24 羊と海豹
モール達が勉学に励んでいる頃、ローシュ国のエトワール邸ではラシェルとディランが研究室に籠って話し合っていた。
「……え?ど、どういう事です?ラシェル様……?」
「そのまんまの意味だよ。貴方にはモルス国のケルベロスの子供達に取り入って貰いたいんだ。そういう話が陛下から出ている。」
ぽかんとするディランの前で、ラシェルはいつもと変わらぬ気だるげな表情をしていた。
ラシェルはディランの事を実の弟か息子とでも思っているかのように、非常に可愛がっていた。何故かはわからない。ディランが赤ん坊だった頃から成長を見守ってきたから、愛着か情が湧いてしまったのかもしれない。
だからラシェルはよく、自分の研究をディランに手伝わせていた。ディランにとっては勉強にもなるし、国の役にも立てるのだから、一石二鳥だった。だからディランも、ラシェルの事を兄のように慕っていた。
そんなラシェルからの突然の話に、ディランは困惑していた。今まで養父の影に隠れてひっそりと暮らしてきた自分に、敵国に取り入れと言うのだ。ディランが内気で臆病な性格なの事をラシェルはよく理解している。それなのに、そんな無茶な任務を任せようと言うのだから、ディランは混乱してしまった。
「もう少ししたら、陛下から王宮に呼び出されるだろうね。そこで直々にその命が下される訳だ。疑問があるなら、僕より陛下に伺った方が良いと思うよ。」
ラシェルはそこまで言うと、大きなあくびをした。
ディランは椅子に座ったまま、膝の上で拳をぎゅっと握りしめた。困惑と緊張と焦りで、額から冷や汗が流れては落ち流れては落ちを繰り返す。
何故急に、こんな話が出てきたのだろうか?モルス国のケルベロス達に取り入れとは、どういう事だろうか?もしかして、あの時、ケルベロスの内の一人――デュードと会ってしまった事がバレたのだろうか?下手な事を言えば、どちらの国も敵にまわしてしまうのでは?
そんな不安が、ディランを覆い尽くす。
「……大丈夫、ではないみたいだね。でも陛下からのご命令となれば、貴方が断るのは難しいだろうよ。」
ディランの様子がおかしい事に気付いたのか、ラシェルはハンカチでディランの額の汗を拭う。
我に返ったディランは、顔を上げてラシェルの目を見つめた。ラシェルの五芒星の瞳は、緊張するディランの心を全て見透かしているように思えた。
「……僕、きっと無理です。ち、養父上と違って、要領も悪いし、ラシェル様と違って、あ、頭も良くないし……。」
ディランが不安な思いを吐露すると、ラシェルは呆れたようにため息をついた。
「まあね。僕も貴方が上手くやれるだなんて微塵も思っていないよ。」
ラシェルの答えに、ディランは思わず「え、ひどい!」と幼子のような言葉を投げかけてしまった。涙目のディランを横目に、ラシェルは傍らの呪術書を手にして扇のように扇ぐ。
「でもね、いいかいディラン・バレナメント。貴方は僕やバレナメント公爵の元で多くの事を学び、多くの技術を取得してきた。現に、これ。この呪術書を書き上げたのは貴方じゃないか。この呪術書が、ローシュ国内の多くの学校で教材として使用されているのは知ってるでしょ?それくらいの実力は貴方に備わっている。後は自信だけ。それに、貴方一人に全てを負わせようって訳じゃない。僕やバレナメント公爵家お抱えの学者や騎士に助けを求めたって構いやしない。ね、貴方には人望とそれなりの実力はある。」
ラシェルに手渡され、ディランはかつて自分が書き上げた呪術書をじっと見つめた。見ている内に、過去の自分の努力が、ほんの少しだけ今の自分を押し上げてくれたように思えた。
「………後は自信だけ、ですか……。」
ディランは本をぎゅっと胸に抱え込んだ。
「モルス国のケルベロス達はまだ幼い。幼いうちから貴方が取り入る事で、こちらに情を持たせるんだ。そしてあわよくば、モルス国の情報を引き出して欲しい。貴方がケルベロスの子供達と親密になればなるほど、我が国は有利になる。そしてあの子達を欲しがっている陛下に、いずれはあの子達を渡すんだ。」
ラシェルの言葉は、いかにも簡単そうに聞こえた。しかしそれが実際には危険と苦労を伴う事であると、ディランにはよく理解できていた。
自信が湧いた訳ではない。だが、自分に与えられた使命ならば、やり遂げなければならないだろう。今にも崩れそうな程不安定な決意を、ディランは頼りない覚悟で包んだ。
「………頑張ります。」
たった一言、それだけだった。それ以上でもそれ以下でもなかった。
「期待してるよ、とは言わない。せいぜい全力を尽くす事だね。」
ラシェルの口角が、一瞬だけ、ほんのわずかに上がった。
「………ただね、気を付けて欲しい事は沢山ある。特に、モルス国の宰相、レイナ・アヴェーグルには注意して。」
ラシェルは険しい表情で、その名前を口にした。
ラシェルは人間の事を心底嫌っていた。人間は絶滅するべきだ、というのが口癖かと思う程、いつも人間への怨嗟の言葉を連ねていた。ディランはその理由を知らない。聞けばラシェルに睨み殺されてしまいそうだったのだ。
故にラシェルは、モルス国の宰相レイナ・アヴェーグルの事が気に入らないらしかった。しかもレイナは、それまで人間を虐殺していたメリバからの寵愛を受けているらしいから、その嫌悪はひとしおだろう。ここらの国では最後の人間だと言われるレイナを、ラシェルは隙を見て殺そうと思っているのかもしれない。
「レイナ・アヴェーグル……確か、ラシェル様が彼女の目を潰して舌を抜いたんでしたっけ。」
「そうだよ。ただ殺すのは勿体ないと思ってね。苦しんで欲しかったのさ。大人しく魔獣に喰い殺されていればよかったものを。しぶとく生き残りやがって。」
珍しく怒りの感情を顕にしたラシェルが舌打ちしたのを、ディランは聞き逃さなかった。
「アヴェーグルは目も口も使えなくなったけど、脳も魔法も健在だ。人間の癖に、メリバに負けず劣らずの魔力を持っている厄介者なんだよ。それに勘も鋭いらしいからね。アヴェーグルには近付かない方が賢明だよ。」
人間の癖に、人間の癖に、と、ラシェルは繰り返し呟いた。
レイナ・アヴェーグルの恐ろしさは、ディランもよく知っていた。愛らしい姿に騙されそうになるが、実際は莫大な魔力の持ち主。人間には珍しい真っ白な髪とラベンダー色の目は、人間らしさと引き換えに魔力を手に入れた証拠だと噂されている。
「人間……何で人間が、そんな魔力を………」
本来、人間の持つ魔力は他種族達と比べものにならない程微小なものだ。人間達の中で"魔法使い"と崇められていた者達ですら、小妖精よりも少ない魔力しか扱えなかったと言う。
そんな人間がかつては、数と科学技術等をいいように駆使してこの世界を支配していたのだというから、驚きである。
「人間は何で、こんなにもしぶとく生き残り続けるのでしょうか……」
ぼそりと呟いたディランの言葉に、ラシェルの耳がぴくりと反応した。
「…………ディラン。何故この世界が、人間の支配下から解き放たれたのかは、知っているね?」
ラシェルの問いに、ディランは無言で頷いた。
『―――――三千年前、サルバシオン王国という小さな獣人の王国があった。
ある時、人間達の国の中でも最も勢力の大きなノド帝国によって、サルバシオン王国は侵略されてしまった。
宰相や大臣、貴族を初めとするサルバシオンの民達は人間達に弄ばれ、惨殺された。
しかし大臣の一人、セオドア・ジョージ・ゴンサレスというガゼルの獣人が、生き残った僅かな仲間達と共に国の奪還を試みた。
北の果ての国からやってきた聖霊ロスカや、その従者ナイジェルの手を借りる事によって、ゴンサレスと仲間達は"真なる神"の顕現に成功した。
そして"真なる神"の力を借り、ノド帝国を打ち滅ぼし人間達に復讐を果たした。
"真なる神"はそれにより大きな力を手に入れ、人間以外の種族に膨大な祝福を与えた。
強くなった他の種族に抗えず、人間は世界の支配権を手放す事になった。
ゴンサレスは生き残っていたサルバシオンの王女を新たな"サルバシオン帝国"の皇帝に即位させ、人間が支配していた時代に終止符を打った――――。』
「―――でもね、彼らは人間達に情けをかけたんだ。というより、人間達が慈悲を乞うたのかもしれないね。」
不服、とでも言いたげな口調でラシェルは語る。
「こちらに危害を加えない事を条件に、人間達が生きるのを許したんだ。そんな事、人間達が守るはずないのにね。」
「そして人間は虐げる側から虐げられる側になり、度重なる抗争や虐殺を経て次第に数を減らしていった……んですよね。」
ディランの言葉に頷きながら、ラシェルは再び大きなあくびをした。長い事ディランと話していた為か、身体の限界が近いらしい。ラシェルの瞼は既に血色の虹彩をほとんど覆い隠していた。
「その通りだね……。よくあれから、三千年も絶滅しなかったものだ……。お陰で、どれだけの……同胞達が苦しんだ事か…………」
眠気と戦いながらも、人間への嫌忌の念を消さないラシェル。椅子から転がり落ちそうなラシェルを、ディランは慌てて支える。
「とにかく……ディラン。レイナ・アヴェーグルには……細心の注意を払う事だ……。いつか…………いつか僕が……貴方の邪魔にならないように……アイツを殺してあげるから…………」
ラシェルは現実と微睡みの狭間で、傍らに置いておいた魔法薬を掴み、服用した。しばらくすると閉じかけていた瞼がほんの少しだけ開き、僅かながらラシェルの意識が覚醒した事を物語った。
「……ごめん。そろそろ食事を摂取しないといけないみたいだ。食堂まで連れて行ってくれる?…………一人だと途中で倒れるかも。」
覚束無い足取りのラシェルに肩を貸し、ディランは研究室を出た。
小柄なラシェルは、ディランより僅かに背が低い。持病のせいか、身体の肉付きもあまり良くないらしい。それこそ羊毛のように身体が軽いラシェルを、ディランは何度頼りなく思っただろうか。こんな小さな身体で、難病と国の大きな役割を背負っているなんて、あまりに酷ではないか。
『僕といいラシェル様といい、女王陛下は何故弱々しい者にばかり重役を担わせるのだろう?』
考え込むディランの記憶の何処かから、不意に誰かの言葉が吸い出されてきた。
『―――美しい、星の瞳だよ。星は、救いの象徴。だから王女殿下は、あの方をお傍に置いておられるんだ。』
「星の瞳……。」
この言葉は、誰が言っていたものだったか。まだ母の腹の中にいた時に聞いたような、曖昧な声。あの時のディランには、まだよく理解できなかった。それだけは覚えている。
そしてラシェルが、テレネッツァ・ローシュの妹であるナディア・ローシュからの寵愛を一身に受けているのも知っている。
テレネッツァを初めとするローシュの王族は、もしかしたら大臣や貴族達ですら知らない何かを知っていて、一見不向きだと思える者達に重役を任せているのかもしれない。
そんな事を考えている内に、エトワール邸の食堂まで辿り着いた。使用人達にラシェルを任せ、ディランはバレナメント公爵邸に帰る事にした。
「…………僕は、僕に与えられた使命は、本当に正しいものなのでしょうか。」
帰りの馬車の中で、ディランはぼそりと呟いた。亡き父母に縋るように、頼りない自分に尋ねるように。




