2 『ローシュ国』
「―――馬鹿な……!!」
ハリエットはその場に崩れ落ちた。
目の前には、小柄な羊の獣人が立っている。胸元にローシュ国の紋章をつけたその獣人は、髪が左右で白と黒に綺麗に分かれていて、目は血のように真っ赤に輝いて瞳孔が五芒星の形をしていた。その獣人の正体を、ハリエットは聞いたことがあった。
「き……貴様ぁ……!!その五芒星の瞳……ローシュ国の魔法大臣、ラシェル・エトワールか……!!」
ハリエットが唸ると、獣人――ラシェルは大きなあくびをした。その足下には、死屍累々と言うに相応しい程多くの死体が転がっている。その死体はどれも、ハリエットやカーティス侯爵の率いた兵達であった。
「……まんまと罠にかかってくれたね。僕がいるとも知らずにさ。姫様がここにいるって聞いたからなんだろうけど、本当に襲撃しにくるなんて……。」
再び大きなあくびをするラシェル目掛けて、ハリエットは殴りかかろうと拳を振り上げた。しかし、腕に力が入らず、拳は地面に落ちてしまう。腕だけではない。体が動かない。魔力が抜けていく感覚もする。息も苦しい。
「貴様……何を……!!」
ハリエットは唸りながら、自分の胸元に焼印を押されたような激痛を感じて胸を押さえた。
「さぁね。呪いなんじゃないの?」
気だるげに告げるラシェルの言葉にハッとしたハリエットは、慌てて自分の胸元を覗いた。牡羊の頭のような紋が、ハリエットの肌に黒々とへばりついていた。その紋から植物の蔓のような模様が広がって、彼女の胸を覆いつくそうとしている。
「"プランタ・タルタリカ・バロメッツの寄生"……呪いの一種だよ。そのまま放っておいたら、貴女、体中の養分と魔力を吸い尽くされて死んじゃうかもね。」
ラシェルの淡々とした声を聞きながら、ハリエットはだんだんと自分の体が衰弱していくのを感じた。ローシュ国の民達が、呪術を扱うのが得意だということをすっかり忘れていた。それを思い出した頃にはもはや座っていることすらもできなくなり、その場に力無く倒れ伏した。
「あ〜あ。貴女は強いって聞いたから会うの楽しみにしてたんだけどな。おいで。テレネッツァ女王陛下が貴女のことをお呼びだ。我が国の民達を、長年に渡って虐殺し続けた貴女の顔をじっくり見たいんだってさ。」
ラシェルに髪を乱雑に掴まれ、引きずられる。ハリエットは引きずられながら、必死にもがいた。
ラシェルの口から出てきた、"テレネッツァ"という名前に戦慄せずにはいられなかった。ローシュ国の女王であり、この世界で最後と言われる「ケルベロス族」の生き残り。ケルベロス族は獰猛な性格であるとされている。そんな彼女に引き合わされたら、自分が無事では済まないことくらいわかっていた。
「やめてくれ……!!離せ!!離せ!!」
力の抜けた身体では、逃げることは叶わない。ハリエットは悲鳴を上げながら死に物狂いでもがき続けた。
離せ、嫌だ、死にたくない。死にたくない。殺さないでくれ―――!!!!
偉大なルフェール公爵らしからぬ情けない悲鳴を上げ、命乞いをする。
殺さないでくれ。何でもするから。頼む、離してくれ―――!!
―――この時命乞いなんてしてしまったばかりに、地獄すら生温いと思える日々が始まったのだ。