夫の子供を身籠ったとやってきた女のおかげで屋敷の使用人たちの為人を知ることができました。
夫が浮気した……?!
愛しているから許せないと思ったのはほんの短い時間だけだった。
夫が領地の視察に旅立った翌日のことでした。
一人の女がなんの知らせもなく訪ねてきたのです。
執事のヨハンが「アースバルト子爵家のエリリー様とおっしゃる方が奥様に会いたいと訪ねて来ておられますが、どうされますか?」と尋ねられました。
いつもなら先触れのない訪問など歯牙にもかけません。
ただ夫が領地に行ってしまってちょっと暇だったせいか「会うわ」と応えてしまいました。
結果的には会って正解だったのか、不正解だったのか。解りません。
夫が浮気をしているなんて夢にも思いもしていませんでした。
いつそんな暇があったの?
考えてみると不審な外出があったような気もするし、なかったようにも思います。
夫の仕事のことは口出し無用と言われていたので、夫の言うがまま外出を告げられ笑顔で「行ってらっしゃいませ」と送り出していました。
どうしてほんの少しでも疑わなかったのでしょう?
疑っていたとしても口出し無用と言われてしまっては、尋ねることもできなかったでしょうけれど。
眼の前に座った女は大きなお腹を突き出して見せつけてきます。
私の被害妄想でしょうか?
「奥様のご主人であるオリバーの子供なの。奥様との間には子供はいないのでしょう? なら離婚も簡単でしょう?」
と余裕のほほ笑みを浮かべて私に告げました。
私が応えられたのは「嘘でしょう……?!」だけでした。
三年間妊娠できなかった私は夫の子供を妊娠しているという人に強く相対することができませんでした。
私がちゃんとした対応を取れなかったからか、アースバルト子爵令嬢は特別なお客様用の客室に居座ることになってしまいました。
既に女主人になったつもりなのか使用人たちに我儘気儘を言い困らせている。
なのに使用人の皆が嬉しそうなのはなぜなのでしょう?
ヨハンに追い出すように言っても「万が一でも旦那様のお子様の可能性がありますので……」とアースバルト子爵令嬢を追い出す気は無いと態度で示されました。
そのうえヨハンは他の使用人たちに「アースバルト子爵令嬢の言うことは叶えて差し上げるように」と言い渡していたと私の部屋付きの侍女、シュナが教えてくれました。
シュナは私の側にいても気も漫ろで「御用がないようでしたら失礼いたします」と言って私の部屋から出ていってしまいました。
シュナが私の部屋から出ていった瞬間、屋敷の者たちに私が軽んじられた気がしました。
この屋敷にとって三年経っても身籠ることのない私は必要なく、身籠ったアースバルト子爵令嬢のほうが大事だとでも言うかのような態度に変わってしまいました。
その日の夕食の時間になっても私のもとには知らせはありませんでした。
食堂に降りるとアースバルト子爵令嬢が私の席に座って食事していて驚きました。
私は何も言うこともできずに自室に逃げるように引き下がってしまいました。
その日、私は夕食にありつけなかったし、お風呂の湯も用意もされなかったし、着替えを手伝いにも来てもらえませんでした。
翌朝になっても、いつもの時間に朝の準備のためにシュナは来ませんでした。
いつもより一時間も遅れてやってきてシュナの言い訳は私にとって酷いものでした。
「エリリー様が体調が悪いと仰るものでその対応をしていて遅くなってしまいました」
と言い訳をして、遅れてきたことに謝罪しませんでした。
謝ってほしかったわけではありませんが、心の中のもやもやしたものが大きくなっていく気がしました。
着替えもそこそこに「いつもより遅れているので急いで食堂へお向かいください」と言われましたが、夫の浮気相手といっしょに食事させられるなど到底受け入れられませんでした。
「食事は部屋でとります」
と伝えると余計な手間をとでも言いたげなシュナの態度に驚いてしまいました。
昨日……一昨日でしょうか? それまで自分の味方だったシュナまでもが夫の子供を身籠ったと言っただけの女の方が大事なのだと私に思わせました。
私はこの屋敷には必要ないのだと。
ヨハンは身籠った女が来てからというもの通りすがりに一度私から声を掛けただけで、ヨハンから私の下には来ていません。
屋敷の中は誰もが地に足がついていなくて浮足立っています。
結婚してからこんな雰囲気は初めてです。居心地が悪くて仕方がありません。
屋敷にいてもヨハンが一日の予定を告げに来ないため、最優先にするべき仕事がわかりません。
仕方なく手近にある書類から目を通し処理していくしかありません。
仕事をしている時は他のことを考えなくていいと思っていられたのも半日ほどでした。
誰も私のお茶の用意をしてくれません。
昼食の用意ができたと告げにも来てくれません。
いつからこの屋敷は人手不足になったのかと思うほど私の周りに人の気配はありませんでした。
仕方なく自分で調理室を訪れて食事の準備を頼み、その前にお茶が欲しいと告げると料理人たちが「申し訳ありません」と何度も謝ってくれたが、ワゴンにお茶と昼食が載せられて「持っていってください」と渡されてしまいました。
虚しい気持ちになりながらワゴンを押して執務室へ戻りました。
客室のある階上はどこか華やかな雰囲気で、笑い声が聞こえます。
商人も呼ばれたのか商家の馬車が正門に止まっているのが窓越しに見えます。
その予算は一体どこから出すつもりなのでしょう?
まだ夫の子供だと決まったわけでもないのに……。
やさぐれた気分の私が思い込んでいるだけだと思っては見たものの、シュナが階上から走り下りてきて私を見たけれど視線を下げるだけで走り去ってしまいました。
いつもなら私が本一冊持っていても「お持ちいたします」と言っていたのに、ワゴンを押していても知らん顔されてしまいました。
お腹が空いて昼食を用意してもらったけれどすっかり食べる気が無くなってしまって、皿の上の食材をいたずらに突っついて潰すだけでそのまま食べられませんでした。
片付けてもらおうとベルを何度か鳴らしたけれどベルの音が聞こえないのか、私の世話などしている暇はないのか、私のところには誰も来てくれませんでした。
仕事に戻ろうとしたけれど目が滑るばかりで内容を理解することができなくて、早々に仕事を放りだしてしまいました。
誰も片付けないワゴンを自分で押して調理室に戻し、食べられなかったことを謝罪しました。
仕事に手がつけられないので自室に戻りましたが、どこか浮かれた屋敷に居づらくて外出することに決めました。
また何度もベルを鳴らしたけれど、やはり誰も来てくれません。
一人で着替えられる簡素な服に着替え、供もつけずに厩舎に一人で行きました。
「街に行きたいのだけど」
「いつ何時お子が生まれるかわからないのでいつでも馬車を使えるように準備して、ヨハン様の声が掛かるまでは使用しないようにとヨハン様に言われてます」
と御者に言われてしまいました。
この屋敷の女主人の私が馬車の使用を控えなくてはいけないのかと腹立たしく思いました。
御者も私よりヨハンの言葉に重きを置くらしく、私の馬車の使用を認めてくれませんでした。
私が気がついていなかっただけで、元々この屋敷ではヨハンより軽んじられる存在だったのでしょうか?
あまりにも惨めでしたが、屋敷に居たくないと思ってしまった私はなんとか外出しようと御者に願い出ました。
「馬の使用ならいいのかしら?」
「はぁ。あの馬ならどうぞご自由にお使いください」
馬丁が鞍をつけて私の前に馬を連れてきて「乗れるんですか?」と聞いてくるので、目の前で馬に乗り上がって馬を走らせました。
屋敷から出たもののどこに行くと決めていなくて、屋敷から離れると馬をとぼとぼと歩かせました。
付き添いもなく外出するのは生まれて初めてです。
こんなときに悩みを打ち明ける友人がいないことに気がついて、私を気にかけてくれる人は誰もいないのだと絶望してしまいました。
友人はいます。
けれど本当に悩んでいることを打ち明ける事のできる友人はいないのです。
ふと思いついて教会へと行くことにしました。
今の私は神様くらいしか愚痴をこぼす相手はいません。
神様と向かい合って心の中で取り留めもなく話してみます。
神様からの返答は当然なくて、心が晴れることもありませんでした。
屋敷に戻るのが嫌で実家のタウンハウスを訪ねることにしました。
諸手を挙げて迎え入れてもらえて、やさぐれていた心が癒やされるような気がしました。
ほんの悪戯心でした。
このまま連絡せずに屋敷に帰らなかったら大騒ぎになって私のことを思い出してくれるだろうと思ったのです。
実家で両親と兄夫婦に甘えて一泊して、翌日の昼過ぎに屋敷へと戻りました。
少し離れたところから見る屋敷はいつもと変わりなく静かなものでした。
門番も馬に乗る私の顔を見て一瞬驚いたけれどそれだけで、厩舎に馬を返すと馬丁は少しオロオロとしましたが、手綱を渡すと馬の世話に戻っていってしまいました。
屋敷のドアをくぐったら「奥様! 心配いたしました!!」と叱られると思っていたのに、誰の出迎えもなく自室へとたどり着いてしまいました。
自室のベッドは昨日起き出したままの状態でベッドメイクすらされていませんでした。
誰かが来るまで鳴らし続けるつもりでベルを鳴らしたけれど、腕が疲れるだけで誰の耳にも届いていないのか、ベルを鳴らし続けるのが馬鹿らしくなるだけでした。
当然、夕食の用意もされず湯の用意もされません。
夕食は調理室に頼めばいいだけだけれど、湯の用意は私ではどうにもなりません。
その日はお風呂に入ることは諦めて眠りにつくしかありませんでした。
朝、起こされることもなく着替えの手伝いにもだれも来ません。洗顔の用意もしてもらえません。
階上で楽しそうな笑い声が聞こえるだけ。
この屋敷にはもう私は必要ないのね。
夫の浮気よりも、この屋敷に必要とされていないことのほうがショックでした。
それから四日、ただただ我慢したけれどお風呂に入れないことが我慢できなくなって、馬丁に頼んで馬を用意してもらって実家に帰ることにしました。
四〜五日前に戻ってきたばかりの娘がまた戻ってきたので何かあったのかと問い詰められ「実は……」と話してしまいました。
両親と兄夫婦は「いつまでいてもいいからここにいなさい」と言ってくれて、すぐにお風呂の用意をしてくれました。
いたわるように接してくれる使用人たちの優しさが身に沁みました。
お風呂でさっぱりして、結婚前に着ていたドレスに袖を通すのは少しの気恥ずしさと、入るのかという不安がありましたが、すんなりと入り体型が変わっていなかったことにホッとしました。
もしかするとここ数日の出来事で痩せたのかもしれません。
部屋の扉がノックされ「どうぞ」と応えると、開いた扉からのぞかせた顔は懐かしい人でした。
「ディック!! 久しぶりね!!」
幼馴染のディックに子供の頃のように抱きついて再会を喜びました。
「ガートンに会いに来たらメリルが帰っているって聞いたから」
「嬉しいわ! さぁ、入って!!」
「いや、流石に他所の奥様の部屋には入れないよ!!」
「気にしなくてもいいのに!」
ディックが気にしているので、階下に降りて応接室に兄夫婦も呼んで四人で子供の頃の話から今、実家にいる理由まで話して笑ったり、慰めてもらったりしながら楽しい時間を過ごしました。
夕食も一緒に食べて、私の指先に一つキスをしてディックは帰っていきました。
実家へ帰ってから五日後、屋敷に私がいないことにやっと? とうとう? 気がついたのか「メリル様が来られていませんでしょうか?」とヨハンが実家にやってきました。
両親と兄が「メリルはここにいるが、そちらに帰す気はない!」と伝えると、一時間もしないうちに夫が取るものも取りあえずといった風貌でやって来ているそうです。
屋敷の者たちが私がいないことに気がついたとき私はどんな反応をすればいいのか、夫が迎えに来たらどうしたらいいのかと悩んでいましたが、あの屋敷に私が必要ないことが解ってしまったので今はもう人ごとのようにしか感じませんでした。
「メリルに会いたいとオリバー様が来ているけどどうする?」
と兄嫁が尋ねてきたので「会います」と答えた。
結論から言うと夫は浮気していませんでした。
アースバルト子爵令嬢は夫の名前を使ったどこかの誰かに騙されていただけで、夫とは初対面だったそうです。
「誤解だと解ってくれるだろう?」
夫が必死で私に言い募ります。
「浮気していなかったことは理解しました。
ですがあの屋敷に私が必要ないこともわかってしまいました。
アースバルト子爵令嬢が来られてからは私の存在は居ないものとして扱われました。
三年間子供ができないことに皆不満があったのでしょうね……。
離婚する良いきっかけになったと思います」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!!
私は浮気もしていないし、メリルを愛している!!
子供ができなかったのはまだ夫婦の時間を楽しみたかったから避妊していただけで……」
避妊していることを知りませんでした……。
子供ができないと悩んでいた私は馬鹿みたいですね……。
「屋敷の者たちは子が生まれることを首を長くして待っているようですよ。
今回のことでよくわかりました」
「それはっ!
今回私も初めて知ったが、夫婦のことだ。屋敷の使用人たちがどう思おうが関係ないだろう?!」
「ですが私はもうあの屋敷では不要という烙印を押されてしまいました。
朝起こしにも来ず、食事の用意もされず、お風呂の用意もされませんでした。
誰も彼もがアースバルト子爵令嬢と楽しそうに過ごしていました。
それに今日まで私がいないことにも気が付かなかったのでしょう?
私はもうあの屋敷には戻りたくありません」
それから一週間が経ち、二週間が経ち、ヨハンや使用人たちが謝りに来たり、夫が日参したりしましたが私は夫の屋敷には戻りませんでした。
一ヶ月が経って、三ヶ月が経って、私が屋敷に帰ることはないと理解したのか、夫はやっと離婚に応じてくれました。
離婚に応じるまでには屋敷の使用人全員から詫び状が届いたり、使用人を総入れ替えするという話もありましたが、正直ヨハンがいなくなると屋敷が回らなくなるでしょう。
女主人の仕事ですら困ってしまいます。
なのでヨハンを辞めさせることなど不可能なのです。
そして私はヨハンがいる屋敷には戻りたくはありません。
だから離婚する以外方法はないのです。
離婚した後の屋敷がどうなったのか気にもなりませんし、興味もありません。
でも少しだけ知っていることを。
私が戻らなかったことで使用人が辞めさせられることはなかったようです。
ただしオリバーは使用人たちに思うところがあるようで、一線を引いた関係になってしまったのだとか。
その程度のことしか知りません。
私ですか?
離婚して三ヶ月後にディックと再婚しました。
ディックは私が結婚してから私が好きだったと気がついたのだと告白してくれました。
「好きだと気がつくのが遅かったけれど、幸せにするから」
そんなふうに言われてその気になってディックの手を取ることにしました。
幼馴染の意識が強かったので最初の夜は凄く恥ずかしかったですが、素敵な夜だったことは言わずもがなです。
結婚してたった二ヶ月で身籠りました。
前の夫は避妊していたと言いましたがもしかしたら子供ができない体なのかもしれないという不安は消すことができなかったので、妊娠したと確定したとき嬉しさのあまり涙がこぼれました。
子供ができにくいどころか、もしかしたら子供ができやすい体質だったのかもしれません。
男、女、女、男の四人の子を今育てております。
五人目の子供はまだお腹の中です。
時折夜会で前の夫に会うことがありますが、黙礼だけして後は話すこともありません。
前の夫は一人で参加しているのでまだ再婚はしていないのでしょう。
そうそう。アースバルト子爵令嬢は無事女の子を産んだそうです。
元夫の名前を騙った子供の父親は未だ不明のままだそうです。
実家で肩身の狭い思いで暮らしているのだとか。
アースバルト子爵令嬢は私に謝罪はないままでした。
もう関わることもないのでどうでもいいのですが、アースバルト子爵令嬢の行動が一組の夫婦を離婚させたことは自覚していただけたらなと思います。
そしてアースバルト子爵令嬢に感謝を。
屋敷の者たちの為人を知る切っ掛けを教えてくれてありがとう。