第11話:騎士団長の傷跡と、消えた栄光
その日の午後、公爵邸の訓練場は、静まり返っていた。普段なら騎士たちの剣と盾がぶつかる音が響き渡るはずの場所は、今日は重苦しい沈黙に包まれている。公爵とセバスチャンは、訓練場の片隅で、若き騎士団長、レオンハルト・フォン・シュバルツァーと向き合っていた。レオンハルトは、公爵家が誇る若き英雄であり、その武勇は国内外に広く知れ渡っていた。しかし、彼の顔は蒼白で、右腕を痛々しげに吊り下げていた。
「レオンハルト! 一体どうしたのだ!? 昨日の訓練中に、なぜそのような大怪我を……」
公爵が、心配そうに尋ねた。
「申し訳ございません、公爵様。昨夜の模擬戦で、新兵相手に少々無理をしてしまい……。その際、**不覚にもバランスを崩し、転倒してしまいました。**お恥ずかしい限りです」
レオンハルトは、苦しげな表情で答えた。しかし、彼の視線は、セバスチャンが手に持つ、折れた模造剣の破片へと、一瞬だけ向けられていた。折れた剣の断面は、まるで何かに強く叩きつけられたかのように、不自然に歪んでいた。
「新兵相手に、そんな大怪我を? レオンハルトほどの腕前であれば、ありえないことだ」
公爵夫人が、信じられないという表情で呟いた。
その時、訓練場の隅で、剣の稽古を真似て棒を振り回していたエリスが、レオンハルトの言葉に反応した。
「あれ? レオンハルトお兄ちゃん! 私、昨日の訓練の時、レオンハルトお兄ちゃんの剣が、すごく大きな音を立てて折れるのを見たんだけど! 転んだ音じゃなくて、もっと、『ガシャン!』って、何かにぶつかったみたいな音だったよ!」
エリスは、棒を振り回しながら、無邪気に叫んだ。
レオンハルトの顔色が変わった。公爵が、眉をひそめてエリスを見た。
「エリス! 何を言い出す! 余計なことを……」
**空間が、激しく波打ち、歪んだ。公爵の記憶の中で、エリスが発した「剣が折れる音」に関する言葉にまつわる会話の記憶が、ガラスが砕けるように消え去った。**公爵の瞳が虚ろに揺らぎ、ハッと我に返った。
「……わしは、何を……?」
公爵は困惑したように周囲を見回した。
セバスチャンの背筋に、氷のような冷たさが走った。
(エリス様の能力が発動した……! つまり、公爵様が「余計なこと」と否定した言葉は、論理的な矛盾を孕んでいた、ということになる。なぜ? そして、その矛盾が解消されたことで、何が真実として浮上したのだ?)
セバスチャンは、エリスの言葉と、消え去った公爵の記憶を繋ぎ合わせた。
レオンハルトは「転倒して怪我をした」と主張したが、エリスは「剣が折れる音を聞いた」。そして、その「音」に関する公爵の否定の言葉が消えた。
(つまり、**レオンハルトは転倒したわけではない。**そして、剣は折れた。だが、なぜレオンハルトは嘘をつく? 新兵との模擬戦で、剣が折れるほどの攻撃を受けたとは考えにくい。レオンハルトほどの腕前であれば、相手の攻撃を受け流すはずだ)
セバスチャンは、折れた模造剣の破片を再び手に取った。剣の断面に、微かな、しかし**不自然な「焦げ付き」**のような跡があるのに気づいた。それは、通常の剣の折れ方とは明らかに異なっていた。
「レオンハルト団長。失礼ながら、昨夜の訓練は、新兵との模擬戦のみでございましたか? 他に、何か、特別な訓練はなさいませんでしたか?」
セバスチャンの問いに、レオンハルトは僅かに顔を歪ませた。
「な、何を言われるのですか、セバスチャン! わたくしが、そんな……!」
**空間が、激しく揺らめいた。レオンハルトの否定の言葉が、「パリンッ」と音を立てて消滅した。**彼は顔を覆い、ガタガタと震え始めた。
セバスチャンは確信した。
(レオンハルトは、**新兵との模擬戦以外に、何か別の「特別な訓練」を行っていた。**そして、その訓練中に、この剣が折れ、彼自身も怪我を負ったのだ。彼の怪我は、転倒によるものではない。では、何が彼を傷つけ、剣を折ったのか? そして、なぜ、その事実を隠そうとする?)
セバスチャンは、訓練場の壁際に立てかけられた、数本の「魔力剣」に目をやった。魔力剣は、魔力を帯びた剣であり、訓練に使用されることは稀だ。そして、その中の一本に、かすかな魔力の残滓を感じた。
「レオンハルト団長。貴方様は、昨夜、魔力剣を使用した訓練をなさいませんでしたか? そして、その訓練の相手は、生身の人間ではなかったのでは?」
セバスチャンの言葉に、レオンハルトは、その場に膝から崩れ落ちた。彼の顔は、絶望と悔恨に満ちていた。
「その通りです……セバスチャン……! わたくしは、来たる王国の騎士団対抗戦に向けて、人知れず『魔力障壁』との実戦訓練を……。しかし、その障壁が、予想以上に強力で……! わたくしの模造剣は折れ、右腕に重傷を負ってしまった……! こんなことを知られれば、騎士団長の威厳が……!」
レオンハルトの告白は、消えなかった。論理的な矛盾を含んでいなかったからだ。
公爵は、目を見開いてレオンハルトを見つめた。
「レオンハルト……! そこまでして、騎士団のために……!」
エリスは、またも状況が理解できない。
(魔力障壁? 何それ、美味しいの?)
彼女は、棒を剣に見立てて、再び楽しそうに振り回していた。
セバスチャンは、深々と頭を下げた。
「レオンハルト団長。貴方様の大怪我は、公爵の威厳を損なうものではございません。むしろ、貴方様の騎士団と王国への献身の証。ですが、今後はどうか、無謀な訓練はお控えください。折れた模造剣の焦げ付きは、魔力障壁による摩擦熱によるものでしょう。貴方様の傷跡は、紛れもない**『努力の証』**でございます」
レオンハルトは、セバスチャンの言葉に、涙を流した。
エリスは、訓練場の隅で、汗をかきながら棒を振り回し続けていた。
(私も、レオンハルトお兄ちゃんみたいに、強くなりたいなぁ!)
彼女には、その日の訓練が、いつもよりずっと楽しいものに感じられた。
セバスチャンは、公爵令嬢エリスが巻き起こす、無自覚な論理の破壊と、デタラメ推理の道が、単なる事件解決に留まらず、人々の隠された努力や苦悩をも明らかにする、深い意味を持つことを改めて確信していた。
一度完結済みにしておきます。
明日以降執筆が終わり次第、再開します。