第24話 平穏はいまだ遠く その2
「口封じに来たのよ」
万里はどこまでも真剣に、厳かに告げる。
向かい合う千里は……眉を寄せざるを得なかった。
「口封じって、現実にそんなこと言う奴がいるんだな」
漫画やアニメならともかく。
そう続けると、今度は万里が眉を寄せた。
「アンタ何言ってんの?」
美貌が訝しげに歪む。
違和感を覚える。何かがかみ合っていない。
彼女の顔を見る限り、ジョークの類ではなさそうなのだが……
千里は腕を組んで目を天井に向け、『う~ん』と唸りながら目蓋を閉じて、脳内で『口』にまつわる単語を片っ端からピックアップして――
「……ひょっとして、口止めか?」
「あ……それ、口止め」
万里の声が弾んだ。
ちょっと、こう、不意打ちな感じで。
沈黙。
再び目を開いた千里が見たのは――万里の横顔だった。
白い頬にはかすかに朱が差していて、逸らされた眼差しはフラフラと泳いでいる。
めったに使わない言葉でカッコつけたら思いっきり滑った、そんな自分への羞恥に悶えているっぽい。
――追い打ちは、やめておこう。
別に彼女を辱めたいわけではないが……その表情にはゾクゾクするものがあった。
万里を辱める。
……その単語の連結に悪趣味なときめきを覚える。
『恥をかかせる』ではなく『辱める』なところが思春期男子的なポイントだ。
閑話休題。
「口止めか。ああ、それならわかる。で、どれを口止めしたいんだ?」
「全部」
いまだ視線を合わせようとしない万里の答えは、削りようがないほどにシンプルだった。
『わかれ』と言わんばかりの口ぶりに、ちょっと笑いが込み上げてくる。
組んだ腕をそのままに、千里は再び目を閉じた。
――全部ってなぁ……あの日のことに決まってるんだよなぁ。
あの日。
浜辺で万里と出会った日。
あの日は……本当にいろいろあった。
千里がナンパ的に声をかけて、万里がオッケーしたこと。
一緒にビーチバレーして、万里が溺れて、千里が助けて……その拍子に彼女の水着がズレて、ほとんど裸同然の状態で密着したこと。
普段は絶対目にできない(自主規制)まで見えてしまったこと。
レジャーシートにしどけなく寝そべる姿や、スイカ割りで棒を構える凛々しい姿。
電車で肩を預けてきた彼女との会話、駅のホームで交わした会話。
別れ際に見せた、寂しげな横顔。
すべてをなかったことにしろと言われると不満を覚えずにはいられないが、口を閉ざすだけなら受け入れられなくはない。
「わかった。由宇と陽平には俺の方から話しておく」
「怒らないんだ?」
そんなことを口にする万里の声こそ怒っているように聞こえた。
戸惑っているようにも、申し訳なく思っているようにも聞こえる。
彼女の中でも整理できない感情が錯綜しているのだろうと思われた。
「気持ちはわかる……とまでは言わないが、俺から見てもあまり表沙汰にしたくないことが多かったのは確かだからな」
「……真壁はそれでいいんだ?」
「泉?」
理解を示したつもりなのに機嫌を損ねていた。
わけがわからない。彼女との会話では、まれによくあることだった。
万里は口をつぐんだまま、千里をじーっと見つめていて……はぁ~っと息を吐き出した。
「ごめん。アンタの言うとおりね。うん、それでお願い」
「待て。俺がなにか間違ってるんだったら、ちゃんと教えてくれ」
「なんでもない。本当になんでもないから。ごめん、私……変なこと言ってる」
ふるふる揺れる頭に合わせて、ボリューミーな黒髪がさらさらと流れる。
どこからどう見ても『なんでもない』なんてことはなさそうだが……ここで彼女を問い詰めても、あまり良い結果は得られそうにない。
――まぁ、言うとおりにしておくか。
本当に自分に伝えるべきことがあるのなら、折を見て話してくれるだろう。
声には出さず、何度も何度も自分に言い聞かせた。
そして、ひと息ついて――
「高峰たちとは、あれからどうなんだ?」
踏み込んだ。
ずっと気になっていた。
海で万里と遊んだあの日、彼氏とともに姿を消した彼女の友人たち。
親との約束を破って恋人と甘い夜を過ごそうとするふたりを、どうにか押し止めようと憤慨する万里の姿が忘れられない。
最終的には千里の説得が功を奏して、万里は『高峰 白雪』と『星崎 ステラ』への脅迫(?)を思いとどまったわけだが……あれからどうなったのか、何も聞かされていない。
……というか、海から帰って数日経過した今日まで、万里と顔を合わせていなかったのだから、知らなくて当然なのだが。
「あ」
ヤバい。
迂闊なことを口にしたことを瞬時に悟った。
万里のきれいな眉が、目の前でキリキリと吊り上がったからだ。
机の上でギュッと組まれた白い手は傍目から見てわかるほどに震えていて、彼女の心境を雄弁に物語っていた。
『許したわけじゃないけど』
帰りの電車の中で、彼女はそう言っていた。
どうやら現在進行形で冷戦は継続中のようだった。
見た目はサッパリ系なのに、結構根に持つタイプらしい。
「……すまん、言いたくないなら別にいい」
「真壁、真面目過ぎ」
万里はうっすらと笑った。
見ている方が苦しくなる、力ない笑みだった。
「……このままじゃダメだって思うんだけど、気持ちの整理がつかなくて」
顔を合わせると何をしでかすか、自分でも予想がつかない。
冷静さを取り戻してから話し合おうと思っているうちに、どんどん時間が過ぎていく。
決着を先送りにするほど状況は悪くなるのはわかっているのだが……どうすればいいかが、わからない。
「それは……」
苦しい。
胸が締め付けられて、息ができない。
らしくもなく俯いて、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ万里を見ていられない。
「俺が……」
ふたりに話そうか。
そう言いたくて、言えなかった。
千里は白雪ともステラとも親しくはない。
あの日より前の万里と同じで、ほとんど言葉を交わしたこともない。
あちら側の視点で考えてみれば、『真壁 千里』はどうしようもなく赤の他人なのだ。
そんな自分が何の脈絡もなくしゃしゃり出ても、彼女たちが対話のテーブルについてくれる未来が見えない。
万里は……先ほどよりも強く首を横に振った。
「いいわ、これは私が自分で解決しなきゃダメな話だから」
「そうか……できることがあったら、何でも言ってくれ」
震えるこぶしを、そっと机の下に隠した。
無力な自分を万里に見られたくなかった。
★
すっかり消沈した万里とは昇降口で別れた。
最寄り駅まで送ろうかと思ったのだが、『ひとりにして』と儚い笑みを浮かべる彼女に食い下がることはできなかった。
時間は昼を少し過ぎたあたり。
見上げた空は高くて青く、今日も今日とて太陽が眩しく照り輝いていたし、学校から駅までに危険な場所があるわけでもない。
この時間帯なら電車だって空いている。痴漢が出るとは思えない。
つまり、自分が付きまとう理由はない。
――本当に? 何か忘れてない?
頭の片隅から声が聞こえる。
クスクスとあざ笑う声。
紛れもない自分の声。
千里は小さく首を振って――その声を無視した。
「じゃあな」
「ええ」
夏休みの校舎には人気がなくて、ふたりが並んで歩いているところを誰かに目撃されることはなかったが、ひとたび外に出れば部活に勤しんでいる運動部員がそこかしこにいるわけで、彼らに目撃されて変な噂を立てられるのは避けたかった。
自分はともかく万里にとっては迷惑に違いない。
「何の役にも立たんな、俺は」
吐き捨てて踵を返した。
身体が気だるい重みに押しつぶされそうだった。
『だったら、どうすればよかったんだ?』と自身に問いかけても答えは見つからず、モヤモヤとした気持ちを持て余したまま図書室のドアを開け――
「真壁くん、ちょっといいかな?」
背後から、声。
聞き覚えのある声が耳を震わせる。
ヒュッと喉が鳴って、ドアノブにかかった手が強張った。
ゴクリと唾を飲み込んでから振り向くと、そこにはひとりの少女が立っていた。
セミロングなポニーテールの黒髪、シャツの隙間から覗く白い肌。
知的なイメージを際立たせるアンダーリムの眼鏡と大粒な瞳が印象的な美貌には、柔らかい笑みが湛えられている。
頭の位置は千里の肩あたりで、万里と大差ない。
短めなスカートの裾から伸びる脚は、夏なのに黒いタイツを穿いていて、見ているだけで暑そうだった。
シルエットは総じて華奢なのに、か弱さなんてこれっぽっちも感じない。
それどころか……ひとたび目にすれば絶対に忘れることなどありえない、見る者にそんな確信を抱かせる少女だった。
「高峰……」
千里の口から零れた声は、わずかに掠れていた。




