第12話:『失われた香水と、無垢な告発』
その日の午後、公爵邸の裏庭では、使用人たちが慌ただしく動き回っていた。公爵夫人が大切にしている、世界で一つしかないと言われる希少な香水瓶が、彼女の私室から忽然と消え失せていたのだ。その香水は、夫人が若い頃に公爵から贈られた思い出の品であり、何よりも大切にしていたものだった。
セバスチャンは、公爵夫人から事情を聞いていた。夫人は、今にも泣き出しそうな顔で、震える声で訴えた。
「セバスチャン、私の香水瓶が! 私は、確かに今朝、ドレッサーの上に置いておいたはずなのに……。まさか、盗難だなんて……」
夫人の私室は、厳重に施錠されており、窓も開いていなかった。不審者の侵入形跡は一切ない。
「申し訳ございません、夫人。私共も、徹底的に捜索いたしましたが、今のところ見つかっておりません」
セバスチャンは、眉をひそめていた。またしても、密室での消失事件だ。
その時、裏庭の花壇のそばで、エリスが小さな蕾を覗き込んでいた。彼女の指先には、微かに、しかし確かに、甘く高貴な香水の香りが漂っていた。
「あ、お母様! もしかして、あの香水瓶のこと言ってるの? あれね、さっき、お母様が、私に『新しいお花の匂いだよ』って、つけてくれたんだよ!」
エリスは、無邪気に自分の指先を差し出した。
公爵夫人の顔色が変わった。彼女は、慌ててエリスの手を取り、何かを隠すようにする。
「エリス! 何を言い出すのです! そんなはずは……」
**空間が、激しく波打ち、歪んだ。公爵夫人の口から放たれた「そんなはずは」という言葉と、それに続く否定の言葉が、ガラスが砕けるように消え去った。**彼女の瞳が虚ろに揺らぎ、ハッと我に返った。
「……わたくし、何を……?」
夫人は困惑したように、宙を彷徨う手を見つめた。彼女の記憶からは、直前の否定の言葉が消え去っていた。
セバスチャンの背筋に、氷のような冷たさが走った。
(エリス様の能力が発動した……! つまり、夫人が「つけていない」と否定した言葉は、論理的な矛盾を孕んでいた、ということになる。なぜ? そして、その矛盾が解消されたことで、何が真実として浮上したのだ?)
セバスチャンは、エリスの指先から漂う香水の香り、そして消え去った夫人の記憶を繋ぎ合わせた。
夫人は「つけていない」と嘘をついたが、エリスは「つけてくれた」と言った。つまり、夫人はエリスに香水をつけた。にもかかわらず、なぜその事実を隠す?
(夫人は、香水を大切にしている。それをエリス様につけたことを隠す理由などない。香水瓶が消えたことを悲しんでいたのだから。……まさか、香水瓶は最初からドレッサーになかったのではないか?)
セバスチャンは、夫人の私室のドレッサーを思い出した。そして、夫人が今朝、公爵と口論していたという使用人の証言を頭の中で再生した。口論の原因は、公爵夫人が最近、公爵からの贈り物である指輪を失くしたと公爵に嘘をついたことだったという。
セバスチャンは、夫人に静かに問いかけた。
「夫人。失礼ながら、その香水瓶は、今朝、本当にドレッサーの上にございましたか?」
公爵夫人が、ギクリと体を震わせた。その顔色は、再び青ざめる。
「な、何を言われるのですか、セバスチャン! わたくしが、そんな……!」
**空間が、激しく揺らめいた。夫人の否定の言葉が、「パリンッ」と音を立てて消滅した。**彼女は顔を覆い、ガタガタと震え始めた。
セバスチャンは確信した。
(夫人は、香水瓶がドレッサーにあったと嘘をついた。そして、エリス様に香水をつけたことも隠した。つまり、香水瓶はドレッサーになかった。そして、夫人は、エリス様に香水をつけた際に、その瓶をどこかに置いてしまった。……だが、なぜ、その事実を隠す? なぜ、ドレッサーにあったと嘘をつく?)
セバスチャンは、夫人が最近「指輪を失くしたと嘘をついた」という使用人の証言と、この香水瓶の件を重ね合わせた。
(夫人には、物を失くす癖がある。しかし、それを公爵に正直に報告せず、「失くしていない」あるいは「別の場所にある」と嘘をついてしまう癖があるのだ……!)
セバスチャンは、ハッと顔を上げた。
「夫人! その香水瓶は、もしかして、最近、貴女様が『失くした』と公爵様にはお伝えになったが、実際には失くしていなかった、その指輪と同じ場所に、ございませんか!?」
セバスチャンの言葉に、公爵夫人の顔が真っ赤になった。彼女は、目を泳がせ、どもりながら答えた。
「そ、それは……わたくしが、公爵様に、『失くした』と嘘をついた、あの『思い出の小箱』の底に……」
夫人の告白は、消えなかった。論理的な矛盾を含んでいなかったからだ。
セバスチャンは、深々と頭を下げた。
「夫人。その香水瓶は、貴女様の私室にある**『思い出の小箱』の底**に、無事保管されているかと存じます」
公爵夫人は、顔を覆ったまま、安堵のため息をついた。
「ああ……セバスチャン……! 恥ずかしい限りですわ……!」
エリスは、またも状況が理解できない。
(香水、そんな大事なものなのかなぁ。でも、お花と同じくらい良い匂いだったなぁ)
彼女は、鼻歌を歌いながら、花壇の蕾に優しく触れていた。
セバスチャンは、心の中で呟いた。
(公爵令嬢エリス様。貴方様の無垢な一言が、嘘を消し去り、真実を浮かび上がらせる。そして、その真実は、常に人間が抱える、**些細な、しかし複雑な「見栄」や「癖」**をも暴き出す。……このデタラメ推理の道は、果てしなく続く)
公爵令嬢エリスが巻き起こす、無自覚な論理の破壊と、デタラメ推理の道は、どこまでも続く。