リセント・ライツ
寄り道の短編です。(一応)
「骨にひびが入ってただけで済んで良かったじゃない。」
「何言ってんの母さん、骨にひびが入るだけでも一大事よ。」
母は大雑把、姉は心配性である。この会話のラリーだけでそれが感じられる。
左腕に巻かれたギプスをさすりながら私は思った。
私という人間はつくづく集団の〈中央値〉にあるのだと。
周囲からはよく「春乃ちゃんはお母さんとお姉さんを足して二で割ったような感じだよね。」なんて言われる。
うん、間違ってはいないよ。私もそう思う。
父親のいない三浦家という集団において私は大雑把と心配性の中間を担っているのだ。
高校生活においてもその役回りは変わらない。勉強も部活も課外活動も、どれも私は全て中の中くらいに位置している。
しかしそれは〈平均値〉とは少し違う。
〈平均値〉はその集団の「合計÷人数」で求められる「皆のバランスを取れるところ」にいる。
しかし〈中央値〉はその集団の「常に真ん中のところ」にいる。
つまり皆が優秀になろうがアホになろうが、私は「三十一人いるクラスの十六位」という位置から一歩たりとも動くことがないのだ。それは〈平均値〉でいること以上にダサくて無個性で虚しいことである。
そう、私という人間はつくづくダサくて無個性で虚しい奴なのだ。
あれ?なんでこんな小難しいこと考えてんだろう私。見るとギプスの端が少し捲れてしまっていた。
「聞いてるの、春乃。」
母の呼びかけに私はビクッとなった。
「とりあえず頭部の検査も今から受けてもらうからね。」
「えーいいよ別に。」
「私だってしなくていいと思うわよ。でも夏樹が検査しろってうるさいのよ。」
「当然でしょ。春乃、アンタ事故ってからここに運ばれてくるまでの間の記憶ある?」
「ない。」
「でしょ!それはきっとそれだけ頭を強く打ったってことでしょ。たとえ今は大丈夫でも後遺症が残る可能性だってないわけじゃないんだから。」
ちょうどその時看護師さんが病室に入ってきた。
「三浦さん、お待たせしました。それじゃあ頭部の精密検査に行きますよ。歩けるでしょうけど念のため車椅子乗りましょうか。」
「お願いします。」
私ではなく姉が答えた。私は呆れながら車椅子に乗った。
姉の心配が的中していたことを私は小一時間してから知ることになった。
「ん-、特にこれといった異常はないみたいだね。」
「はぁ。」
「なんか頭のどこかが痛むとかない?」
「特にないです。」
精密検査は滞りなく済んだ。異常がなかったのだから当然である。
「視界がぼやけたりとかしてない?」
「大丈夫です。」
「はっきり見えてる?」
「はい。・・・あの先生、」
「何だい?」
「その『常』って字、何ですか?」
「はっ?」
「いやだから、先生の後ろの壁の『常』って、あれ?」
私ははじめ壁に『常』という一字が書かれているのだと思っていた。どうして壁になんか書いたのだろうかと気になったのだ。
しかしよく見るとあれは壁に書かれているのではない。浮いてるのだ、宙に。
正確に言えば今話しているお医者さん(下げてる名札には「畠山」とある)の頭上で『常』という字がネオンライトみたくオレンジに発色しながら浮いている。
マンガやアニメなんかでよくキャラクターの上に出る『?』や『!』。あれの漢字バージョンみたいである。
多分他の人たちにはこれは見えていない。畠山先生本人はまだしも、位置関係でいえば見えているはずの看護師さんも「何言ってんのこの子?」っていう顔をしている。見えてるの私だけだ。
「・・・大丈夫?なんか変なもの見えてる?」
「いや、気のせいでした。ごめんなさい。」
「それならいいんだけど。とにかく明後日までは入院してもらって順調に回復していれば一度退院して経過観察ね。」
「はい。」
「じゃあ水田さん、この診断書お願いね。」
「で、頭の方は問題なかったの?」
「うん、異常ないって。診断結果とか今後のことは今お母さんが説明受けてる。」
「そっか。ところでアンタなんか顔引きつってない?大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫、」
どうしよう。言ったほうがいいのかな。「お姉ちゃん、頭の上に『週』って字浮かんでるよ」って。
「ホントに大丈夫?やっぱり顔色悪くない?」
「ちょっと検査でくたびれちゃっただけだよ。それよりさ、お姉ちゃん今日彼氏とデートだったんじゃないの?」
「妹が自転車ごとトラックにはねられたって聞いてデート続行すると思う?」
「ごめん。」私は思わず下唇を引っ込めた。
「いいのよ別に。」
「彼氏さん怒ってるかな?」
「そこで怒るような人間だったらそもそも付き合ってないし。ほら、」
そう言って姉は私にスマホを見せた。姉と姉の彼氏のトークルームだ。
「アンタの容体をすごい心配してたよ。」
「そっか。ありがとうございます、って伝えといて。」
「うん。それで今さ、『途中で帰っちゃった埋め合わせは来週するね』って送ったら『回転寿司おごって~』って子供かよ。」
姉とクスクス笑いながら私はハッとなった。
「お姉ちゃん、さっきのトーク画面もう一回見せて!」
「どうしたの急に、はい。」
姉の送信と姉の頭上を私は交互に見比べた。もしかして・・・
事故から一週間、私は浮足立っていた。理由は二つ。
一つは学校で皆にチヤホヤ…じゃなかった、気にかけてもらったこと。
安直かもしれないがやはり人に心配してもらえるというのは悪い気がしないものである。
もう一つの理由は事故で得た後遺症、もとい能力である。
あの時畠山先生は診断書に『異常なし』と書き、姉は彼氏へのメッセージで『来週するね』と打った。
そしてそれぞれの頭上に『常』『週』という字が浮かんでいた。
つまり「その人が最後に書いたり打ち込んだりした漢字」が私には見えるのだ。
漢字限定な点も含めてなんて使えない能力なんだよとはじめ私は思った。
こういう展開って普通は空を飛べるとかIQ200になるとかインパクトのある変化が起きるんじゃないの?地味じゃね?ダサくて無個性な私にピッタリだと思った神様からのプレゼント?神様さぁ、彼女への誕プレとりあえずアクセサリーだったら何あげても正解とか思ってるでしょ?
しかしこの能力、地味なだけあって地味に使えた。
例えばテストの時がそうである。
まずその時視界に入る範囲で一番頭の良い人を探す。そしてテストが始まったらバレないようにそちらを見る。もちろん見るのは浮かんでいる文字の方である。上手くいけば単語全体、上手く行かなくても十分なヒントにはなる。
この方法の効果がテストの点数に如実に現れた時は思わずニヤけてしまった。
ただし数学に関しては一部の単元にしか使えず成績は上がらなかった。むしろちょっと落ちた。
「なんか春乃最近調子いいよね。」
「そうかな~?それよりさ、この前言ってたK-POPカフェ行こうよ!」
「いいね!いつにする?」
「今度の日曜とか?あ、でも日曜はミカちゃん家族旅行行くんだよね?」
「うん。なんで知ってんの?話したっけ?」
「なんとなくの勘だよ。やっぱ私調子いいのかも~。」
もちろん勘ではない。さっきSNSでやりとりしてるところを遠くから“盗み見”ただけである。
この能力はつくづく便利である、地味に。
人は日々自分でも意識できないほど膨大な量の文字を書き、メッセージを打つ。
「今日○○字書いたな」とその日を振り返る人間なんてきっといないし数えてられる人間もきっといない。
しかしそんな文字の羅列からはその人の個人情報や行動履歴、今後の予定がわかる。いいや、それだけじゃない。
その羅列はその人の心の中まで浮かび上がらせてしまう。
喜怒哀楽、好意、憎悪、憧憬、嫉妬・・・いろんなものが見えてくる。
人は日々自分でも意識できないほど膨大な量の感情と秘密を赤裸々に綴っている。
ちなみに退院から一ヶ月で私は「誰が誰に好意を寄せているのか」ほぼクラス全員分網羅できていた。
そして味をしめた私はこの地味な能力を極めていった。
三ヶ月も経つといよいよ担任の先生の結婚や学年主任の先生の退職をいち早く察知できるようにまでなった。
間接的に人の心を読める快感に私は徐々に浸っていった。
ギプスともおさらばして晴れて通院も終了した週のある日の五限終わりのことだった。
「春乃のレターケースなんか入ってるよ。」とミカちゃんが言った。
レターケースというのは教室の前方左側、黒板の側にあるクラス三十一名分の小さなポストである。
返却された課題や連絡プリントなんかを入れたりは勿論のこと、先生から生徒への呼び出しなど個人間のやり取りとしても使われている。
「おかしいな、昼休みに見た時は何も入ってなかったよ。」
『昼休みに見た』の『見』の段階でミカちゃんは私のレターケースを勝手に開けていた。
出てきたのは二つ折りにされた手の平サイズの白い紙だった。
「なにこれ?気持ワル。」
紙を開いたミカちゃんは顔をクシャっとさせた。
〈死ね〉
たった二文字だった。
しかもドラマや映画で見るような赤い血の色で枠一杯に書かれた〈死ね〉ではなく、真ん中に小さく中央揃えの活字体で入力された〈死ね〉であった。ミカちゃんの言う気持ワルさは文面よりもむしろこのことを指していたのだろう。
私の反応は早かった。二つ折りを一度閉じて、飛ぶ鳥の行方を追うように教室内を見回した。
誰?誰が書いたの?
いたずらなんかじゃない、書き手は明らかに私のことを恨んでいる、
『死』が浮かんでいる人間がまず怪しい。この後六限目はLHR、今教室にいるほとんどがクラスメイトだ。
『死』、『死』、『死』、・・・いた!
私は数瞬戸惑い硬直した。
「春乃どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ。こんなセンスのないイタズラ、一体誰の仕業だろうね?ハハハ。」
どうして?どうして有海が?
有海とは中学校から同じだった。部活もクラスも違うのに私達は仲が良かった。休みの日も一緒に遊ぶくらいであった。高校受験の時も互いに「春乃(有海)が一緒なら高校生活は確実に楽しくなるね」って言い合っていた。
ただいつからだろうか、二人の距離がどことなく離れていったのは・・・
自然消滅は時として喧嘩別れよりも心臓の奥を抉ってくる。
まして相手が〈死ね〉だなんて文章を送ってきた日にはその胸の傷に呪いが上乗せさせたような気分になる。
有海は私のことを憎んでいるのだろうか?死んでほしいと思っているんだろうか?
理由は何?「なんとなく。遠ざかっていったから。」それが真意?
無論本人に直接聞くなんてことできない。
そしてこんな時に限って私の特殊能力は無力なのであった。
気が付いたら有海の頭上に視線がいき、その視線を感じ取った彼女と目が合い、彼女が視線をそらす。
その瞬間に垣間見える有海のその暗鬱と憎悪の表情が私の脳裏にこびり付く。
結局そんな応酬が終礼を終えるまでに四回あった。
そして私は今モヤモヤの解けぬまま体育館の隅に居る。(ギプスが取れたとはいえ未だ怪我人扱いされているのだ。)
有海との仲はもう元通りになんてならないのだろうか?
そもそも私は真剣にそれを願えているのだろうか?
だってこの出来事がなかったら有海のことはそのまま意識の端へと追いやられてゆき、しまいには「そういえば昔仲が良かった友達」というフォルダを装ったゴミ箱に入れられてしまう。
有海の方はどうなんだろう。たとえそれが憎悪の念であったとしても有海は私を常に意識してくれていたのだろうか。ずっと一番の友達であると思ってくれていたのだろうか。
有海のこと、わかってるようで何もわかってないじゃん私。
私は座っている位置をほんの少しずれた。
「あれ?空気入れ無かったっけ?」
「部室にあったと思う。私取ってくるよ!」
「ごめんね負傷者にそんなことお願いしちゃって。トラックに轢かれないようにね。」
「はいはい気を付けま~す。」
海面へ酸素を求めて浮上するかのようにして私は体育館をあとにした。
自信満々に答えたくせに空気入れを見つけるのに割と時間を要した。
「あった。」
その時部室の扉がガタンと激しい音を立てて閉まった。
「三田君?」
そこにいたのは同じクラスの三田君だった。残念ながら下の名前が思い出せない。正直下の名前が思い出せないレベルの面識でしかない。
「何してるの?ここ女子の方の部室だよ?」
返答もなく間合いを詰めていく彼。危険を感じるにはあまりにも遅すぎた。
どう揉みあいになったのかもわからない。いつの間にか私は押し倒されていた。三田はそんな私の上に馬乗りになり私の顔面左側を殴った。
痛みと恐怖で声が出ない。とても部室の外に助けを求められるほどの声量出せる気がしない。
それでも私は力を振り絞り喉を震わせる。
「どうして…こんなこと…」
「お前のせいでお兄ちゃんがどれだけ迷惑受けたと思ってる!人の気も知らねーでヒロインぶってんじゃねぇよ!腕だけじゃなくてその顔も他の所もボロボロにしてやるよ!」
理解し説得するだけの余地もありそうにない。
えっ?私ここで死ぬの?
やっとついこの間ギプスが外れたばかりなのに?
なんだかんだでK-POPカフェもまだ行けてないのに?
有海の本心に気付かなきゃいけないことにようやく気付けたのに?
三田が再び右の拳を振り上げている。私はギュッと目をつぶった。
「何してる!!」
急にドアの開く音と怒号が響いたかと思えば、次の瞬間には私の腹部は軽くなっていた。馬乗りになっていた三田が引き剝がされたのだ。
「離せよ!邪魔すんなよ!」
三田はなおも手足をジタバタさせて抵抗していたが、怒号を飛ばしたその何者かに背負い投げられる形で部室の外へはじき出されていった。
背負い投げたのも当然で、助けに来てくれたのは柔道部顧問もしている吾妻先生であった。
その後騒ぎに気付いて駆けつけた先生たちに三田は取り押さえられた。
「『死ね』って手紙レターケースに入れたの三田君だったの?」
「お前のビビった顔マジで笑えたわ!あれ撮っといて拡散しとけば良かったな~」
「でも手紙を見た時『死』って文字は出てなかったのに、」
「は?何意味わかんねぇこと言ってんだよ。」
「いや、だから、その…」
「俺が書いたって証拠なんて後からいくらでも隠滅できんだろうがよ!」
三田は取り押さえられてなお暴れながら笑い狂った。
「ほら行くぞ!」
先生二人は彼の両脇を抱えたまま引きずるようにして職員室の方へ去っていった。
「大丈夫か三浦、とりあえず保健室で顔の傷を診てもらえ。」
後からいくらでも隠滅できる、
「どうする、家の人に連絡して迎えに来てもらおうか?」
『死ね』って書いた後に授業でノートとったら最後の一字は上書きされる、
なんだ、シンプルなことじゃないか、
「三浦どうした?歩けるか?」
頭上の漢字一文字だけで心情を読もうとしたことによる誤審、
「三浦!しっかりしろ!気をしっかり持てよ!」
「吾妻先生はどうして私が襲われていることに気が付いたんですか?」
「気が付いたわけじゃない。知らせに来てくれたんだよ。」
「誰が?」
「あれは確か川瀬だったな。」
「川瀬有海?」
「あぁそうだ。泣きながら呼びに来たんだよ。」
あれは『死ね』じゃなかったんだ、
「おい三浦!どこ行くんだ!?」
ドアノブに本来巻かれていた太い鎖は錆によって劣化しきっていた。
これじゃあ女子一人の力でも簡単に突破できてしまう。
私は呼吸の乱れを直す間もなく扉を押し開けた。
彼女はもうすでに柵の向こう側に立っていた。よく見ると今も頭の上に『死』の字が浮かんでいる。
「吾妻先生ちゃんと間に合ったんだね。」
「有海が知らせてくれたおかげだよ。ここからなら部室がよく見えるもんね。」
「知らせることしかできなくてごめんね。直接助けに行けるくらいの力も勇気も私には無いから。」
「それでも私助かったよ、有海のおかげで。」
「春乃が無事で良かった。・・・ねぇお願い、一人にして。」
「嫌だ。」
強い風が右から左へ吹いた。今にも有海の身体を攫ってしまいそうな強い風が。
「さっき私を襲った三田君ね、襲う前に私に『死ね』って手紙書いてたの。でも私ははじめ、その手紙は有海が書いたものだと勘違いしてた。」
「どうして?」
「話すとちょっと長いんだけどね。とにかく私は勝手なバックボーンと漢字一字に惑わされて、私の方から有海との溝を感じてしまっていた。ほんとはそうじゃなかったのに、有海の方がもっと苦しんでたのに、送り仮名が違ってたっていうのに。」
「送り仮名?」
「有海、何度も文字にしてたんじゃない?『死にたい』って。」
有海の後頭部が縦に動いた。風は少し弱まった。
「私に何も話してくれなかったのは私のことが嫌いだったから?」
「違う。」
「そうだよね。嫌いじゃないから助けてくれたんだもんね。だとしたらなぜ?頼りにならないと思ったから?」
「違う。逆だよ。」
「逆?」
振り返った有海の目はすでに腫れきっていた。
「打ち明ければ、きっと春乃は無理をすると思ったから。」
「・・・じゃない」
「え?」
「冗談じゃない!」
〈自殺しようとしている人を説得する〉というシチュエーションにあるまじき圧迫感を持って私は叫んでしまった。そして彼女のもとへ走った。
私は左手で勢いよく柵を掴むと今度は右手で有海の制服の襟を鷲掴みにして引きずり上げた。
突然のことに驚愕したことで有海が無抵抗であったこと、そして屋上が無風になっていたことが私の馬鹿力を後押しした。
有海は驚いたまま屋上の地面に倒れた。
有海の上に跨り私は彼女の顔を平手ではたいた。思えばこの時の私の行為は三田がしたそれと殆ど変わりなかった。
「どうして無理させないの!そうやって遠ざかることが優しさとか言うの!そのまま有海が消えていなくなっちゃっても私が苦しまないとでも思ったの!」
「ごめん。」
「ごめんじゃない!だいたいさ、有海は昔からそうやって苦しいとか辛いとか何も言えなくて、後になってそれを知って私は気付けない自分が許せなくって、それでも有海は友達でいてくれて。今回だって!私は有海の苦しいにも辛いにも気付きもせずに自分が嫌われたかどうかなんてことに囚われて、それなのに有海は私のことを助けてくれた、友達でいようと想ってくれてた、それを後になってただ知ることしかできない私の気持ちはどうなるの!恥を知れ!私ともども恥を知れ!ごめんなさい!ごめんなさい!」
説教と懺悔が混じると人はこうもめちゃくちゃにキレるんだ。
自分でも何話してるかわかんなくなっていた。視界などとっくにぼやけきっていて、有海の顔などまともに見えちゃいなかった。
有海に覆い被さるような態勢のまま私はどれくらい泣いていたのだろう。
長い時間経ったと思っていたが頭上の夕空は一ミリも変わっていない。
二人して大の字で横になったままその夕空を見る。有海はゆっくりと話し始めた。
大学受験が迫ってきたことで毒親からのプレッシャーと罵倒が加速していること、
それでもなんとかして応えようと勉強を頑張り成績を上げると、それが今度はクラスの一部女子から反感を買いイジメに発展していたこと、
毒親が大金を積んで有海に通わせている学習塾、そこの講師からセクハラを受け続けていること、
どれも私は初耳だった。三田よ、少し許そう、愚かな私をもう一発殴ってくれ。
「春乃、」
「何?」
「・・・助けて。」
「うん。」
「って言っても私なるべく春乃の迷惑にならないようn」
「とりあえず今日ウチに泊まって、絶対に。」
「・・・うん。」
再び風が吹き始めた。今度はこの軽い軽い私たちの身体を攫うような強い風ではない。軽いながらも根を張りだした私たちに添うだけの、そんな穏やかな風だった。
「春乃、」
「何?」
「『輪の中心』ってどこだと思う?」
「哲学の話?」
「かもね。よくさ、人気者のことを『輪の中心』って表現するけど、そういう人ってマジョリティの中心にはいるけどホントに輪の中心にいるわけじゃないように見えるの。」
「んー、わからなくはないかも。」
「でしょ。それで言えば本当の『輪の中心』に立てるのは春乃なんだと私ずっと思ってるの。」
「褒めてる?それ?」
「べた褒め。」
「ホントに~?」
お互い真っ赤な目元をしたままクスクスと笑った。
「春乃、」
「何?」
「ありがとう。」
「こちらこそ。」
やはり私は〈中央値〉なのだろう。
ダサくて無個性で時として虚しい。
しかし同等に意味のある位置なのかもしれない。
少なくとも今回そのおかげで友達の手を離さずに済んだ。
ちょっとだけ素敵じゃん、中央値の私。
「さ、一緒に家帰ろ。お腹空いちゃった。」
「春乃、その前に保健室。」
「そうでした、」
有海を取り巻く問題は瞬く間に解決していった。
そもそも一部女子による有海へのイジメはあの吾妻先生が以前から気が付いていて、教育委員会への報告と生徒指導を繰り返していた。皮肉にも有海の自殺未遂は吾妻先生の雷を何十倍も強くした。しまいにはイジメていた生徒の保護者まで号泣させるという珍事に至った。
有海にセクハラしていた塾講師についても以前より他の生徒にも猥褻な行為をしていることが山ほどの告発によって明らかになった。刑事告訴にまでなったこの出来事も珍事と言えよう。
しかし一番の珍事は、三者面談で有海が母親に強烈なビンタを見舞ったことだった。こっそり覗いていた私でさえ「マジで!」と声に出してしまった。有海の母親はもちろん同席していた有海の父親も驚き、そしてポロポロと二人泣き出したのだ。あの涙が改心に繋がることをただ祈るばかりである。
三田も順当に暴行事件の被告人として起訴された。数か月前に私をトラックで轢いてしまい解雇されてしまったドライバーが三田のお兄さんだった。逆恨みによる犯行であった。警察も学校もこの背景を把握していなかったという悪い奇跡が起こったことによる事件であり、この事に最も腹を立てたのは姉の夏樹であった。
「ホントにどうして誰も気付かなかったの。もっと早くに知れていたら私が兄弟二人とも半殺しにしてやってたのに。」
「夏樹の場合は"半”じゃ済まないでしょう。」
私も母に同感である。
「乙女の体に二度も傷をつけるだなんて大罪よ、大罪!」
「はいはいわかったから。そういう文句も全部お父さんに報告しなさい。」
桶に水を張りながら母は姉をなだめた。
いつもなら昼間に済ませているお墓参りだが、今日は遅くなってしまい、もう日も暮れようとしていた。
供える花を選り分けながら私は母に尋ねた。
「私の名前、なんで『春乃』にしたの?冬生まれなのに。」
「『乃』って字にはね、『そして』っていう意味・ニュアンスがあるの。暖かな春からそして続く素敵な人生を送ってほしいって願いを込めて私が考えたの。ネーミングセンスはお父さんより私の方があったからね。」
「ふーん。」
花を供えて線香を立てる。
「今の話、一つ噓ついたでしょ。」
「え?」
「名前考えたのはお父さんの方なんじゃない?」
「結構流暢に騙せたと思ったんだけどな~、なんでバレちゃった?」
「ん?なんとなく。」
私は静かに笑いながら手を合わせた。
墓前に浮かぶ『乃』の文字が西日のオレンジにゆっくりと溶けていた。
(おそらく)次回、『上位互換の庭セット 3980円』