21 信じること
ローシュ城の一室。
テレネッツァ・ローシュの弟グラウベ・ローシュは、薄暗い部屋の中で一人思いにふけっていた。
愛用の大きな羽根ペンが鎮座し、愛読書が綺麗に並べられた机の上に広げた紙をじっと見つめながら、今朝姉から聞いた話を思い出す。
「―――それは本当なのか!?」
口を押さえて目を見開くナディアの隣で、グラウベは大声と共に立ち上がる。テレネッツァはにこにこ笑いながら、嬉しそうに尻尾を振っていた。
「本当だよ〜。だってメリバの服から子供達のにおいがしたんだもん。同族が絶えて久しいから忘れてるかもしれないけど、あたし達ケルベロス族は自分の血縁関係者のにおいを嗅ぎ分ける事ができる。まさにそのにおいがしたんだよ。」
モルス国女王、メリバ・モルスとの会談から帰って来たテレネッツァの言葉は、にわかには信じ難いものだった。しかしテレネッツァは弟妹に対して下手な嘘がつけるような性格ではない。テレネッツァの言葉が正しければ、殺されたと思っていたグラウベの子供達が生きているという事になる。これ程に喜ばしい事が、他にあっただろうか。
「……いいえ、お兄様。ぬか喜びしてはいけません。私はこの目で見、この手で触れない限りは、あの子達の生存を信じませんよ。」
ナディアが、沈痛な面持ちで兄を諭した。兄弟の中で一番の慎重派な彼女だからこそ、メリバの罠だと疑ってしまっているのだろう。
しかしテレネッツァはそんなナディアの頭を小さな手で撫でながら、満面の笑みで尻尾を振っている。
「ナディアは酷いなぁ、見ないで信じる事ができる者こそ幸いだって、王様も言ってたじゃん。忘れちゃいけないんだよ。信じる事、希望を持つ事、そして愛する事!」
テレネッツァの言う"王様"とは、このローシュ国の先王の事だ。先王は幼かったテレネッツァ達三つ子を甲斐甲斐しく育て、幾つもの大切な事を教えてくれた。
彼が亡くなりテレネッツァがローシュ国女王として即位してからも、テレネッツァ達は彼から教わった事をいつも心に留めて暮らしていた。
「あの子達は生きてるんだ。言ったでしょ?メリバはあの子達を殺せないって!さあ、あの子達が成人する前を目標に、あの子達を取り返さなきゃ!」
本来、人狼の突然変異種であるケルベロス族の平均寿命は八十五年程。故にケルベロス族の成人年齢は人狼と同じ十八歳と定められている。
子供達が成人するまで後十三年。それを目処にあの子達を取り返そうと、テレネッツァ達三人は決意したのだった。
――――元々、グラウベには妻がいた。
もうずっと昔に死んでしまった、愛する妻が。
小柄で、縮れた赤毛が愛らしい、自慢の妻だった。日に焼けた褐色の肌に苺色の目、いつも首に巻いていたシェルピンクのスカーフ。小鳥のさえずる声と間違えそうになる程美しい声。
『グラウベ。私、お腹に赤ちゃんがいるみたい。』
そう告げられた日の喜びを、グラウベは今でも覚えている。
日に日に大きくなっていく妻の腹が愛おしくて仕方なかった。いつ生まれるのか、どっちに顔は似てるのか。そんな他愛ない会話を毎日毎日していた。
だから、妻が殺された時の怒りは、言葉では表せない程だった。
今でもグラウベの脳内に焼き付いて離れない。
見る影もない程黒焦げになった妻の姿が。大きかった腹が切り裂かれ、引きずり出された赤子達がぐちゃぐちゃに潰された姿が。
何でこんな事を。
何故?どうして?
全員死ねばいい。そう思うのに迷いはなかった。この世の全てが憎くて仕方なくなった。
それから今まで、何年経っただろう。二百、いや二百五十、あるいは二百八十年かもしれない。
テレネッツァの魔力と呪力は計り知れないもので、その技術もまた過去類を見ない不思議なものだと言う。
テレネッツァとグラウベ、ナディアは呪いをかけた相手からことごとく生命力を吸い取り、自分や側近達の寿命として還元している。故に不老長寿の者が、この城には多く存在する。モルス国女王のメリバも、死者の魂を寿命として還元していると言う。それと似たようなものだ。
今までの人生で呪った相手は数知れず、しかもその相手はほとんどが罪人か敵国の者。だから、生命力を吸い取る事にテレネッツァ達は罪悪感など感じなかった。
だから、ローシュ国の王族三人は、恨みと憎しみを長い長い時間の間抱え続ける事ができるのだ。
モルス国の者達は、自分達の大切なものをことごとく奪っていく。慕ってくれる国民達も、思い出深い土地も、大切な宝物も。人畜無害なフリをして近付いてくる輩も多い。心優しいローシュの民達はそこにつけ込まれる。
自分達がもっと賢ければこんな悲劇など起こらなかった、と何度悔やんだだろう。
―――あの子達は、そんな三人に与えられた希望だったのだ。
ハリエット・ルフェールがケルベロス族の子を成せる、と聞いた時は戯言だと、何の悪い冗談かとグラウベは一蹴した。
しかしラシェル・エトワールの眼差しは真剣だった。ラシェルの五芒星の瞳が、グラウベに希望を告げていた。
ラシェルは魔法大臣になってから今まで百年以上、魔法や呪いの研究に熱心に取り組んでいた。もはや滅ぶしかなくなってしまったケルベロス族を再び繁栄させようと、生物学的な研究も兼ねて必死に研究していた。
その末に見つけたのが、ハリエット・ルフェールの身体だと言う。
ローシュ国の為に、王族の為に、持病に苦しめられる身体に鞭打って働き仕えてきたラシェルの事だ。こんなタチの悪い嘘などつく訳がない。
そしてその話を既に聞いていたテレネッツァが、グラウベをまっすぐ見つめながら「お願い、グラウベにしかできないんだ。」と言ったのだ。それが何を意味するかは、とっくに理解できていた。
気が進まないどころではなかった。
憎い敵国の女と交わるだなんて、吐き気がする。ようやく虐げる事ができた相手との子供なんて作りたくない。汚れに汚れきった、穢れたあの忌々しい女に触れる事すらしたくない。
だがそう断った時、テレネッツァが泣いてしまった。長く生きてきたグラウベ達ですら久しいと言える程ぶりに、テレネッツァの涙を見た。
「大切な弟にこんな事を強いたくないよ。ごめんね、やっぱりあたしが間違ってるんだよ。」
泣き落とそうとしている、と、他人は言うだろう。しかしグラウベには、テレネッツァの言葉や涙が偽りのないものである事が理解できていた。
わかっているのだ。愛する人の代わりになる者などいない事は。
でも、どうしようもなかった。
嗚呼、そうだ。あの女はただの子を産むための道具にすぎない。護るべきは、愛するべきは子供達だけだ。何も嫌悪する必要なんてない!
グラウベはそう気付いた。
そして、ハリエット・ルフェールと交わった。自分の発情期にタイミングを合わせ、加えて精力剤を飲み、事に及んだ。薄汚れたままでするのは嫌だったから、風呂に入らせて綺麗に整えてから彼女の身体を貪った。
泣きながら首を振り、辞めてくれと声の出ない口で訴えるハリエット・ルフェールを見てもなんとも思わなかった。あれ程に憎くて仕方なかったのに、嫌悪していたのに、驚く程何も感じなかった。ただ本能の赴くまま、彼女の胎内に種を植え付けたのだ。
するとどうだろう、ラシェルの言った通り子を孕んだではないか。
かつて失った子供達の事を想い、グラウベは人知れず涙を流した。次こそは喪ってたまるものか、と、自分でも驚く程の執着心が胸の中で渦巻いた。
「――――殿下。どうなさいましたか。殿下にしては珍しく何か思い耽っておられるようで。」
背後から、低い声が聞こえた。振り向けば、身長2メートルはあろうかという程の巨体をドアにもたれかけた、熊の獣人が立っていた。薮かと見間違えるような草色の髪にパールホワイトの目がよく目立ち、所々に銀色の鉱石を散りばめた服が薄暗い中でも光って見える。
「アルフィーか。今日は邸宅には帰らないのか?」
アルフィー・バーナード。ローシュ国の侯爵であり、グラウベとは歳が大きく離れているにも関わらず、親友として互いを認め合っている仲だ。
「いいえ、もうすぐ帰るところでしたよ。お暇する前に殿下にご挨拶をしておきたくて。」
ニヤリと笑うアルフィーを見て、グラウベは苦笑を浮かべる。
「そうだな。お前のところの問題児を放っておいては何をするかわかるまい。兄として、奴をしっかり見張って貰わねば困る。」
「ええ、でも弟も随分大人しくなりましたよ。次何かやらかしたら、首を斬り落とすぞと脅してありますから。」
アルフィーはそう言いながら、ちらりとグラウベの机の上に置かれている紙に視線を向ける。
「そちらの紙は?もしかして、どなたかに恋文でも?」
アルフィーでなければ、不敬だと憤らざるを得ない質問だろう。グラウベは紙を手に取ると、そこに書かれた文字をそっと撫でる。
「そう、だな。ある意味恋文かもしれない。俺の愛する子供達の為のものだよ。」
―――モルス国に奪われた、愛する子供達。生きているならば、取り戻さねばならない。
子供達が生まれてくるのを心待ちにして、名前も男女三つずつ考えておいたのだから。
「…………嗚呼、会いたい。会いたいよ。待っていてくれ。俺が必ずお前達を迎えに行ってやるから。
――――――――――エヴァ。」
「――――グラウベは、子供達になんて名前つけるの?」
かつて子供達を授かった事を知った時、テレネッツァにそう尋ねられた。前の子供達は、顔を見てから名前を決めようと決めていたので、呼べる名もないまま亡くしてしまった。
今回はそうは言ってられない。
「そうだな…………そうだ。女の子が生まれたら、必ずつけたい名前があるんだ。"エヴァ"、と。」
―――テレネッツァ曰く、子供達は女の子一人、男の子二人らしい。
「エヴァ。いつか必ず、取り戻すからな。」




