23 有翼の乙女
「―――ソフィーは、他人の心が見えるのです。」
幼い、盲目の有翼乙女はそう言った。
ハリエットは花を摘んでいた手を止め、乙女の方を振り返る。
「そうか。だから、お前は目が見えぬ割に他人の方を向いて会話しているのか。」
ハリエットは摘んだばかりのニワトコの花を、乙女の手に握らせる。乙女はうふふと笑うと、花に頬ずりをした。
「ではソフィー、私が今何を思っているかわかるか?」
乙女の前髪を撫でながら、ハリエットは尋ねる。しかし乙女は少し困ったように眉を下げ、口元を花で隠してしまった。
「ソフィーは、他人の心は見えますが、考えてることは読めません。でも、ソフィーには見えるのです。ハリエット様は、きれいで大きな形の心をしています。ゆらゆらして、強いすがたをしています。」
盲目の乙女は、色も触れられぬ物の形も知らなかった。だから、自分の知っているありったけの言葉を使って、ハリエットの心の様子を伝えていた。
「ハリエット様だけじゃなくて、他の方々の心も見えます。でも、げんきがなくなると心は小さくなってしまうのです。今にもこわれてしまいそうに、震えているのが見えるのです。そこにいるのが誰か、ソフィーにはわかります。」
乙女は見えない目をハリエットの方に向け、しっかりと芯の通った声で話した。
「ソフィーは、誰のことも間違えません。だからハリエット様がたたかいに行く時、ソフィーは一番さいしょに、かえってきたハリエット様をおむかえします。」
その日は丁度、ローシュ国に遠征に行く前日だった。狙いは国境にある海辺の男爵領。負ける訳がないとハリエットにはわかりきっていたが、乙女は不安がっているのだろう。
「ありがとう、ソフィー。私は必ず帰ってくるよ。何があろうと、私は必ずお前達の元へ帰ってくるよ。」
ハリエットは乙女の頭を撫でた。その温もりを、乙女は今も覚えている。
「―――ソフィーはずっと待っておりました……ハリエット様が帰って来てくださるのを、ずっと待っておりました……!」
ソフィアはモールの手を握りしめながら、おいおいと泣いている。
しばらく静まり返っていた周囲は、ルイスの「やめろソフィー!」という叫び声で騒がしくなり始めた。
「何を言っているんだお前は!?その方はケルベロス族の末裔、モール・モディール様だ!」
ルイスがソフィアの手をモールから離そうとすると、ソフィアはハッと顔を上げた。
「ハリエット様ではないのですか……?私は、私には貴女の心が見えるのに……!ハリエット様と同じ、綺麗で大きなハリエット様の心が見えるのに!」
ソフィアの白い睫毛に、丸い涙の粒が果実のように鈴なりになっていた。
モールはただ、呆然とソフィアの泣き顔を見つめていた。ソフィアには他人の心が見えるのだという事を、ようやく思い出した。しかし、今や"ハリエット"は"モール"として生まれ変わったのだ。かつての、栄光と権威に満ちた女公爵ではなく、小さくてか弱い子狼に成り下がってしまった。それを、ソフィアは「ハリエット様」と呼んだのだ。
『ソフィーは、誰のことも間違えません。』
幼いソフィアの、その言葉が蘇る。
魂を司るメリバですら、"モール"の魂が"ハリエット"である事を見抜けなかった。なのに、ソフィアは自分の正体に気付いたというのか。一体何故。
しかし、そんな事をいつまでも考えている訳にはいかない。これ以上騒ぎを広める訳にはいかない。
それに、もうソフィアには諦めて貰いたい。素敵な人と結ばれたのならば、過去を振り向かず幸せな未来を築いて貰いたい。ハリエットは孤児達を、幸せになって欲しいと願って育てたのだから。
モールは、ソフィアの手をわざと荒々しく振り払った。
「ど、どなた、ですか。私は、モールです。そ、その、ハリエット様、というのは、どなた……?」
モールは怯えた顔で後ずさり、メリバの後ろに隠れた。
『許してくれ、ソフィー。』
心の中で、そう呟きながら。
ソフィアは呆然とその場に座り込んだままだった。何か言おうと口をぱくぱく動かしているが、あまりのショックで言葉にならないらしい。
「女王陛下、モール様。此度のご無礼、大変申し訳ございません。ソフィー、もう君は下がれ。」
ルイスが冷や汗をかきながら、慌てて侍女達にソフィーを連れて行くよう命じた。
「か、構いません。カーティス侯爵。少し驚いてしまっただけです。ソフィア先生は、おそらく悲しい事があったのでしょう?悲しければ、心が乱れてしまうのは当たり前です。私は気にしておりません。」
モールはそう言って二人を引き止めた。
その様子を見て、それまで目を丸くしていたメリバも、ようやくいつもの微笑を浮かべた。
「モールはこう言っています。今回の件は不問にしましょう。それに今日は、この子達に音楽を習わせに来たのですから。」
メリバの足元では、トートとデュードがキラキラと目を輝かせながらあちこちを見渡していた。
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ソフィアの音楽部屋は、メリバの話通り素晴らしいものだった。もとよりカーティス侯爵家の者が音楽好きな事は有名だったが、嫁いできたソフィアの為に新しく揃えたものも多いらしい。グランドピアノにチェロ、ティンパニやチューバまで、ありとあらゆる楽器が揃っていた。
「おっきい!なにこれなにこれー!」
デュードは興奮して部屋の中を駆け回っている。トートは初めて見る品々に圧倒されたのか、メリバの服を握りしめたまま氷のように固まっていた。
「爪をたてたりしてはいけませんよ、デュード。遊ぶのはお勉強が終わってからです。ほら、先生のお話を聞きなさい。」
近くに走ってきたデュードをすかさず捕まえ、メリバは三人をソフィアの前に立たせた。
「改めまして、ソフィア・カーティスと申します。これからよろしくお願いいたします。生まれつきの全盲故、お教えできる事は少ないと存じますが―――」
モールはソフィアの話を聞きながら、ふとひとつの箱が気になった。ソフィアの背後にある、艷めく蜜柑色の箱。形状からして、バイオリンが収納してあるのだろうか。他の楽器や道具と違って、一際輝いて見えるそれに、モールは目を奪われた。
―――知っている。
そう気付くまでに時間はかからなかった。
いつだったか、シャルルの誕生日にハリエットが送ったプレゼントだ。
『―――ハリエット。俺も大きなプレゼントを用意しているんだ。まだ時間はかかってしまうが、完成したらいつか必ずお前に渡すよ。きっと、お前を……この国を護る力となるさ。』
あのバイオリンを渡した時、シャルルはそうハリエットに言った。しかしそれから何年経っても、彼がそのプレゼントが完成したと言う事はなかった。そして遂には、渡す事も受け取る事も叶わずに、シャルルは死に、ハリエットは壊れた魂を抱えたまま別人として生まれ変わってしまった―――。
「―――モール。モール。どうしたのですか、そんなにぼんやりして。」
メリバの声に、 モールはハッと我に返った。過去の記憶に思いを馳せているうちに、ソフィアの話をほとんど聞き逃してしまったらしい。
「あ……申し訳ございません。あの、先生の後ろにある、オレンジ色の箱が気になって……。」
素直に、モールはそう答えた。するとソフィアは悲しそうな微笑を浮かべた。
「おそらく、バイオリンの事でしょう。その箱の中には、先代の侯爵…シャルル様がお使いになっていた、バイオリンが入っております。シャルル様は、自分が死んだら墓の前でこれの音色を奏でてくれ、と仰られておりました。しかし夫は弦楽器が得意ではなく……故に現在は私が預かり、時々代わりに演奏させて頂いております。」
―――以前、アンミがこっそり教えてくれた。シャルルの遺体は回収できなかった、と。
シャルルの魂も身体も、モルス国にはない。それでも彼の思い出を、愛を失くさぬ為に、ソフィアはこのバイオリンを奏でているのだろう。その音色がシャルルに届く事を願って。
「……きっと、届いてますよ。シャルル……様に、先生と侯爵様の音楽は。」
モールは笑った。盲目のソフィアにもわかるように、子供らしい無邪気で優しい声色で。
しかしその本心では、怒りと悲しみがはっきりと渦を巻いている。
『シャルル。お前の魂が報われれるように、私は必ず復讐を完遂する。こんなにもお前を想っている甥とその嫁がいるんだ。お前を殺し、悲しみをもたらしたアイツらを決して許さない。ああそうだ。復讐をするという意味は、ひとつやふたつで事足りるものではないのだな。』
ルイスやソフィアの想いを、美談で終わらせてはならない。彼らが苦しみを抱き、不安に潰され、悲しみを持ったまま生きている事に違いはない。それこそ、レイナと同じように。エリックやグンヒルドと変わらぬように。
『憎きローシュの王族共よ。私達を弄んだ大臣よ。いずれは貴様らの余裕もその悪辣な笑みも、全てを捻り潰してやるからな――。』
モールはそう心の中で呟いた。
目の前では、我が子のように可愛がった一人である、有翼の乙女が笑っている。悲しみを隠すかのように、笑っている。
慕っていた主を二人も失った哀れな乙女。あの日幼い乙女の頭を撫でた温もりが、純粋無垢な笑顔が、 モールの中で輝き続けていた。
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カーティス侯爵夫人から初めて音楽の授業を受けた後。トートは恐る恐る廊下に足を踏み出した。
メリバと夫人は何やら難しそうな話をしているし、モールはオレンジの箱の前から離れようとしない。デュードはピアノが気に入ったのかずっと鍵盤からでたらめな音を響かせている。
内気で人見知りなトートでも、好奇心がない訳ではない。初めて訪れた屋敷だから、どんな物があるのか、どうなっているのか気になって仕方ない。だから一人でこっそり抜け出してみる事にした。
「……?」
不意に、誰かに呼ばれたような気がした。声が聞こえたという訳ではない。何故か、何かに導かれた気がした。
不思議な感覚に導かれるまま、歩く。辿り着いた先が、亡きシャルル・カーティス前侯爵の自室である事になど気付かずに、扉を開ける。鍵はかけ忘れられているようで、中にはすんなりと入れてしまった。
―――壁には、大きな肖像画が立てかけられていた。まるで何かを隠すように、そこに静かに鎮座していた。肖像画の女性は、褐色の肌に漆黒の髪をして、微笑を浮かべている。
「――――おかあさま?」
その群青色の目と、トートの目が合った時、思わずトートはそう呟いた。
母は自分達を産んですぐ死んだ。だから、トートは母の顔を知らない。どんな姿だったか、聞かされていない。
なのに、何故か肖像画の女性が自分の母親であると思ってしまった。
「―――おや、こんな所で何をしておいでですか。」
不意に後ろから、たくましい腕に抱き上げられた。
「陛下がお探しでしたよ。それに、この部屋は叔父の部屋ですから……あまり詮索はなさらぬよう。」
ルイス・カーティス侯爵はトートを部屋から連れ出し、鍵をかけた。まるで見られたくないものが、その部屋に隠されているとでも言うかのように。
「…………あれは、おかあさまだった。」
トートはぼそりと呟いた。誰にも聞こえない、小さな小さな囁き声で。




