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 特異災害研究所。自衛隊駐屯地に併設されるように作られたそこはこの国の悪魔研究の中心地であると同時に、日本で唯一契約者検査を行うことができる場所だ。契約者による治安擾乱から社会を守り、一般市民の誤認逮捕を防ぐための重要な拠点である。それは同時に、実質的に身柄を拘束し、ここに連れてこなければ検査確定ができないことを意味する。さらに、特異災害内在人法第四条二項では検査確定について強制された場合にこれを拒否できるとされている。検査確定した場合の重い規定に対して人権を守ろうとした法律家の最後の良心ではないか。――旭川新聞 平成15年6月8日 特異災害行政の光と闇


 騒音が鳴り響いていた。わたしを止めようとしたものはみんな倒れた。自衛官や、もしかしたら契約者もいたのかもしれない。でもあまり関係なかった。わたしはもうわたしのできることを把握している。わたしの見たいように世界は動く。この心臓が尽きない限り、誰がわたしの前に立ちふさがっても意味はなかった。わたしは無人となっていた事務室で探した見取り図の通り、そのドアを開けた。

 また病室のような部屋だった。広めではあったがベッドとトイレが一つの部屋にある。入院先からここではあまりに代わり映えがしない。でも個室なだけマシだろうか。格子のついた窓から外を窺うように車椅子が停まっていた。栗色の髪がその背を隠していた。

「探したわ」

 わたしが言うと縁が振り向いた。そこにいたのは縁だった。

「ありすちゃ……? どうして」

 不安げに車椅子の肘掛けを握っていた。病院服のような、薄緑色の一枚着を着ていた。彼女は自分がここに来た理由を知っているのだろうか。そういうことを説明するのだろうか。アメリアたち──警察は。

 わたしは縁のそばまで歩いた。彼女はじっとわたしを見つめていた。あの時のことをどう思っただろうか。わたしが彼女を売ったと、そう思っているだろうか。わたしが来た理由に察しがついているだろうか。わたしが来て、なにを、思っているのだろうか。

 わたしは固く握られた縁の手に、自分の手を重ねた。

「一緒に逃げよう。この検査任意だから。出ちゃえば拒否し続ければいい。そうしたら、全部──」

 芒弁護士事務所から届いた封筒には、古い新聞記事と一通の手紙が入っていた。手紙はおそらくわたしが必要とするだろうと思って、という書き出しで見透かしたようなことばかり書いてあった。腹が立つったらない。でも、おかげで光明は見えた。契約者疑いとなった人間は全員ここに連れてこられて検査確定をさせられること。契約者の人権制限は検査確定を行った場合のみ可能だということ、そして検査は任意だということ。逃げ出したら、それで全部解決するってこと。

 だから、わたしは縁の手を取った。

「──全部解決するから」

 でも、その手は振り払われる。

 ぱしんと、小気味いい音がして、わたしの手は空中を泳いでいた。

「もう、迷わせないで……!」

 一歩、二歩、彼女はタイヤを回して離れていく。距離をとりながら、彼女はわたしを睨んでいた。縁との間に溝が開いていく。でも、わたしはそれを飛び越えることができなかった。深い谷がそこに口を開けているかのように、わたしは呆然とその淵に立ち尽くすだけだった。

「ありすちゃんは強いから!」

 拒むような目だった。

 そんな強い光を彼女から向けられたのは初めてだった。

 わたしは、彼女がわたしのことをそんな目で見ることはないと、そう思っていた。 

「強くて、可愛くて、かっこよくて、お金持ちで、自分一人でなんだってできるから! そんなこと言うんだよ。……でも、無理だよ。私には。無視し続けて、逃げ続けて、普通に暮らすなんて」

 声が途切れる。わたしは自分がうつむいていたことに気がついた。彼女の顔をまともに見ていることすらできていなかった。

 ようやく顔を上げると、縁は瞳を揺らしている。

「……だって、私がしたことは、嘘でもなんでもないんだよ」

 心を絞り上げたような声。

 あの時、アメリアが言ったことを思い出す。

『ただ自分のわがままのために他人を犠牲にしただけでしょう』

 その言葉が彼女を縛って、その胸を苛んでいるのがわかった。

 それは間違ってない。正しい。それはまだ子供のわたしにだってわかる。犯罪は、その時誰かが悲しんだから、犯罪なんだ。

 でも、彼女は苦しんでいる。

 彼女の灯は今も揺れている。

 それが、わたしにはたまらなく嫌だった。

 それはきっと、彼女が燃やした家の持ち主だって、その大切な人だって同じだということも、わたしにはわかってしまう。

 わたしは、あいつを撃ってからの数日間を思い出す。

 罪は、あんなにも重く苦しいのに。

 わたしたちは、こんなにも小さくて弱いのに。

 苦しんで、もがいて、さまよい歩いても、そこに出口なんかない。

 罪しかないこの世界には、誰も罰してなんかくれない世界には、罪の終わりは来ない。

 ただ理不尽だけがあるこの世界は、また彼女を連れて行ってしまう。

 そして、わたしはまた、世界に何をすることもできやしない。


 ぼろぼろぼろと涙がこぼれた。

 逆じゃん、と思った。ここで泣くのは縁の方だろう。

 でも涙が止まることはなかった。

 やっぱりわたしにはなにもできない。なにかができると勘違いして、こんなところまできて、全部空回りだ。

 失敗を取り戻さなきゃなんて言って空回りして、縁を傷つけて、縁が言わなくてもいいことまで、言わせてしまっただけだ。

 わたしがわるい。

「やっぱりそうだよね」

 わたしがぜんぶわるい。

「ごめんね。ごめんね、縁。わたし迷惑だったよね。全部なにもやらなければよかったよね。ごめん、ごめん、さよなら」

 本当に、ごめんね。

 わたしなんていなければ──

「──違う!」

 いつの間にか、縁はすぐ近くにいた。

 溝を飛び越えたのは彼女の方だった。

 なにか必死になったみたいな顔をして、縁は、踵を返したわたしの手を掴んだ。

「それは違うの。なんて、いうか」

 急にしどろもどろになった彼女は、でもわたしの手を離そうとはしなかった。まるでさっきと逆転したように、何度も何度もつっかえながら、彼女は言葉を口にする。

「わ、私、初めて見た時からずっとありすちゃんと友達になりたかった」

「え?」

 突然なんの話を始めたのかわからなかった。

 でもこんなことを、最近同じように誰かからされた気がする。

 彼女には、今わたしがどんな風に見えているのだろうか?

「やけに美人だし、つんとしてお高く留まって、おまけに名前までかわいいし、お姫様みたいな人がいるって思ったんだ」

 それで、と彼女がわざわざ話しかけてきたことを思い出す。あれは、そんなことを考えてのことだったのか。

「たぶん合わないだろうな思ってた。きつそうだし、ああいう子は私みたいなのとは仲良くしてくれないんだろうなって。でも話しかけたら全然思ってたのと違ったんよね。いっつもなんか言いたそうにこっち見てるし、話しかけると鬱陶しそうにする割に絶対無視せんし、お弁当一緒に食べよういうとついてくるし、食べたいって言わんでもくれるし」

 それが彼女から見た、わたし。

 なんだかずいぶんとみっともないような気がした。

 彼女はもう一方の手もわたしの手を握った。右手と左手、左手と右手が重なって、わたしたちは否応なしに向き合うことになる。体温の高い彼女の手は温かかった。

「ああ、私と同じなんだって思った。教室から逃げ出して、人を見た目で判断して、しゃべったことないクラスメイトの名前も覚えてて、一回しか話してない私の言うことも律儀に守って。私のことなんて覚えてないと思ったのに。一緒にいる人に飢えてて、でも、私と違ってどうすればいいんかわからなくて、一人でいても平気なふりをして。そんな意地っ張りが気になった」

 わたしだって、忘れているんだと思っていた。

 一ヶ月前に話したことも、縁って呼んでって言ったことも。

 わからないんだ。他人がなにを考えているかなんて。でもそれは、向こうも同じなんだ。だからわたしたちは話して、尋ねて、そうしないと理解できないんだろう。

 それから縁は、悪戯っぽい笑みを浮かべて、わたしに尋ねた。

「ありすちゃ、『まーぜーて』とか言ったことあらへんのやろ?」

「な、なんでわたしがそんなこと言わなきゃならないの。別にわたしは誰かと遊びたくなんかないし」

 う、これじゃ縁の言う通りみたいだ。でも、別に遊びたくないのは本当。だってクラスメイトと話すことなんかないし、話すことないのに一緒にいても楽しくないし。

「せやったらそんな顔せえへんやろ」

 縁が手を伸ばして、わたしのほっぺたを触る。むに、と軽くつねられた。いったいどんな顔だっていうんだろう。それすらも、わたしにはわからない。

 彼女は優しく微笑んで、琥珀色の目をやわらかく細めた。

「だから、ありすちゃがそう言うてくれたことは嬉しかったよ。あの時も、今も。それだけは、勘違いせんで」

 じんわりと、心臓からなにかが流れ出しているような気がした。血管を通して、手に、足に、そして頭に、温かくてむずがゆいなにかが流れ込んで、わたしの中がいっぱいに、満たされていく。

 ずっと、わたしは、そう言われたかったのかもしれない。 

「全部全部やったことはなかったことになんかならない。嘘になったりしない。でもそれは、ありすちゃがしてくれたこともおんなじだから」

 手を伸ばして頭を撫でられた。わたしはいつの間にか、彼女の前でひざまずいていた。そっと背中をさすられる。また涙が止まらなくなって、わたしは幼子のように彼女の胸に顔を埋めていた。

 縁に抱かれて、涙を零す。そして、どうしてだろう。いつもだったら絶対に言わないだろう。だって言われたって困るだろう。なのにわたしは口にせずにはいられなかった。

「縁、わたし、どうしよう」

「なにかあったん?」

 きっともうわたしは限界だったんだ。あの封筒を開けた時から。あるいは、縁が連れて行かれた時から? あいつを撃って、あいつはいなくなって、それで、わたしは知ってしまった。わたしのことを。わたしの知らなかったわたしの秘密を。だから、いっぱいになったコップから水が溢れるように、抱えきれない言葉がわたしの口から溢れ出していた。

「わたし、悪魔なんだって。人間じゃないんだって。だからあの時生き返ったんだ。だから、わたしは刺人鬼に殺されたの」

「なに、言ってるの……?」

 泣きじゃくりながらわたしは言った。縁は戸惑っていた。当たり前かもしれない。こんなところまで来て、切羽詰まった顔で逃亡を促して、泣きながら、そんな荒唐無稽なことを言われても、そんな反応しか示せないだろう。

 わたしは涙をぬぐいながら、ポケットから巾着を取り出した。

「これ、知ってるよね」

「悪魔の、心臓……」

 縁は苦々しげに言う。彼女には嫌な思い出だけが残っているんだろう。傷を広げ、不幸を撒き散らした、その始まりの欠片。

 わたしはそのひとかけらを握りしめる。

 縁を助けられないなら、せめてこれだけでも。これだけしかもうわたしにはできない。

 呟く。

προβολή(燈火)

 視界が赤く染まる。わたしは車椅子の縁を見つめた。あの時は、想像できなかった。でも縁が立って歩いて飛び跳ねて、そうやっている姿なら簡単に思い浮かべられる。

ανάπτυξη(現像)

「あれ……」

 じわじわと血が通うように、彼女の足に力が戻ってくる。もう身体が忘れてしまったはずのやり方を思い出させてあげる。わたしはそっと縁の手を取った。そろそろと裸足を冷たい床につけて、ゆっくりと彼女の手を引くと、車椅子に座っていた彼女が立ち上がった。

「立てた……! ありすちゃん! 立てたよ!」

 輝くような笑顔で縁は嬉しそうに言った。それを見れただけここに来て良かったかもしれない。飛び跳ねようとして、けれど寝たきり状態からリハビリ前の彼女の身体は、バランスを崩してわたしの胸に飛び込んでくる。今度はわたしが縁を抱きしめて、耳元で囁いた。

「これが、わたしの力」

「力……」

 悪魔が持つ、権能。

 芒に言わせれば”王権”。

 この世の全てを形にする、神の力。

 でもそれは、わたしが──三珠ありすが、異物であるというなによりも確たる証拠だった。

「わたし、悪魔なんだって」

「うん」

「わたし、どこかから流されてきて拾われたんだって」

「うん」

「わたし、どうしたらいいのかな」

 縁はただ、静かに相槌を打つ。彼女に言ってもしょうがない。彼女にそんなことを尋ねても意味がないことはわかっていた。わたしは受け止めきれない事実を形にするために、口にしていた。

「大丈夫だよ。ありすちゃん」

 もう立つことのできる縁が、わたしの腕の中に立っていた。わたしをじっと見上げてぽつりと、まるで関係ないような、けれど本当に大切なことを尋ねた。

「ねえ、ありすちゃは、したいこととかあるん?」

 それは、わたしが彼女にしたかった問いかけ。

 未来の希望。

 将来の夢。

「わたしは──」

 その時、ばたんとドアが開いた。

 思わずそちらに目を向けて、わたしは言葉を失った。

「うそ……」

 刺人鬼。

 そこにいたのは、面をかぶり、病院服に身を包んだ、あの奇妙な通り魔だった。

 とっさに縁の盾になるように立って、男を睨みつける。でも、あの中身を知っているわたしにはそんなことする必要がないことはわかっていたはずだった。

 ただ、本当にそれは刺人鬼だったろうか。

 あのとき縁を刺し、わたしを殺したあの刺人鬼。

 氷のような狐面の魔人。

 刺人鬼は、まるでわたしに気づいて驚いたかのようにきびすを返して逃げだす。わたしは涙をぬぐって、縁の手を握った。

「縁、待ってて。戻ってくるから」

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