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第1話:公爵令嬢の不都合な“記憶

 公爵令嬢エリスは、今日もまた午前のティータイムを盛大にしくじった。


「エリス様! わたくし、先ほどお持ちしたカモミールティーは砂糖抜きでとお伝えしたはずでございます!」


 侍女のセリーナが、血相を変えて叫ぶ。その手に持つティーカップからは、湯気が穏やかに立ち上っていた。


「あら? そうなの? 私には、たしか『蜂蜜たっぷりで』って聞こえたけれど」


 エリスは首を傾げた。その表情は純真無垢で、悪意の欠片もない。ただひたすら、困惑している。


 セリーナは額に青筋を浮かべた。

「いいえ! 絶対に言っておりません! わたくしは紅茶には砂糖を入れぬ主義と存じておりますでしょうに!」


 セリーナの主張はもっともだった。普段から甘いものを控えているセリーナが、あえて紅茶に砂糖を、しかも蜂蜜を要求するなどありえない。それは、エリスですら薄々理解しているはずのことだった。


 その時だ。


 セリーナの顔に、一瞬微かなノイズが走った。まるで、古びた映像が途切れるかのような、視覚的な歪み。それはごく短く、誰もが気づかないほどの現象だったが、確かにエリスの網膜には映っていた。


「……え?」


 セリーナが固まった。彼女の瞳が虚ろに揺らぎ、次の瞬間、ハッと我に返ったように瞬きをした。


「……わ、わたくし、先ほど何と申し上げましたかしら?」


 彼女は自分の発言が消え去ったことに、全く気づいていなかった。その表情は、先ほどまでの憤慨はどこへやら、ただ困惑に染まっている。


「あなたが、私に蜂蜜たっぷりのカモミールティーを淹れてくれたことにお礼を言ったわよ」


 エリスは、記憶通りに答えた。セリーナはキョトンとした顔で、手元のティーカップを見つめた。


「まあ! わたくしとしたことが! ……そうでしたわ、エリス様は蜂蜜がお好きですものね。失礼いたしました」


 セリーナは納得したように微笑んだ。しかし、彼女の心の中には、先ほどの出来事に対する微かな「違和感」だけが残っていた。


 エリスは、相変わらず首を傾げたままだった。

(なんか、セリーナってば、よく話がコロコロ変わるのよねぇ……。まあ、いっか)


 彼女は、目の前の蜂蜜入りカモミールティーを、満足げに啜った。


 その日の夕刻、公爵邸の庭園で、ささやかな晩餐会が開かれていた。参加者は、公爵夫妻とエリス、そして隣国の若き外交官、アルバート・ド・ヴァロア子爵だけだ。


 アルバート子爵は、見るからに神経質そうな顔つきをしていた。瞳の奥には、常に計算めいた光が宿っている。

 エリスは、彼の隣に座り、淑女として愛想よく微笑んでいたが、内心では早くデザートのケーキが出てこないかとそわそわしていた。


「……それで、先日のわたくしの発言ですが」


 公爵が、やや硬い表情で口を開いた。

「アルバート子爵、あの『銀の懐中時計』について、貴殿はたしか、あの夜会には持ち込んでいなかった、と。そのように記憶しておりますが?」


 アルバート子爵は、一瞬たじろいだ。

「は、はい。もちろんです、公爵様。わたくしはあの夜会では、自前の金懐中時計しか持参しておりません」


 彼の言葉に、公爵は眉をひそめた。

「しかし、わたくしは確かに、貴殿が公爵夫人と談笑している際に、その銀の懐中時計をちらりと拝見した記憶があるのですが……」


 公爵夫人が、慌てて公爵の腕を掴んだ。

「あなた! 何をおっしゃいますの。あの夜会でアルバート子爵がお持ちだったのは、いつも愛用していらっしゃる金の懐中時計ですわ。銀の懐中時計など、一度も拝見したことはございません」


 公爵夫人の言葉は、強く、しかしどこか不自然だった。アルバート子爵は、ホッと安堵の息をついたように見えた。


 エリスは、会話をぼんやり聞いていた。そして、突然思い出したように、しかし極めて論理的な矛盾を指摘するように口を開いた。


「あら、でもお母様。こないだのティーパーティーの時に、アルバート様が『最近、金の懐中時計は調子が悪いから、あの銀の懐中時計を修理に出すまで使ってるんだ』って、お話ししてたじゃない? それなのに、あの夜会には持っていなかったなんて、おかしいわ」


 その瞬間、アルバート子爵の顔から、一気に血の気が引いた。公爵夫人の瞳が、僅かに揺らいだ。


 アルバート子爵が、青い唇を震わせながら、反論しようと口を開いた。

「な、何を言われるのか、エリス嬢! わたくしはそのような、」


 空間が、微かに、そして激しく揺らめいた。

 アルバート子爵の口から放たれた言葉が、まるでガラスの破片のように「パリンッ」と音を立てて砕け散り、白い光の粒子となって霧散した。彼の顔に、一瞬だけ恐怖が刻まれ、その口は音もなくパクパクと動くばかりになった。


 同時に、公爵夫人の瞳から光が失われ、そしてハッと我に返った。

「……わたくし、先ほど何とおっしゃいましたかしら?」


 公爵夫人は、先ほどまでの自分の発言が消え去ったことに、全く気づいていないようだった。


 公爵は、呆然とした顔でアルバート子爵と夫人を見比べた。

「……アルバート子爵? 何故、急に黙り込んでしまわれた? それに、夫人よ、貴女も急に話の途中で……」


 アルバート子爵は、もはや何も言えなかった。彼の顔には、明確な「焦り」が浮かんでいた。

 エリスは、またも首を傾げた。

「アルバート様も、お母様も、なんで急に黙っちゃうのかしら? 私、何か変なこと言ったかしら?」


 公爵は、混乱しながらも、エリスの言葉に奇妙な「真理の断片」を見出した。彼の記憶の中では、公爵夫人の発言が不自然に消滅し、アルバート子爵の反論も聞こえなかったことになっている。しかし、エリスの「あのティーパーティーでの発言」という具体的な情報が、彼の脳内で他の断片的な情報と結びつき始めた。


 公爵の視界に、先日の夜会でアルバート子爵が公爵夫人と談笑していた際の、微かな違和感が蘇った。確かに、子爵の手元に光る銀の物体があったように思える。その時は気のせいだと思ったが、今、エリスの言葉がその違和感を確固たる「事実」へと押し上げる。夫人による子爵を庇う発言が不自然に消えたことも、その確証をさらに強めていた。


「……なるほど。やはり、そういうことであったか、アルバート子爵。貴殿は、やはりあの夜会に『銀の懐中時計』を持ち込んでいたのですね? そして、夫人。貴女はそれを庇おうと、私を欺こうとした、と?」


 公爵の鋭い視線に、アルバート子爵は顔面蒼白になった。彼には、もはや否定する言葉も、その根拠となる記憶も残されていなかった。エリスの無自覚な一言が、彼らが巧妙に仕組んだ記憶の操作(公爵夫人の介入)と、自らのアリバイの矛盾を、同時に打ち砕いてしまったのだ。


「……っ!」


 アルバート子爵は、何も言えず、ただうつむいた。彼の額には、冷や汗が滲んでいた。


 エリスは、目の前の状況が理解できなかった。

(なんでみんな、急に暗くなっちゃったんだろう? もしかして、私がお話してる間にお腹が空いたとか?)


 彼女は、テーブルに並べられた美味しそうなデザートに目を向けた。今にも手が伸びそうだ。


 公爵は、アルバート子爵の沈黙を肯定と受け取ったようだ。

「よろしい。詳しく話を聞かせてもらおうか。……エリス、お前は先にデザートを食べていても構わないぞ」


「わーい! ありがとうございます、お父様!」


 エリスは満面の笑みで、チョコレートケーキにフォークを突き刺した。

 その一口は、ひどく甘く、彼女の心を満たした。

 彼女は知らなかった。自分が、たった一言で、一つの「嘘」を完全に世界から消し去り、そして、もう一つの「嘘」を「真実」へと転じさせたのだということを。


 これは、公爵令嬢エリスが巻き起こす、無自覚な論理の破壊と、デタラメ推理の始まりに過ぎなかった。

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