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玄関を開くと明かりは一つもなく、真っ暗な廊下が続いている。その日わたしが帰ってきたのは午前一時を回っていた。イヴは夕飯の片づけを済ませてしまうと読書なりゲームなりごちゃごちゃとやっているのだけれど日付を回る頃になったらベッドに入ってしまって、用事があってもなかなか応えてくれないのがいつものことだった。わたしがプールの授業を明日に控えて水着を用意していない時にはとっても困る習慣ではあるけれど、今の――もっと言うのであればここ最近のわたしにとっては都合のいいことだった。正直に言ってイヴと顔を合わせないで済んだ方が気は楽だ。こんな夜遅くまでなにをしていたのかと聞かれるのは煩わしい。
しかし、寝る前にシャワーを浴びようとわたしが脱衣所に入ってセーラー服を脱ぎ始めた途端、どこかで扉が開く音がした気がした。すぐに廊下の明かりがついて、いつもならもう眠っているはずなのにと思いながら、わたしは急いでバスルームの扉を閉めた。ちょうど鍵を閉めたところで曇りガラスに小さな影が落ちる。甲高い少女のような声が「ありす」と呼びかけた。見られなかっただろうかとわたしは意味もなく左胸の傷を抑える。もうかさぶただけが残っている傷。
ガラス戸越しにイヴが口を開くのがわかった。寝ずに待っていたのかそれとも帰宅の音で起きたのだろうか。わざわざ風呂場までやってくることもないだろうに。どちらにせよわたしがすんなりと眠れる夜はもう来ないようだった。
「ありす、こんな時間までどこにいたんだ?」
彼女の心配は当然のことだった。
けれど、わたしはただ言いたくなかった。なにについても。
「イヴには関係ないでしょう」
「学校からも連絡が来たよ。今までもサボりは多かったけど期末テストを受けないのは進級に関わるという話だった」
それで、彼女はわたしが帰ってくるまで待っていたのだろう。ルールや世間体なんかを気にする方じゃないどころか人並み以上に疎い方ではあるけれど、彼女は親としての責任を果たすことに関しては実の親と同等かそれ以上に熱心だった。わたしは別に実の親というものがどういうものかわからないけれど。
「学校に行かないのはいい。だが、ありす、君は今なにをしているんだ?」
鼻腔に血の臭いが広がった。記憶が駆け巡る。腹の底からこみあげてくるものがあって、絞り出すように言葉を吐き出す。
「冬美さんならそんなこと言わなかった」
沈黙があった。
「……ありす。一つだけ教えてくれないか。危ないことじゃないのか、それだけでも……!」
「うるさい!」
返事はなかった。わたしは黙って蛇口を捻る。シャワーヘッドから音を立ててお湯が流れ出して背中を濡らす。じんわりと血が巡っていく感覚の中で彼女が立ち去っていくのを待った。
刺人鬼は旭川でここ最近囁かれている噂の一つだった。噂だったのは一月前までで、今では街に潜む犯罪者だというべきかもしれない。やつはあらゆる場所に現れ、ある人間を狙って、ナイフを持って襲い掛かるのだという。典型的な通り魔でありながら、刺した相手が死ぬことはないことからその名がつけられた。
たくさんの人を殺した人間が殺人鬼なら、殺さずに刺すから刺人鬼。
そして狙われる人間とは、悪魔と契約した人間。
曰く、悪魔に魂を売った人間に罰を与えているとか。
曰く、人間に力を貸す悪魔が許せないから懲らしめているとか。
最初はマル特――警視庁特異犯罪対策部――が流している都市伝説かと思われてもいたが、実際の被害者が出ていることが露見していくと急激に恐怖の対象となっていった。
一番最初は六月の始め。駅前でベトナム人留学生が刺された。この時はただの通り魔事件かと思われていたが、犯人は捕まらなかった。その次は春風台の主婦。これはわたしたちの学校の近くだったから話題になった。集団下校も検討されたらしい。その後飲み屋街のホスト、宗教団体のメンバー。
わたしだって眉唾ものだと思っていた。いや、わたしにとってはもうそれが嘘だということはわかっている。わたし自身がその男に殺されたのだから。
あいつを見つけ出すまでは、わたしの夜は来ない。
わたしがバスルームから出た時にはもう屋敷の中の明かりは消えていた。月の光が窓枠に切り取られて廊下の床を照らしている。あの後イヴは一言も発さないまま部屋に帰っていった。ひどいことを言ってしまったかと自分勝手に胸が苦しくなる。冬美さんを持ち出すことはなかったかもしれないという後悔が襲ってきて、けれど吐いた言葉はなかったことにはならなかった。わたしはいつもそうだ。いつも全部終わってからくよくよするばかり。だから今度こそ、絶対に後悔はしたくない。
部屋に戻った途端鼻がツンとする。有機溶剤の臭い。わたしはまだ臭いが残っていることに顔をしかめた。朝から開けていたバルコニーにつながる大きな窓を閉じる。窓を閉じると急に部屋が静かになったように感じられた。板張りの床、机とベッド、クローゼット、姿見が置かれているだけの殺風景なわたしの部屋。
壁際に寄せられた机の前まで歩み寄る。机の上には新聞紙が敷かれて、ひと振りのナイフが横たわっている。月明かりを受ける白い刃に触れる。じんわりと温かい。それは冷たい金属ではなく、ただの木の枝。わたしが一本の枝から削り出したものだった。
塗装が渇いていることを確認した後、わたしはベッドに入った。目を閉じると今でも瞼の裏に蘇る。ほんの十日前のこと。
空港の到着口から出てきたわたしと縁。
驚く縁、胸から噴き出す血飛沫。
きらめく長刃のナイフ。
汚れた病院服。
白い狐面。
――『刺人鬼』。