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アラームの音で目を覚ますとまだ空は白み始めた頃だった。ベッドに入ってから三時間も経っていない。身体は油をさしていない自転車を漕ぐみたいにしか動かなかった。起き上がると吐き気がする。ぎしぎしと軋むようにベッドから降りて、服を脱いだ。家を出る支度をしながら、ついさっきまで見ていた夢を反芻する。まだあの頃から二か月と経っていないだろうに、妙に懐かしかった。
なにも食べられる気がしなかったので冷蔵庫からポカリスエットを一瓶くすねて、わたしは家を出た。イヴはまだ寝ているようだった。夜明け前に一雨降ったのか草むらの葉が濡れていた。ツンと朝の涼しさが伝わって夏服のセーラーでは少し肌寒い。自転車を走らせるとそれはなおさらだった。学校に行く気はなくとも街を出歩く時は制服を着ることにしていた。私服で出歩いていると事情を聴かれて下手すると補導されてしまうが、制服なら学校をさぼっているだけと判断されることを中学の頃から学校をサボってばかりいるわたしは知っていた。一度ならず三度くらいは補導されかけたことがあるけれど、その度に泣いたふりをすると今回だけだと目をつむってくれた。わたしが自分の容姿に感謝したのはこの時くらいだった。
山を下りるとすぐに家やアパートが立ち並ぶようになって自転車を十五分も走らせるとビルが立ち並ぶようになる。旭川という街は昔はこんなに人の多いところではなくて、普通の地方都市だったと何度も聞いたことがあった。学校の先生からでも、冬美さんからでも話す内容はこうだった。
十五年前、『接触』が起きた。日本の接触地は宗谷海峡だったから、北海道の上半分、今でいう警戒線以北に住むことが禁じられるようになった。住めと言われても困っただろうけれど。実際自主的に逃げ出した人の方が多かったらしい。伝手がある人は本州に移ったり、親戚の家を頼ったりしたそうだけれど、大方の人は一番近くて大きい旭川に雪崩れ込んだ。そして、そういう人たちは一応国の命令で避難ということになったから補助金が出て、そのお金で家を買ったり借りたりした。すると一気に土地の値段が上がって、いろんな人がビジネスチャンスをつかみに来て、一気に開発が進んで、ビルがわんさか建った、ということらしい。聞けば、わたしが生まれるより前はこの辺りは全部田んぼだったというのだから信じられない。ただ、実際小さかった頃はどこを歩いても道は広かったのに、区画整理をされる度に狭くなっていたことは覚えている。
そうして出来た、いつもなら人が多くて走れない狭い歩道も朝五時前なら自転車で通り抜けることができた。エメラルドグリーンの朝の街。目覚めようとしている街の中でわたしはこれから目を閉じようとしている場所を目指した。駅前通りの三時間百円の地下駐輪場に自転車を入れて、歩いて裏に入る。高架下に続くビルに挟まれた道。他の道と比べて特別狭いわけではないけれどどこか閉塞的で薄暗く感じる。飲み屋や風俗店みたいな大人の店ばかりが並んでいる通りだ。
わたしが目当ての店名を探して歩いていくと、ちょうど明かりを消したばかりのネオン看板がまだ店の前に出ていた。『パープル』という店名に名前通りの紫色をした看板に電源コードが巻かれている。裏口に回るとベストを着た男が黒いゴミ袋をまとめていた。わたしは声をかけた。
「そこのおじさん」
男は気怠そうに振り向く。頭はブリーチを入れた金髪で、思っていたよりも若かった。これは外れかなと思いながら、スカートのポケットに手を突っ込んだ。
「相田務って知ってるでしょう」
彼は無視して店の中に戻ろうとしたが、わたしの顔を見ると足を止めた。それからわたしの全身をなめるように見て、一度開けた扉を閉じて近づいてくる。
「君さ、その制服春高でしょ? 何年生?」
「この男、知らないのならわたしは帰るわ」
今日ばっかりは制服は失敗だったかなと思いながら、わたしは写真を取り出す。
彼と同じような服装をした男。茶髪の優男で、写真では斜を向いて煙草を吸っている。相田務は『パープル』の二番手だった。プライドが高くて扱いづらいNo.1に比べて真面目な稼ぎ頭だったけれど、もうしばらく店には出ていない。
「ツトムがどうかしたの」
「刺人鬼に刺されたって本当?」
金髪は調子が狂った振り子時計のようにわたしと写真を見比べた。この男がどこまで知っているか喋ってくれるかは賭けでしかなかった。男は懐から紙巻き煙草を取り出して、写真の男と同じように吸いだした。値踏みするような目でわたしを見つめる。
「ああ、なにそういう系? 調べてんだ」
「答えて。刺人鬼の被害者なのは本当なの?」
「そう言ってたけどね。どうなのかはわかんないよ。それよりも君、この後暇?」
わかりやすい男だった。男っていうのはどいつもこいつも同じことしか言わないから対応は単純だ。そういうことであれば、どうすればいいのかは簡単だ。
「洗いざらい教えてくれたら暇になるかもね」
にやっと長い金髪の下で笑った。わざとらしく頭を捻って思い出すようにして、べらべらとしゃべった。
「つってもそんな知らないよ。警察にも話してたけどあれから一回も店来ないし。ジッサイ女にでも刺されたんじゃないの。あいつ脇甘かったからさあ」
「変な奴との付き合いとかは?」
「あー、それなら芒さんだな。北区に出入りするようになっててさ。なにかと『芒さんに言ってやる』とか言って」
「芒? それどんなやつか聞いた?」
聞いたことがあった。この間会ったベトナム人も話していた名だ。
「店に来たから一度会ったことあるぜ。変な服着て背の高い弁護士」
「弁護士?」
「ああ、バッジ付けてたからな。間違いない。あとたぶん中国人だ。うちにも何人か中国人いるけどそういう訛りしてた」
中国人は別に珍しくもなかった。でかいビルから出てきたと思ったら中国語でしゃべってるというのをたまに見かける。でも妙に気になる名前だった。
「それだけ?」
「んー、そうだなあ、ちょっとこの後ついてきてくれるならもっと思い出すかもしれないなあ」
白々しくとぼけながら、肩を抱いてくる。ここらが限界だろう。これ以上は何も知らないに違いない。
「そう」
わたしは頭を振っていやらしい目でこちらを見る男の鼻にぶつけた。ぼきんと嫌な感触。「てめっ!」と鼻血を垂らしながら男が怒り出す。男が力任せに身体をつかもうとしてきたところで、振り上げた足で顎を蹴り抜いた。目の焦点が外れ、ふらふらとしりもちをついた男を置いてわたしは一目散に店から離れた。
聞くべきことは聞けたし、収穫はあった。今まで聞いた話を整理しながら人通りのまばらな街を走る。誰もいない通りに入って、もういいだろうと足を緩めた。
しかし、そうした途端足元がふらつき、壁に手をつく。目の前がぐるぐるした。力の入れ方がわからなくなって、おなかの奥からなにかがせりあがる。
朝飲んだポカリスエットが地面を濡らした。
起きてから気持ちの悪かった胃がもっとむかむかした。なにも食べてなくてよかった。
ふと人影が差して、わたしは顔を上げる。
「おまえ、なにやってるんだよ」
あいつだった。わたしは口を拭うが、意味がないことにすぐ気がついた。
「……見てたんなら助けなさいよ」
「助けてよかったのか?」
後ろめたそうに言った。わたしは面白くなって笑った。
「まあそんなことをしていたら今頃伸びているのはあなただっただろうけど」
あいつはまるで学校の屋上にいた時みたいに切なげな目でわたしを見つめた。夢の続きだろうと思った。ここは朝五時の路地裏で、わたしは今胃の中身を地面に撒いたところだった。
「久坂のために、そこまでやる必要があるのか?」
絞り出すようにあいつは言った。
わたしは答えなかった。
「学校、遅れるわよ」
ただ道端で出会っただけみたいにわたしは言って、返事も待たずに踵を返した。駅前に続く通りに一人で出ていく。ついてくることはなかった。夢ならちょっとくらいついてくればいいのに、とおがくず一かけら分だけ思った。
それからすこし歩いて、気がついたわたしは一人で笑った。
今日から夏休みだ。