第三話 文化祭打ち上げ
夢を見た。蒼太くんが出てくる、不思議な夢を。
「アンタみたいな根暗なブス、見てるだけで不愉快なんだよ!」
光源は差し込む夕陽だけの薄暗い中学校の教室に怒声が響き渡る。あの時の屈辱と孤独が、ありありと蘇る。
わたしは、中学校でいじめの標的だった。五人の女子に囲まれ、尻餅をついたまま、身動きが取れない。スポーツよりも読書が好きで、おしゃれよりもゲームに夢中なわたしは、いつも浮いていたのかもしれない。
「アンタ、佐藤くんが好きなんだって? 佐藤くんはあたしのものだから! 邪魔しないで!」
いじめっ子のリーダーの橋口が、冷たい視線を投げかけながら拳を振り下ろそうとした――その瞬間、教室の空気が凍りついた。
「何やってるんだ?」
静かで落ち着いた声が、ピンと張り詰めた空気を切り裂いた。
ふと見上げると、そこには蒼太くんが立っていた。たまたま通りかかったのか、教室の扉の前に立ち、じっとこちらを見つめている。
橋口は一瞬戸惑いながらも、すぐに強気な態度を崩さずに言う。
「佐藤くん、あんたからもこの根暗にブスだって言ってやりなよ。『お前みたいなやつを俺が好きになるわけないだろ』って!」
胸が締めつけられる。彼女たちが求めているのは、わたしが好きな人に絶望させられる姿。
彼がわたしに向かって歩みを進める。
でも――
「君、可愛いよね。いつも思ってた。俺、本読んでる女の子好き。あ、今度おすすめの本教えてよ」
――え?
静まり返る教室の中で、彼の言葉が驚くほどはっきりと響いた。わたしの目線に合わせるようにしゃがみ込んで、にこりと笑った。
いじめっ子たちは、一瞬言葉を失う。
「何言ってんの!? そんなこと思ってないでしょ!」
橋口が苛立ったように声を上げるが、蒼太くんは気にする様子もなく立ち上がり、淡々と続けた。
「さあな。思ってるかもしれないし、思ってないかもしれない。でも、今から言うことは本当だ。俺は弱いものいじめをする奴が大っ嫌いだ。それに、可愛い女の子を自分の嫉妬でブスと罵るやつも嫌いだ。俺はそんなお前たちを許さない」
言葉の重みが、教室の空気を押しつぶすようだった。
いじめっ子たちは居心地が悪くなったのか、気まずそうに視線を交わし、次々と教室を後にしていく。嵐が過ぎ去ったあとのような静寂が残った。
ふと、わたしの目の前に、手が差し出された。
「怪我はない?」
その手は、綺麗で大きく、温かかった。
「……どうして、助けてくれたの?」
喉の奥が詰まりながらも、わたしはようやく問いかける。
「俺さ、昔はいじめっ子だったんだよ。いじめてた子からは許してるって言われてるけど、俺はあの時、いじめてしまった自分が今でも許せない。だから、いじめてるやつを見るたびに、昔の俺を見てるみたいで許せないんだ」
蒼太の過去を聞いたこの時、「彼が自分自身をどれだけ許せなくても、わたしだけは許してあげよう」と心に誓った。
「どうやってお礼をしたら良いか……」
「お礼なんて良い……いや待てよ。折角言ってくれてるんだし……」
蒼太くんは長考した。
「じゃあさ、一生に一回のお願いを絶対聞くってことでどう?」
そんなことは言われるまでもないとわたしは頷いた。もしわたしが過去に戻れるとしたら、この時の自分に「やめておけ」と言いに行くだろう。
***
「はっ……!」
文化祭の翌日、午後6時。目が覚めた瞬間、もうすぐ始まる文化祭の打ち上げの時間が頭をよぎった。どうやら、文化祭の疲れが限界に達して、昼寝をしてしまったらしい。
しかし、ただの昼寝ではなかった。夢の中で、懐かしくも切ない記憶が鮮やかに甦っていた。
――あの夢は、今でも大切な思い出として心に刻まれている。
夢から覚めたわたしは、無性に顔が熱くなり、背中にじわりと汗が滲んでいるのを感じた。
……なんで今さら、あんな夢を?
体中に残るあの温もりと恥じらいが、まるで昨日のことのように迫ってくる。
――いやいや、違う違う!
勢いよく頭を振り、わたしは自分に言い聞かせた。
ありえない。
文化祭でメイド服を着るように頼んできたあの男を、わたしが好きになるなんて、絶対にありえないのだ。
大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
……とにかく、今は打ち上げだ。
わたしは、焼肉屋へ向かうため、足を踏み出した。
***
焼肉屋で、わたしはひたすらお肉を頬張っていた。
やけ食い。
あんな恥ずかしい思いをした後くらい、少しは食べ過ぎても許されるはずだ。
隣には蒼太くんが座り、前の席にはクラスメイトの男女が談笑している。
「にしても、亜衣のメイドのコスプレったらすごかったよなー。よ! 人気者」
蒼太くんが、軽い調子で話しかけてくる。文化祭の恥ずかしい記憶が、今でも尾を引いているのが痛々しい。
「本当に凄かったよー。わたし、あんなの絶対できない!」
斜め前に座っていた女の子が、にっこり笑いながら言う。その言葉の端々に、どこか煽るような響きを感じるのは気のせいだろうか。
「俺も、立花のコスプレ撮ったぜ!」
ほとんど話したことのない男の子がスマホを取り出し、得意げに宣言する。画面には、わたしのメイド姿がばっちり収められていた。
……まただ。また、笑われる。
わたしは、どう返せばいいのかわからず俯いた。
そんなわたしの横で、蒼太くんはスマホを覗き込み、「いい写真じゃん」と軽く流すだけ。
そして彼の最悪な提案――
「来年の文化祭はバニーガールのコスプレなんてどう?」
……ああ、もう無理。
バンッ!
「もういい加減にしてよ!」
思わず、机を叩いて立ち上がる。店内が一瞬、静まり返った。蒼太くんも、前の席の二人も、驚いたような顔でこちらを見ている。
でも、もう止まれなかった。
「そうだよ! 蒼太くん、いじめっ子だもんね! わたしが苦しむ姿を見て、いつもニヤニヤしてさ!」
自分の声が怒りに震えているのがわかる。どうして、こんな状況が続くの? どうして、こんなにもからかわれなきゃいけないの?
「……! それは……」
蒼太くんの表情が曇る。わたしは、言ってはいけないことを言ってしまった。きっと、彼が一番言われたくなかった言葉を。店の中にいる全員に聞こえる声で、彼の古傷を抉ってしまった。
それでも――
わたしの怒りは収まらなかった。
「本当にやめてくれない!? もう知らない! 大っ嫌い!」
感情のままに叫ぶと、財布からお札を取り出し、勢いよく机に叩きつけた。「お釣りは要らないから!」と吐き捨てるように言い、そのまま店の出口へと向かう。
「待って!」
後ろから蒼太くんの声が聞こえる。でも、わたしは振り返らなかった。
――このままじゃ、泣きそうだったから。
***
近くの公園のベンチで、星空を見上げていた。
夜風がそっと頬を撫で、心地よい冷たさを運んでくる。だけど、こんな穏やかな夜に、わたしの胸の中は一つの思いで満たされていた。
……言ってしまった。
なんで、あんな酷いことを蒼太くんにぶつけてしまったんだろう。
彼のおかげで毎日なんとか中学校に通えていたこと。
メイド服姿のわたしを「可愛い」って褒めてくれたこと。
手の甲にそっとキスをして、お姫様抱っこしてくれたこと。
お化け屋敷で彼に抱きついた時、心の底から安心できたこと。
ライブで『アイドル』と呼ばれ、ほんの少しでも誇らしい気分になれたこと。
本当は全部、今も胸に刻まれてる。わたしにとって、なくてはならない存在のはずなのに。
「はぁ……」
深く息を吐き出した、その時。
遠くから足音が近づく。
「やっと見つけた……」
聞き慣れた声が響いた。
――なんで、こんな時に。
「もういい! 来ないで!」
反射的に叫んでいた。ここまで追いかけてくれたのが嬉しかったくせに。
蒼太くんは、一瞬驚いたような顔をしたあと、真剣な表情に戻った。
「俺、調子に乗ってた。君が恥ずかしがる姿が可愛くて、愛おしくて、ついやりすぎちゃった。……俺が悪かった。ごめんなさい」
――ズルい。
こんなふうに、素直に謝られたら。
さっきまでの怒りとか、悲しさとか、全部どこかに消えてしまいそうになる。
「アイス……30回……」
一瞬、蒼太くんが驚いたように目を見開いた。
「え?」
わたしはもう一度、少し声を張って言う。
「だから、アイス30回奢ってくれたら許してあげる!」
蒼太くんは、呆れたように笑って肩をすくめる。
「回数多いな!? 相場1回だろ! ま、それくらい当然のことやったわけだしな……わかった。一番高いやつをこれから1ヶ月奢るよ。お姫様」
「約束破ったら、駅前でソーラン節3時間踊ってもらうから」
そう言うと、「罰が独特すぎだろ!」と蒼太くんがツッコミを入れた。気づけば、わたしは笑っていた。
しばらく他愛もない会話を交わし、少しだけ空気が和らぐ。
やがて、蒼太くんがふと真面目な表情になった。
「もう暗いね。家まで送っていくよ」
「うん、ありがと」
小さく答える。
そして、歩き出す直前。
「それと、お金足りてなかった分は俺が払っといたから」
「……え?」
蒼太くんの言葉に、思わず動きを止める。
……五千円札を出したつもりだったのに、焦っていたからか、千円札だった?
――うそ。恥ずかしい。
わたしの顔は一気に熱くなり、視界がぐるぐると回った。
***
それからというもの、わたしと蒼太くんの立場は完全に逆転した。毎日ハーゲンダッツを奢ってもらい、時々ショッピングに同行させては、荷物持ちにこき使う日々。
「なーあー、そろそろ一口くらい分けてくれよー!」
わたしは、彼に謝ってもらった公園のベンチで、今日も優雅にハーゲンダッツを口に運んでいる。
「ダメ! なんのための罰だと思ってるの!? そんなに食べたいなら、自分で買えばいいじゃない!」
「君に奢るだけでも破産寸前なんだよー!」
わたしは「仕方ない」とスプーンで一口すくい、彼の口の前に持っていく。
「はい、あーん」
少し意地悪に笑ってみせる。
しかし、彼はわたしの揶揄いには乗らないとばかりに、すばやく手からスプーンを奪い取る。
――ついでに、わたしのアイスのカップから大胆にすくってーーそのまま口に運んだ。
「美味ぇー!」
「あ、ちょっと!?」
目の前で堂々とアイスを奪われ、思わず声を上げる。
もう猛暑も終わろうとしているのに、アイスを奢ってもらう日々は続いていた。
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