露のように
僕は君に甘えていたんだ。
いつまでも君が隣にいると。
この世に永遠はないのに──。
春樹には、付き合って五年になる恋人がいる。
名は七緒。
彼女と一緒にいる時間は、どこか落ち着いて、癒されて、心から楽しかった。
「ねぇ、今度の週末、どこ行きたい?」
「ん~……私は春樹が行きたいところだったら、どこでもいいや」
「そう? じゃあ考えておくね」
「うん、楽しみにしてる」
少し控えめで、真面目な彼女。
行きたい場所を聞いても、いつも「春樹の行きたいところでいい」と言う。
僕に合わせてくれる七緒が、当たり前になっていた。
「なぁ、お前、七緒ちゃんとどうなの?」
「どうって?」
昼休み、同僚の翔がニヤつきながら聞いてきた。
「結婚とか考えてるの?」
「別に……。七緒も、なんとも思ってないだろうし」
「もう五年だろ? そういうの、考えないの?」
「全然かな」
しつこく聞かれて、適当に返すと、向かいに座る同僚の梨花がため息をつく。
「七緒ちゃんのこと大切に思ってるんなら、ちゃんと考えないと」
「そう?」
「そりゃそうよ。周りも結婚とか出産してるでしょ? 女の子はそういうの聞くと、焦るものよ」
「そういうもんなの?」
「七緒ちゃんと、ちゃんと話すべきじゃない?」
「……考えとく」
自宅に帰り、言われたことを思い出す。
七緒は、結婚を考えているのか──。
でも、今は仕事が忙しい。
そのことは七緒も知っているし、理解してくれているはずだ。
「ただいま」
「おかえり」
今日は七緒の方が早かったらしく、キッチンで包丁の音が聞こえてくる。
手を洗い、エプロン姿の彼女のもとへ向かった。
「ちょっと危ないよっ」
「ちょっとだけ……」
七緒の顔を見て、無性に抱きしめたくなった。
「今日は春樹の好きなハンバーグだよっ!」
「まじっ!?」
「まじですっ」
一緒に夕飯の準備を済ませ、
「いただきます」「いただきます」
「うん!いつ食べても、うまい」
「ふふ、よかった」
七緒の料理は、どんな高級料理よりも僕にとってのご馳走だった。
「周りの友達、みんな結婚していくね?」
「そう? 俺の周りはまだだわ」
「……そっか」
「憧れるの?」
「んー……まぁね」
「俺は、まだいいかな」
「……そうだね」
七緒の手が、一瞬止まった気がした。
翌朝、出勤の準備をしていると、七緒が声をかけてきた。
「ねえ、今度の土曜日、空いてる?」
「え? 土曜……多分いける」
「じゃあ、お出かけしない?」
「え?」
七緒から誘うなんて珍しい。
「いや……だった?」
「いやいや! 誘ってくれるの久しぶりだったから驚いただけ」
「土曜日、空けといてね」
「うん、楽しみにしとく」
「……今日、遅くなるから」
「あ、うん……いってらっしゃい」
七緒の声が、少しだけ寂しそうに聞こえた。
休日出勤の仕事をしていると、昼に七緒からメールが届く。
『今日、大丈夫そう?』
『多分』
そう返した瞬間、後悔した。
「行けるよ」と返せばよかった。
七緒がせっかく誘ってくれたのに、「多分」なんて、まるで優先順位が低いみたいじゃないか。
だけど、その後すぐに仕事が舞い込み、考える余裕もなくなった。
夕方、ふと時計を見ると約束の時間の30分前だった。
慌ててスマホを確認すると、七緒からのメッセージが一つ。
『ごめんね。やっぱり今日はやめておこう』
「……は?」
急いで電話をかけた。しかし、何度コールしても繋がらない。
嫌な予感がした。
帰宅すると、部屋の空気が少し違って感じた。
七緒はいつも通りキッチンに立っている。
「ただいま」
「……おかえり」
振り返った七緒は笑っていた。
けれど、その目の奥に、何か影が見えた。
「なんで今日、やめたの?」
率直に聞くと、七緒は少し目を伏せた。
「……春樹、無理してるんじゃないかなって思ったの」
「無理?」
「仕事、忙しいんでしょ? 私との時間を作るの、大変なんじゃないかなって……」
「いや、そんなこと──」
「……本当に?」
その言葉が、胸に刺さる。
俺は、七緒に『多分』と返した。
彼女との約束よりも、仕事を優先していた。
──僕は、七緒に"甘えていた"。
「ねぇ、春樹」
七緒の声が、僕の言葉を遮る。
「……私、今日、ちゃんと話したかったの」
七緒は微笑んでいた。
でも、それは──まるで、さよならを告げる笑顔のようで。
「七緒……?」
「私たち、このままでいいのかなって」
「……どういう意味?」
「春樹は、私の気持ち、考えたことある?」
言葉に詰まる。
彼女はいつも「春樹の行きたいところでいい」「春樹に合わせるよ」と言ってくれていた。
でも、それは彼女が"我慢していた"ということだったのかもしれない。
「ごめん……」
自然と、その言葉がこぼれた。
「え?」
「俺、七緒に甘えてた。ずっと隣にいてくれるって思い込んでた。七緒は、もっと俺に考えてほしかったんだよな?」
七緒の目が揺れる。
「……うん」
「これからは、ちゃんと七緒の気持ちを聞くよ」
七緒の手を取ると、少し驚いた後、やがて笑顔が戻った。
「ほんと?」
「あぁ。まずは……もう一回デートの予定、立て直さないか?」
「……ふふっ、うん!」
七緒の笑顔を、久しぶりに見た気がした。
この幸せをしっかり掬おう。
露のように儚くとも、僕らの幸せを。