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わたしはこの子がきらいだ。一目見てそう思った。
話すよりも前からそう思っていて、話しかけられたときにもっと思った。わたしとは正反対な人間。ふわふわの栗毛だとか、自然に浮かぶ笑顔だとか、簡単に教室になじむところとか。きっとこういう子は誰にだって優しくて、誰にだって笑いかける。その笑顔が特別でないと知りながらも温かくて、たぶん、わたしはうらやましかったのだ。
久坂縁が教室にやってきたのは三か月と少し前、高校一年生の春だった。
わたしが通う春風台は中高一貫の私立校で基本的に同じメンバーで六年間中学高校を過ごすことになる。高校受験で入ってくる生徒もいるけれど、それも編入という扱いだ。だからきっと彼女も、あいつと同じ転校生という扱いになるのだろう。入学式も春休み中にひっそりと小講堂で行われて、在校生は出席もしないからやっていることを知らない人も多い。クラス替えでわーきゃーしている四年生の中にしれっと混ざっていて、こんな人いたっけ? となるのが恒例らしい。けれど彼女に関しては編入生であると誰が見てもすぐにわかった。
「久坂縁、いいます~。ちょっとした事情で突然の編入なんで、仲良くしてくださいな」
クラス替え直後の自己紹介。女子の制服の黒セーラーじゃない、えんじ色のブレザーを着ていたから彼女の順番が来るまで教室は戸惑いを隠せていなかった。その中で彼女はそう言って、蒲公英みたいに笑った。
どこか小動物じみている、というのがわたしの感想。たぶんこのクラスの誰よりも小柄でふわふわの髪を背中まで伸ばしていたから。新学期の最初の席は番号順だった。左から四番目の列の四番目が彼女の席で、わたしの席は五番目の列の四番目。だから前で自己紹介を終えて、わたしの左隣に座った。ぴょこぴょこ跳ねるように歩くのがよく見えた。鞄には柴犬のストラップがついていた。
始業式のホームルームが終わってクラスメイトが三々五々に教室を出る。ふと視線を感じてわたしは左を見た。彼女の黒くてまん丸い瞳と目が合った。猫が挨拶するみたいにじっと目を合わせたまま、久坂縁は話しかけてきた。
「ね、三珠さん、であってる?」
「ええ」
今日この教室で誰かとおしゃべりをするだろうなんて予想はおがくず一かけらもしていなかったから、ウシガエルみたいに低い声が出た。無愛想すぎたかと思って付け足した。
「久坂さん、でしょう」
「覚えててくれてる~。うれしいなあ」と彼女は笑った。笑うとピンク色の唇の端に八重歯が覗く。それから、無防備な笑みのまま「縁でええよ。縁で」と言った。
わたしがぶっきらぼうな返事をするより前に「久坂さん、今日これからご飯食べに行くんだけどどう?」と向こう側からクラスメイトが近づいてきた。制服を少し着崩してなんとなく華やかな雰囲気の女子だ。クラスの女子全員に声をかけているようだった。声をかけられてもかけられなくても面倒だったわたしは「それじゃあ」と言って逃げるように教室を出た。
彼女とはそれっきりだった。翌日以降にその話の続きをすることも結局なかった。わたしはサボりを繰り返していたし、彼女もこちらがクラスで腫れ物扱いなのはすぐに知ったらしく寄ってくることもなかった。大人しめの文化系グループに入って友達を作り、遠足の頃にはすっかりブレザー姿も馴染んで、愛されキャラのポジションを確立していた。一か月もすると席替えも行われて席も離れた場所になり、顔を見ることも少なくなった。始業式に話した時のことなんてすっかり忘れているだろうと思っていた。
ある日の昼休み、午前中から授業に出ていたわたしはいつも通り旧校舎の屋上へ向かった。旧校舎は相も変わらず人気がなくて、深い緑色の階段にわたしの足音だけが響いていた。
「三珠さん、こんなところに来てたんだ」
塗装の剥がれた扉に合い鍵を差し込んで、ギシギシと耳障りな音を立てながら押し開いた時、後ろから声がかけられた。振り返ると久坂縁が立っていた。
「毎日ここにいるん? ここの鍵どうしたん?」と彼女は続けた。わたしは慌てて握っていた合い鍵を隠す。縁はにこにこしながらわたしの横を通り過ぎて、「へ~屋上ってこんな風になってるんだ~」なんてのんきに屋上を見回していた。
「な、なんでここに……!」
「お弁当どこで食べようかなあと思ってたら、三珠さん出てくやんか。いる時はいつもすぐ教室からいなくなるから、どっかいいところ知ってるんかなあと思って気になって。ね、このこと先生知ってるの?」
よく見れば黄色い巾着袋を持っている。お弁当箱の入っているやつだ。それとピンクの水筒。すっかりお昼休み装備だった。
「教室で食べればいいじゃない。原島さんと深山さんといつもみたいに」
わたしがそう言うと、彼女はにやーっと笑った。教室での笑顔とは違うチェシャ猫みたいな笑いだった。まるで心底面白いものを見つけたような。そんな顔もするんだと思った。
「クラスメイトの名前、ちゃんと覚えてるんだね」
「縁だってわたしのこと覚えていたでしょう」
知らなかったけど、意外にいやみっぽい子だ。じぃっとにらみつける。豊かな前髪が揺れた。
くるりと赤いチェックのプリーツスカートがパラソルのように広がる。背を向けた彼女は上履きのつま先だけで立って錆の浮いた屋上の柵に身体を預け、空を見るふりをしていた。ゆっくり歩いて隣に立つと、伏せたまつ毛の奥からこちらを覗いている。爪先の分だけ身長差は縮まっていた。
「あの二人は吹奏楽部の昼練があるときはいないんだよ」
思えば教室で見ないこともあった気がする。わたしは大体すぐに屋上に来てしまうので毎日つぶさに観察したりはしていなかった。
「あなたも部活やればいいじゃない」
「私部活できないの。特待はそういうものなんだって」
「特待? あなたが?」
そういえば四年編入組は試験が難しいからほとんど特待生だということを聞いたことがあった。でもこんなぽやぽやしたのがわたしの何倍も勉強ができるというのが信じられなかった。対してわたしは高校に上がれたのも不思議なくらいだった。
くふふっと口を両手で塞いで含むように笑った。
「今度はなに」
「三珠さんも結構人を見た目で判断するんやね」
「……わるい」
また笑った。それから縁はセーラーの袖を引っ張って、わたしを段に座らせる。しょうがなく腰を下ろすと彼女も我が物顔で隣に座り、わたしたちは並んで弁当箱を広げた。彼女はわたしの弁当箱の中身に興味津々なようで、わたしが蓋を開けるまで決して目線を外すことはなかった。黒塗りの弁当箱の中に詰められた手羽元の煮物を見て、目を輝かせて言った。
「ね、ありすちゃん、おかず交換しよ。あ、ありすちゃんって呼んでいい?」
それから、わたしは縁と週に二、三回弁当を食べるようになった。別になにかが変わったわけじゃない。ただ一人だったところにもう一人いるようになっただけだ。わたしは極力気にしないようにしていたのだけれど。
「ありすちゃ、それ、里芋? いいな~私里芋の煮物好き」
縁はわたしの隣に座って舌足らずに話しかけてくるから、無視するってことも難しい。こういう時わたしは黙って弁当箱を差し出す。欲しいなら欲しいといえばいい。そういうところもきらいだった。
昨夜イヴが煮込んでいた芋を食べてきゃっきゃっと騒ぐ。縁もいつも手弁当を持ってきていた。小さな黄色い弁当箱にラップで包んだお結び一つと卵焼き、それからプチトマトともう一品。わたしの漆塗りの弁当の半分くらいの大きさしかなかったからもらうのも忍びなくて、おかず交換という建前は早々に崩れ去っていた。
お昼ご飯を食べ終えるとすぐにおしゃべりの時間が始まる。別にわたしはそんなことしなくてもいいのだけれど、わたしがむっつり黙っていても目が合うたびになにか話しかけてくるものだから、仕方なく付き合うしかなかった。
「私もいい加減セーラー欲しいなあ……。もう馴染んじゃった感じもするけど、集会とかだとやっぱり目立つんよね」
決まりのように方言交じりの甘ったるい声でどうでもいい話をする。わたしはうんざりしながらもできるだけそれを悟られないように答えるので精一杯だった。
「いいじゃないブレザー」
「そうかな? ありすちゃはセーラー嫌なの?」
「セーラー服ってガキっぽくない? わたしもブレザーのとこ受験していけばよかったわ」
「ありすちゃんセーラー服似合うから、全然大丈夫だよ!」
「それわたしがガキって言ってない?」
わたしは気の合わない人間としか知り合えないのか、会話の最後には大体わたしが腹を立てて終わりだった。クラスメイトの間では愛されキャラで通っているのにわたしの前では毒ばかり吐く。にこにこ笑顔だけは教室と同じだったから、天然なのかもしれないけれど。
縁はわたしのことを知りたがった。話題が尽きるとわたしのプロフィールを質問攻めが始まるので話題を考えておかなければならなかった。誕生日から始まって家族構成住所趣味好きな食べ物得意科目苦手科目果てはシャンプーの種類まで。わたしはぶっきらぼうに聞かれたことに答えるだけだったのになにが楽しいのか、昼食会が始まってから一か月の間ずっとそんな感じだった。ひとしきり答えた後にはこんな質問まで飛んできた。
「ありすちゃんって彼氏何人いるの?」
縁は屋上を囲む柵にもたせ掛けた身体をこちらに向けて尋ねた。冗談めかしていたけれど、彼氏は何人とかいるものじゃないと思う。
「いない」
「うっそだ~。加瀬くんも二組の熊野くんも告白したって噂聞いたよ~」
「誰か知らないけどたぶん振ったわ」
縁は驚きのあまり目を剥いて固まっていた。引いていたのかもしれない。わたしはちょっとだけ後ろめたくなって、言い訳するように続けた。
「正直に言えば、そういうのよくわからないの」
「ありすちゃんとあろうものが?」
「わたしを誰だと思っているのか知らないけど」
三つ子の魂百までと言うけれど、自分が山生まれの世間知らずだという自覚くらいはあった。恋愛小説だって少女漫画だって読んだことがあるけれど(イヴはなんだって読むしなんでも買ってくる)、彼女たちみたいに素敵な男の子にときめく心がわたしには欠けているんだと思う。
「男子とちゃんとしゃべったことないし、話すのって呼び出された時だけだし。それに、男の子だから特別に感じるって言うこともないでしょう」
「あーそういえば、家お母さん二人だったんだっけ……」
家族構成について聞かれた時に、イヴと冬美さんのことは話したことがあった。小学生くらいの時に変だといわれてから話すのは初めてだった。
「そう。だからお付き合いしてゆくゆくは結婚して家庭をみたいなのもよくわからない。家族ってなに? って感じ。だってなんかそういう、ふつうの家族って話にも聞いたことないもの」
すると縁は考え込むように目を閉じた。それから、いつもよりも一段低い声で話し始めた。
「私の家は今お母さん一人私一人の二人なんだ。母子家庭ってやつ」
彼女はなんだか他人事みたいにそう言った。
意外じゃなかったと言えば嘘になる。わたしは広いダイニングのテーブルに縁と母親の二人だけが座っている様子を思い浮かべた。向かい合った二人は無言で、サラダボウルがビニールクロスに真っ黒い影を作っている。その様子は彼女にはあまりに似つかわしくないように思えた。
けれどヒントはあった。キッチンに立って小さな手で握ったおにぎりを小さな弁当箱に詰める縁。わたしは彼女がぶらさげた黄色い巾着袋に目をやった。
「お母さんはケチやから、あるもので我慢しなさいっていつも言ってる。中二の時くらいまではお父さんがいたんだけど、いなくなっちゃった。離婚っていうか、蒸発かな。私の家はありすちゃんの家よりはふつうだと思うけど、よくいうふつうとはちょっと違う。でも、たぶんどこだってそうなんだと私は思ってて。本当にふつうの家族っていうのはないんじゃないかな~、とか。ううん、なんか偉そうやね、私」
彼女は照れたように笑った。わたしは首を振った。不安そうにこっちを見上げた瞳には青空が映っている。たぶん縁は正しい。頭もいい。それでも割り切れないことはある。わたしにも、彼女にも。けれどそれ以上にそれを話してくれたことは嬉しかった。
わたしはわざと明るい声を作って、昔から気になっていたことを尋ねた。
「ねえ、家にお父さんがいるってどういう感じなの?」
「生まれた時からいたからなあ。肩車してくれたり、休日に粉もの焼いてくれたり、動物園とか遊園地とかいろいろ連れまわしてくれたり、そんな感じ?」
そういえば冬美さんにも小さい頃は色々連れまわされたような覚えがあった。思えば、彼女も父親に近い役割をしようとしていたのかもしれない。勝手にいなくなってしまったところまで似せる必要はないと思うけれど。
「いいお父さんだったんだ」
「昔はね。でもなんや、本当は男の子が欲しかったとかいうてたけどな。中学入ってからは怒鳴ってる記憶しかないわ」
その時の彼女が妙にきつい方言だったことをよく覚えている。