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その日のわたしは上機嫌だった。
上機嫌だったのだ。夏めいてきた晴れの日にワンピースをおろして街に出かけた。自転車がパンクしていてパンプスで三十分歩く羽目になったり、それでも待ち合わせ場所に着いたのがちょっと早すぎて一時間も待つ羽目になったりしたけれど、それでもだ。
不機嫌の理由は簡単だ。
あのストーカー男。
暇じゃないとか宣っておきながら、「たまたま通りがかったんだ」とか言いながらどこからともなく待ち合わせ場所に現れた上、わたしの顔を見るなり「待ち合わせ十一時からじゃなかったか? 浮かれてるな」なんてせせら笑う。それから十五分も戯言の相手をさせた挙句、時計を見るなりこっちの言うことも聞かずにいきなりいなくなってしまった。
それから、なぜかあいつがくれた好物のフルーツ豆乳のストローをガジガジかじりながら、わたしは三十分の間一人でヌーの群れみたいに往復する人々を眺めることになった。
事の次第はこうだ。
この間の水曜日の昼休み。生憎の曇り空でも相変わらず屋上にやってくる二人をあしらいながら、わたしは耳のついた大きなBLTサンドを口に詰め込んでいた。縁はわたしのバスケットの唐揚げを狙っていたが、しばらくしてこう聞いてきた。
「ありすちゃんて週末なにしてるの?」
「息を吸ってるわ」
彼女は目を瞬かせた。
「ごめんなさい。間違えた」
反射だった。経験的に週末の予定を聞いてくるやつにろくな奴はいない。ただ、女子のクラスメイトに聞かれたことは初めてだった。
「別に、家にいる。買い物する時は街に降りるけど」
妙にたどたどしい答えが口から出る。これじゃあ山猿だ。
そしてこういう時だけ口を出してくる男。
「友達と遊んだりしないのか」
「うっさい」
ところが「ナイス、黒部くん」と褒める縁。量の多い栗色のもみあげを引っ張っていた。上目遣いでわたしを見る。
「土曜日、行きたいところがあるんだけど、付き合ってくれん?」
そうして、わたしと縁は土曜日の十一時に駅前の時計台の前で待ち合わせた。彼女の目的地は、こじゃれたケーキ屋だった。行く前に調べたところによれば、東京で人気の店が出店ということで人気なんだそうだった。大きなショッピングビルの一角のテナントだ。外から見ると普通の店なのだけれど、店内に入ると急に緑の匂いに包まれる。森をイメージしたデザインということで天井一杯に本物の枝葉が鬱蒼と茂っていた。
丸木の机の上で、マグカップの中身をぐるぐるとかき回す。不透明な表面が波打ってゆらゆらと天井のアンティークランプを反射した。かちゃりと二又のフォークをケーキの乗った皿に置いて再び口を付けた。
「ありすちゃ、すっごい顔してる~」
わたしが顔をしかめたのを見て、向かいに座った縁がきゃっきゃっと笑った。
「ココアなんて頼むんじゃなかったわ」
「甘くておいしいのになあ~」
「甘すぎるのよ」
確かにケーキはおいしかった。わたしは期間限定のキイチゴのタルト、彼女はなんとかいう賞をもらったというチーズケーキを頼んでいた。
「ねえ、結局これは差し向かいで甘いものをつつく会なわけ?」
「うん! 私ずっとここ来たかったんよ~」
縁はニコニコ顔だった。なんの憂いもなく、ただ友達と遊びに来ただけというように。わたしも待ち合わせの二時間前くらいまではそんな気分だった。でも新しい服を着て、時計台の下に立つとずんと胸におもりが落ちた。あいつとしゃべっている間はよかったけれど、いなくなるとそれが大きくなったことに気がついた。
「なんでわたしなんか誘ったの」
誘われた時から魚の小骨が喉に刺さっているみたいにずっと気になっていて、けれど、今日ここに来るまでなんとなく聞けなかったことを、わたしは口にする。
週に二、三度昼食をともにするといっても教室でわたしと彼女が話すことは全くと言っていいほどなかった。彼女は彼女のグループにいて、誰かに見られる前に先に教室に入ってしまうのが常だ。だから彼女が学校にいる大半の時間ともにしているのは間違いなくわたしではない誰かだった。
彼女はちょっぴりばつの悪そうな顔をした。テーブルの上でもじもじと指を触れ合わせる。
「ここね、旭川の高校生ですっごい流行ってる店なの」
答えになっていなかった。
「だから?」
「でも私なかなか来れんかったからもうクラスのみんなは大体もう行っちゃってて、ありすちゃんだったら大丈夫かな~と思って」
「は? じゃあわたしは流行遅れのノロマで流行りの店なんて行ってるはずないから誘ったわけ?」
「え! もしかしてもう来たことあった!?」
「…………」
流行っていることを知りもしなかった。
わたしが言い訳を探してもごもご言い淀んでいると、彼女はその様子を見て笑った。性格が悪すぎる。
聞くべき事柄ではなかったかもしれない。なんだか楽しみにして損したような気分だった。けれどそうはっきり言われてしまうとむしろ緊張が解けたような気もした。付き合ってやっていると思えば。
もう一度、甘ったるいココアを口に運ぶ。さっきよりはマシな味がした。店内にケルトっぽい音楽が流されていることに気がつく。縁は目を伏せているようで、前髪の隙間からこちらを窺っているようにも見えた。
息を吐き、カップを置く。
「あなたみたいなのはこういう店よく来ると思ってたわ」
食い意地が張っているし。
「あー、好きなんやけど……お小遣い厳しいからなかなかケーキ食べに来たりできないんよ。だから、こっち来てからは今日が初めて」
だから誘う時に再三予算について強調していたのかとわたしは合点がいった。わたしの家はイヴがお金にルーズだからお小遣いに困ったことはなかった。冬美さんがいた頃はお小遣いの額も決まっていたのだけれど、最近は言えば出てくるので気にしたこともない。そう言うと、縁は「やっぱお屋敷暮らしは違うよね~。ところで、お母さんってどんな仕事してるの?」と訊いてきた。それはわたしにとっても十五年来の謎だ。
それから、ケーキを食べ終えたわたしたちは並ぶ客に押し流されるようにして、店から出た。用は済んだので帰ってよかったのだけれど「なにかしたいことない?」と聞かれて、せっかく駅まで来たし木材を見に行きたいといったら妙に食いつかれて、画材店を見にいった。彫刻刀で軽く模様を入れてあげると喜んでいた。反対にお菓子を作るというからお菓子用品店を見に行った。来週クッキー作ってきてあげる、と約束してくれた。街を歩いて、駅ビルの中の服屋を冷やかした。服を選ぶのは苦手だというから、似合うのを探して写真を撮った。
迷路みたいな街にわたしと縁は迷い込んだみたいに歩き回った。ビルの森を縫うように抜けて、路地裏の影と影を繋いだ。迷路で生まれたわたしはいつも目的地まで一直線に行けたから、初めての経験だった。
街中をぐるりと回ってもう一度時計台の前に戻ってくる。
夕陽が沈みかけていた。
わたしたちは自然に帰路についた。駅前広場からバスロータリーまではほんのすぐで、わたしは別れを告げる。
「じゃあ、ここだから」
そう言うと彼女が大きくうなずいた。もうバスの待合列に加わったっていいのに、わたしの足はすぐには動かなかった。言えていないことがある気がした。それがなにかはわかっている。でも、そんなことは間に合わせで誘われたわたしが言うべきことではないような気がした。
動かないわたしを前にして、彼女も踵を返しはしなかった。立ち尽くすわたしたちの横を幾人もが通り過ぎていく。わたしがこぶしを握り締めて、口を閉ざすことを決めてしまった時。
「ありすちゃん」
逆光で暗くなった縁の顔が、それでも微笑むのがわかった。
「今日はありすちゃと来れて楽しかった」
ずるい。
わたしも楽しかった、って言えればよかったのに、わたしがそういう前に彼女は去っていった。栗色の後ろ姿が雑踏に消えて行く。わたしは完全に消えてしまうまで一人でハンドバッグの底を両腕で抱きしめていた。
縁が学校に来なくなったのはその翌々日のことだった。