第10話:偽りの足跡と、消えた招待状
その日の午後、公爵邸の庭園で、セバスチャンは頭を抱えていた。来週末に控えた隣国との重要な親善パーティの準備が大詰めを迎えている中、事件は起こった。パーティの主催者である公爵の、署名入りの招待状数百枚が、忽然と姿を消したのだ。しかも、消えた場所は、誰も入れないはずの厳重に施錠された公爵の書斎からだった。
「セバスチャン! 一体どういうことだ! 書斎の鍵は、私と、厳重な保管庫にしまってある予備の鍵しか存在しないはずだ!」
公爵が、焦燥の表情で叫んだ。書斎の窓は全て内側から施錠されており、不審者の侵入形跡は一切ない。まさに、完璧な密室だった。
「申し訳ございません、公爵様。しかし、事実として招待状は消え去っております。書斎の床には、微かに泥の足跡のようなものが残っておりましたが、使用人の誰とも一致せず、不審なものです」
セバスチャンは、疲れた顔で報告した。泥の足跡は、小さく、誰かのブーツのような形をしていた。
「泥の足跡? そんなものが、施錠された書斎に……まさか、幽霊か?」
公爵夫人が、顔色をなくして呟いた。
その時、庭園の芝生の上で、水たまりを避けながら楽しそうに走り回っていたエリスが、セバスチャンの報告に反応した。彼女の足元には、ピカピカの新しい長靴が履かれている。
「あ、泥の足跡! それね、多分、私のだよ! だって、さっき、お父様が『書斎で面白い本を見せてあげる』って言ったから、私、書斎に行ったもん!」
エリスは、泥だらけの長靴を差し出し、無邪気に微笑んだ。
公爵の顔色が変わった。
「エリス! 何を言い出す! 私は、お前に書斎に入る許可など与えていない!」
**空間が、激しく波打ち、歪んだ。公爵の記憶の中で、エリスが発した「書斎で面白い本を見せてあげる」という言葉にまつわる会話の記憶が、ガラスが砕けるように消え去った。**公爵の瞳が虚ろに揺らぎ、ハッと我に返った。
「……わしは、何を……?」
公爵は困惑したように周囲を見回した。
セバスチャンの背筋に、氷のような冷たさが走った。
(エリス様の能力が発動した……! つまり、公爵様が「書斎で面白い本を見せる」と約束した事実は、論理的な矛盾を孕んでいた、ということになる。なぜ? そして、その矛盾が解消されたことで、何が真実として浮上したのだ?)
セバスチャンは、エリスの泥だらけの長靴と、消え去った公爵の記憶を繋ぎ合わせた。
公爵は、エリスに書斎に入る許可を与えていないと主張した。しかし、エリスは「公爵がそう言ったから行った」と発言し、その部分の公爵の記憶が消えた。
(つまり、**公爵様はエリス様を書斎に招き入れた。**しかし、**その事実を隠そうとした。**なぜ? そして、エリス様は招待状を盗む理由がない。では、招待状はどこへ? そして、なぜ公爵様はその事実を隠したのか?)
セバスチャンは、公爵の様子を観察した。公爵は、常に公正で、正直な人物だ。彼がエリスの入室を隠そうとする理由など、普通では考えられない。
その時、公爵夫人が、公爵の隣で、何かを隠すようにドレスの裾を強く握りしめているのに気づいた。
「夫人。失礼ながら、公爵様がエリス様を書斎に招き入れられた際、貴女様は、何かご存じでございましたか?」
セバスチャンの問いに、公爵夫人がギクリと体を震わせた。
「な、何を言うのです、セバスチャン! わたくしが、そんな……!」
**空間が、激しく揺らめいた。夫人の否定の言葉が、「パリンッ」と音を立てて消滅した。**彼女は顔を覆い、ガタガタと震え始めた。
セバスチャンは確信した。
(公爵様はエリス様を招き入れた。夫人はそれを知っていた。そして、**二人ともその事実を隠そうとした。**これは、何か非常に都合の悪い真実が、書斎で起こったことを意味する!)
セバスチャンは、公爵の書斎に入り、招待状が消えた机の上をもう一度調べた。机の引き出しは開いたままだ。その引き出しの奥に、何か白いものが挟まっているのに気づいた。それは、パーティの案内状の試作原稿のようなものだった。
「公爵様。この招待状は、もしかして、未完成の、試作段階の招待状ではございませんか? そして、貴方様が、エリス様を書斎に招き入れた理由は……」
セバスチャンは、公爵と夫人の顔を交互に見た。二人の顔に、気まずい表情が浮かんだ。
公爵が、観念したように、しかし恥ずかしそうに口を開いた。
「実は……その、セバスチャン。私は、エリスに、まだ完成していない招待状の『絵柄』を見せたかったのだ。公爵家らしい、新しい絵柄を、と。そして、エリスがそれを勝手に持ち出して、色を塗ってしまったのだ……! あまりに奇抜な色使いで、使い物にならなくなったので、慌てて回収したのだが……」
公爵の告白は、消えなかった。論理的な矛盾を含んでいなかったからだ。
公爵夫人が、慌てて続けた。
「そう! わたくしも、エリスがはしゃいでいるうちに、その招待状を隠してしまったの! まさか、それが、消えた招待状だと騒ぎになるなんて……」
夫人の告白も、消えなかった。
セバスチャンの脳内で、全てのパズルが完成した。
(なるほど! 招待状は、盗まれたのではなく、エリス様が「面白そうだから」という理由で持ち出し、夫人によって「恥ずかしいから」という理由で隠されたのだ! 公爵が「書斎に招き入れた」事実を隠したのも、夫人が「知っていた」事実を隠したのも、エリス様が招待状をめちゃくちゃにしたという、公爵家の威厳に関わる、非常に都合の悪い真実を隠蔽するためだった!)
セバスチャンは、公爵夫妻に深々と頭を下げた。
「公爵様、夫人。招待状は、盗難ではございません。エリス様が持ち出し、夫人によって『回収』されたものかと。そして、書斎に残された泥の足跡は、エリス様の新しい長靴のものでございました。紛失した招待状は、恐らく、公爵夫人の私室のどこかにございますかと」
公爵と夫人は、顔を見合わせて安堵の息をついた。
エリスは、泥だらけの長靴をはいたまま、書斎の窓から見える庭園を眺めていた。
(招待状の絵、もっと可愛くしてあげたかったのになぁ。あの色鉛筆、すごく綺麗だったのになぁ)
彼女には、真っ赤な薔薇と、真っ青な空と、紫の犬が描かれた招待状の絵が、まるで本物のように見えていた。
セバスチャンは、心の中で呟いた。
(公爵令嬢エリス様。貴方様の無自覚な一言が、嘘を消し去り、真実を浮かび上がらせる。そして、その真実は、常に我々の予想を上回る。……このデタラメ推理の道は、果てしなく続く)
公爵令嬢エリスが巻き起こす、無自覚な論理の破壊と、デタラメ推理の道は、どこまでも続く。