第22話 夏の夢の終わりに その5
「あ、来たみたい」
ポップな待ち受け音を耳にした由宇がスマホに目を走らせた。
『待ち人来たり』な喜びや安堵だけでなく、わりとハッキリわかる程度にウンザリ感が漂っている。
「お父さん? 日高の家ってここから近いの?」
「う~ん、車で十分くらい?」
「そんなもんだな」
千里も自分のスマホを見た。
由宇が連絡してから五分も経過していないのは、気のせいか見間違いだと思うことにした。
とにかく、由宇とはここでお別れだ。
……と言ってもお隣さんなので、悲壮感とかとは無縁だった。
「親父さんにもよろしく言っておいてくれ」
「千里のおじさんたちに伝えとくこと、何かある?」
「……いや、あとで説明するから、何も言わなくていいぞ」
由宇をこき使う気になれなかった。
一日中ほとんど遊んでいただけとはいっても、見慣れた幼馴染の顔には疲労が滲んでいた。夏の直射日光は過酷だ。
早く休ませてやりたい。
「ふ~ん、あっそ」
素っ気ない口振り。
怒っているようにも拗ねているようにも見える顔。
この流れで由宇がそんな表情をする理由が、サッパリ思い当たらない。
以心伝心とまではいかないにしても、子どものころはもっとわかりやすかったように思うのに。
――何か言うべきか、俺?
迷った。
でも、答えが見つからない。
三人の間から音が消えて、じりじりと沈黙だけが続く。
ホームに入ってくる電車の音も溢れる喧騒も、やけに遠く感じられる。
「千里、泉さんをちゃんと送ってあげてね」
口火を切ったのは由宇だった。
光の加減のせいか、表情が見えない。
声からも心境を推し量ることができない。
言いようのない不安を覚えたものの……答えは最初から決まっている。
「言われなくても、そのつもりだ」
「電車代もったいないから改札まで~とかケチなこと言っちゃダメだよ」
「ちょっと待って。家までついてこられたら困るわ」
「……そうなの?」
口を挟んできた万里をきょとんとした顔で見つめる由宇。
千里を挟んで女子ふたりが向かいあうと、空気がどんどんピリついていって――
「そっか……うん、そっか」
じゃあね。
それ以上は何も言わずに、由宇は駅の階段を上がっていった。
人ごみに紛れて見えなくなるまでその背中を目で追いかけて――ふーっと肺に溜まった空気を吐き出した。
――なんだったんだ、さっきの間は。
わけがわからない。
いつの間にか、むき出しの腕に鳥肌が立っていた。
――む?
視線を感じる。
すぐ隣から。
――とりあえず……この雰囲気は、よくないな。
根拠はなかったが、判断は間違っていないと確信した。
その証拠に、口が強張って動いてくれない。
――落ち着け……落ち着け、俺。
背中を反らせて伸ばし、肩をグルグルと回し、首をゴキゴキと鳴らし、眼鏡の位置を直した。
ギュッと目を閉じて――開く。
ゆっくりと、口を開く。
「それじゃ、俺達も行くか」
「……そうね」
「泉?」
今度は万里の顔に影が差していた。
今の流れで彼女が機嫌を損ねる要素があっただろうか?
ひとつひとつ丁寧に記憶を掘り返してみたのだが……特に思い当たる節はない。
「ゴメン、何でもない」
「そうか? 気に障ることがあったら遠慮なくいってくれ」
「だから、何にもないって」
ほら、行くわよ。
ふるふると首を振った万里は、返事を待たずに踵を返した。
彼女と今日初めてまともに言葉を交わした千里から見ても、何でもないってことはなさそうだったのだが……
「あ、ああ」
おとなしく首を縦に振った。
本人が言いたがらないことを無理に聞き出すのは気が乗らなかったし――正直なところ、聞くとロクでもないことになりそうな予感がした。
違う。
全部後付けの理屈だ。
考えるより先に身体が動いた。
本能が、そうするべきだと囁いたのだ。
★
「ジュース」
「ん?」
「ビーチバレーのアレ。ジュース一本奢りでしょ」
「あ、ああ。そんなこともあったな」
「そういうわけで、アレ」
白い指が差す先には、ジュースの自販機があった。
ふたりは今、万里の降りる駅のホームに立っている。
――ちょうどいいな。
考えたいことがあった。
電車に乗る前に彼女が言ったとおりにホームで別れるのは……さっきの駅で由宇を置き去りにすることと大差ないように思えたのだ。
見上げた空は、先ほどより暗かった。
足元からもひたひたと闇が迫ってくる感覚がある。
降りたことのない駅から万里の家まで安全が保障されているかどうか、判断ができない。
――本当に帰った方がいいのか?
彼女の懸念も理解できる。
男子に自宅の場所を知られることを警戒するのは当然だ。
ストーカー扱いされることは腹立たしいが、彼女の家を知ってよからぬことを考えない自信はなかった。
千里は自分の理性をあまり信用していない。
――となると……
「由宇みたいに親に連絡したらどうだ?」
「もうした」
「なるほど。だったら、親が来てくれるまで付き合わせてもらおう」
「別にそこまでしてくれなくてもいいんだけど……」
「迷惑だろうが、それぐらいさせてくれ。ここで泉を放り出して帰ったら、後で由宇に何を言われるかわかったもんじゃない」
……という流れからのジュースだった。
言質を取ったわけではないが、自分とここで親を待つことを了承したと判断してよかろう。
自販機を前に――千里は首を傾げた。
「で、何を飲むんだ?」
「え? あ、そっか……ウーロン茶お願い」
『そっか』ってなんだ?
訝しくは思ったが、口にはしなかった。
わけがわからないことを口走るなんて、よくあることだ。
イチイチ聞き咎めるなんてメンドクサイし、逆に咎められたらうっとうしい。
「……甘いもの、苦手なのか」
「好きだけど、今日は糖分結構とったから」
「ダイエットなんて必要なくないか?」
糖分とダイエットがノータイムで結びついたのは、きっと今日のために涙ぐましい努力を重ねていた幼馴染を見守ってきたからだと思った。
昼間にガン見した万里の肢体とは縁のない言葉だとも思った。
同時に、その話題がヤバいことにも思い至ったが……吐いた言葉は飲み込めない。
「ダイエットじゃないから」
日頃の積み重ねなのよ。
わずかに頬を膨らませた万里に『すまんかった』と頭を下げてウーロン茶の缶を手渡す。
「……ッ」
触れた手に熱を感じた。
ほんの一瞬、指先が触れただけなのに。
でも、ここで慌てて引っ込めたら意識しているように思われる。
「真壁?」
「何でもない」
「ふ~ん、変な真壁」
声が震えた。
顔が強烈に熱を持っている。
恥ずかしいのとは、ちょっと違った。
千里は――それ以上考えるのをやめて、コーラを買った。
「あっち」
万里が指さしたのは駅のベンチだった。ちょうどいい具合に空いている。
たった三文字の指示語だったが、意味は理解できた。
座って飲もうと誘われている。
「……」
断る理由は思いつかない。
否、断ろうという気にならない。
並んで腰を下ろして、コーラを口に運んだ。
爽快な炭酸と甘味……のはずなのだが、味を感じない。
横目で様子を窺ってみれば、万里はちびちびとウーロン茶を口に運んでいる。
背もたれに身を預け、すらりと長いむき出しの脚を組んだ彼女はどこまでも平然としていて、その整い過ぎた顔を見ていると千里はわけもなく焦燥感に駆られてしまって……耐えきれなくなって視線を外した。
「気を遣わせたわね」
「俺は……何もしていない」
「……そういえば、アンタにも気を遣わせてたか」
よくわからないことを言う。
万里は遠くを見つめたまま缶を口に運んでいる。
これ以上この件について何かを話すつもりはない。そう言っているように見えた。
「今日は、ありがと」
「だから、礼を言われるようなことは……」
「そう言うと思ったけど、私も勝手に言ってるだけだから」
「そうか」
「ねぇ」
「なんだ?」
「……真壁って、夏休みヒマなのよね」
「割とヒマだな」
「そっか」
細切れの会話がもどかしい。
気の利いた話題なんて思いつかない。
まるで落ち着かない。
でも、居心地は悪くない。
「今日はありがと」
「またそれか」
「それ」
桃色に艶めく唇の端が緩むのと同時に、千里の耳が振動音を捉えた。
発信源は万里のカバンの中――スマホだ。
「来たのか?」
「ええ」
万里は笑って立ち上がった。
千里も立ち上がった。手の中の缶はとっくの昔に空になっている。
「改札まで送るぞ」
「いいわ、フェアじゃないし」
「フェア?」
また変なことを言う。
万里は『何でもない』と淡い笑みを浮かべた。
今日一日で何度も目にしてきた彼女の笑顔の中で、一番きれいだと思った。
「真壁?」
「……それ、俺の方で捨てておく」
「そう? じゃ、お願い」
空き缶を受け取る際に、また手が触れた。
ほんの少しだけ、万里の手が震えているように感じられた。
動揺しているように感じられた。
――自分に都合がいいように考え過ぎじゃないか。
そう呆れて――けしかける意図満々な陽平のアドバイスが脳裏をかすめて、頭も心もしっちゃかめっちゃかにかき乱されてしまって、どうにかこうにか喉から声を絞り出した。
「……じゃあな」
「ええ、またね」
万里が背を向ける瞬間、風が吹いた。
ふわりと黒髪がなびいて、千里の鼻先を掠めた。
心臓がひと際強くドクンと脈打ち、背筋を震えが駆け上がる。
「……ッ!?」
何か言おうとして――言えなかった。
離れていく万里の背中を、ただ見つめていた。
彼女の姿が見えなくなっても、ずっと見つめていた。




