスをエリスに渡したという事実を、なぜ忘れてしまっているのか? あるいは、何か、その事実を上書きするような出来事があったのか?)
セバスチャンは、温室のテーブルの上に置かれた、小さなメモ用紙に気づいた。それは、公爵夫人が最近凝っている香水調合のレシピが書かれたメモだった。そのメモの隅に、**エメラルドのネックレスの絵が描かれ、その下に小さく「エリスへ」と書かれている。**しかし、そのメモは、まるで誰かが急いで破り捨てたかのように、端が不自然に千切れてしまっていた。
セバスチャンは、公爵夫人を静かに見つめた。
「夫人。失礼ながら、そのネックレスをエリス様にお渡しになった際、何かいつもとは違うことはございませんでしたか? 例えば、何かを急いで書いたり、あるいは、誰かと口論になったり……」
公爵夫人が、ギクリと体を震わせた。彼女の顔色から、一気に血の気が引いていく。
「な、何を言われるのですか、セバスチャン! わたくしが、そんな……!」
**空間が、激しく揺らめいた。夫人の否定の言葉が、「パリンッ」と音を立てて消滅した。**彼女は顔を覆い、ガタガタと震え始めた。
セバスチャンは確信した。
(夫人は、ネックレスをエリスに渡した際に、何か重要なことを隠している。そして、その行動は、彼女自身の記憶に影響を与えている……!)
セバスチャンは、破られたメモ用紙の断片を手に取った。千切られた部分には、まだインクの跡が残っている。それは、まるで、「エリスへ」という文字だけを残して、何か別の言葉が書かれていた部分が破り取られたかのようだった。
「夫人。もしかして、貴女様は、エリス様にネックレスをお渡しになった際、『このネックレスは、私のものです』という言葉を書き添えていたのではありませんか? そして、その直後、何らかの理由でその言葉を消し去る必要が生じ、メモを破り捨て、その事実を忘れてしまわれたのでは!?」
セバスチャンの言葉に、公爵夫人の顔が真っ青になった。彼女は、目を見開き、震える声で告白した。
「……っ! わたくしは、娘に**『このネックレスは、将来、貴女が大人になったら私のものになるわ』と伝えたかったのです……。しかし、それを書いた途端、夫が『今すぐエリスに渡せ』と激怒したので、慌ててメモを破り、『エリスに贈った』と無理やり記憶を書き換えた**のです……! それで、完全に忘れてしまって……」
夫人の告白は、消えなかった。論理的な矛盾を含んでいなかったからだ。
公爵は、絶句した。
「私が、そんなことを……!?」
エリスは、またも状況が理解できない。
(お母様、何で泣いてるんだろう? このネックレス、私に似合わないのかなぁ?)
彼女は、キラキラと輝くエメラルドのネックレスを、さらに強く握りしめていた。
セバスチャンの脳内で、全てのパズルが完成した。
(なるほど! 夫人は、エリスにネックレスを渡した際に、「これは将来、あなたのものになる」という条件付きのメッセージを書き添えようとした。しかし、公爵がそれに激怒し、「すぐに贈れ」と命じたため、夫人はそのメッセージを破棄し、自らの記憶をも「贈った」という都合の良いものに書き換えてしまったのだ! だからこそ、ネックレスが「盗まれた」と思い込み、その事実を巡る公爵の記憶も矛盾していたのだ!)
セバスチャンは、深々と頭を下げた。
「公爵様、夫人。ネックレスは、盗難ではございません。夫人がエリス様に贈られましたが、その際に、貴女様ご自身で、その事実に関する記憶を『改ざん』なさったものかと存じます。エリス様の首元の輝きが、何よりもその証拠でございます」
公爵夫妻は、顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
エリスは、温室の真ん中で、輝くネックレスを誇らしげに揺らしていた。
(このネックレス、私だけのものだもんね!)
セバスチャンは、心の中で呟いた。
(公爵令嬢エリス様。貴方様の無垢な一言が、嘘を消し去り、真実を浮かび上がらせる。そして、その真実は、時に、人々の**『都合の良い記憶の改ざん』**という、恐ろしくも人間臭い一面をも暴き出す。……このデタラメ推理の道は、果てしなく続く)