16
荒い息と共に悪態を吐く。
「そのためにこんなもの持ちやがって」
あいつはわたしが握りしめていたラケットバッグを親の仇のように睨みつける。なんとなく、これのことはこいつには知られたくなかった。違法に武器を持っている自分がひどく汚く感じられた。
「あなたには──」
関係ない、とはもう言えなかった。わたしが助けを求めて、だから彼は助けてくれたのだから。
またなにか小言をくれようとして口を開いて、その直後あいつの身体が崩れ落ちる。
「どうしたの……!?」
すぐになにが起きているのかわかった。倒れたあいつが抑える脇腹から血が流れていた。厚いジャケットから滲み出るほどの量で、自然には止まらないだろう。放っておけば死んでしまうかもしれない量だった。ジャケットを脱がせて、傷を確認すると、痛々しい孔がそこには空いていた。
こんな傷ができる原因は一つしかない。
「わたしの、弾が──」
「おまえのじゃねえよ。あの男のだ」
こんな時だけぴしゃりと声を上げる。
そんなわけない。わたしが撃ったから。だから芒の権能で受け止められて、それでいまこいつに。
「ごめんなさい……」
わたしはあいつのジャケットをお腹に押し付けながら謝った。カッターシャツが赤く染まって、軍服がみるみる重くなった。
「ごめんなさい……」
全部わたしのせいだ。彼を巻き込んだのも。こんなゲームを受けたのも。なにも知らなかったのも。それなのに、こんなにしてしまった。
後悔するだけなんて、そんなのわたしが一人だったからだ。誰かを巻き込めば、それだけでは済まないこともある。こんな風に。
どうしよう。そればかりが頭を巡る。
どうしよう、死んでしまったら。焦りだけが募る。なにかしなきゃいけない気がする。そうしなきゃ取り返しがつかない気がする。けど、わたしにはなにもできなかった。また。
「こんなの大したことねえよ」
強がりに決まっていた。わたしは額を彼の胸に押しつける。もう見ていられなかった。
「ごめんなさい」
「普段からそのくらいしおらしかったらかわいいのにな」
「馬鹿なこと言ってないで──!」
わたしが怒鳴りつけようとすると、彼はふらりと立ち上がる。「だめ、そんな、立っちゃ」わたしが言っても彼は天井から溢れる光を見つめていた。
「俺は、このために生きてきたんだな」
「へ……?」
言っている意味がわからなかった。もう死んでもおかしくないのに。立ち上がることだって辛いはずなのに。どうしてか、あいつは誇らしげに笑っていた。見たこともないくらい優しくて、今までで一番満足した目で、わたしに笑いかける。
「俺はさ、自分の運命ってやつはあのくそったれ魔王城を潰すことにある。そう思って生きてきた」
魔王城。それを聞いてわたしが思い浮かべるのは、特別天気のいい日にだけ、中央電波塔からうっすらと見える山のようなシルエットだ。北の果て、宗谷岬から忽然と現れた《《悪魔の城》》。悪魔の王が住んでいると囁かれ、あるゲームにちなんで魔王城と呼ばれるそこにたどり着いた者は誰もいないということをわたしは知っていた。当然、世界中の国が総力を結して、自国の領土を占領する建物を排除しようとしているが、その努力はこの十五年間一度も実っていない。ある事故によって、その中に囚われ、なんとか生きて帰ってきた数人の生存者の証言から、辛うじてそれが『建造物』であることがわかっているだけだ。
その魔王城を潰すなんて、本当の意味で救世主になろうというのと同じこと。
それが”運命”だなんて、そんな顔で言うのか。
「だから自衛官にもなった。だから彼方委員の誘いも受けたんだ。そうするために俺は生きてきた。それ以外俺が生きる理由はなにひとつないのに、いざ考えればそんなことできるわけないと足が止まる。つべこべ言わずに進めと言っても理屈の部分が否定する」
いつになく饒舌だった。思えば初めからこいつは話が長かった。ただ、きっと自分の中にある言葉を口にすることをためらってしまうだけだ。そこに尤もな理由と抗えない高揚がなければ、自分の中身を曝け出すことでさえ遠慮してしまう性質なだけ。
「だけど、そうしなきゃ俺が生きている意味がない。何度も死のうかと考えた。罪ばかりあって、俺の居場所はどこにもない。俺の生きる意味はここにだけある。俺の死に場所はあそこに見えるって、そう思ってた」
今、そんな風にあいつが話す理由。
彼がわたしに向けて語る理由。
そんなもの一つしかない。
一つしかないのに。
「でも、違ったな」
あいつは笑った。
思えば、あんなに純粋な彼の笑みを見たのは初めてかもしれなかった。
心細い一人の夜を照らす焚き火のような、熱く、見る人の拠り所になるような笑み。
「俺は今ここで、おまえを守るために生きてきたんだ。そうだろ?」
破壊音が響き渡った。彼の背後、ひび割れた天井が孵化する卵のように穴を開ける。その破壊にも、舞い降りた妖鳥の姿にも、見覚えがあった。もうもうと灰色の塵煙が立ちこめるフロアに悪魔が降り立つ。ついさっきわたしたちを襲った悪魔は失った足と尻尾と、それ以外のいくつもの身体の欠片を取り戻そうというように、あいつを見つめた。
逃げて、どこか住処にでも帰ったのかと思っていたけれど、本当はこいつが弱るのを待っていた? それとも芒の命令を受けているのか。そのどちらなのか、どちらでもないのかすらわたしにはどうでもいい。
今のわたしにとって重要なことは、その身に深い銃創を刻まれたこの馬鹿な男が数十分前を再現するように、わたしに背を向けたことだった。
「やめて! 馬鹿! 死ぬ気なの!?」
わたしは金切り声を上げる。
「ああ。放っておいても俺は死ぬ。その命を使ってお前を守れるならそうするに決まってる」
そんな小理屈で人が死にに行くのを見殺しになんてできるわけがない。大体こいつが今死にかけていることも、戦わなければならないのも、まるっとぜんぶわたしのせいなんだから。
こいつが死ななきゃいけない理由なんて一つもない。一つ残らずわたしの瑕疵を肩代わりして、当のわたしが無傷のまま、どうして死を受け入れようとしているんだ。
わたしたちはただのクラスメイトで、二ヶ月前に偶然屋上で出会っただけの、友達ですらない。
「なんでわたしのためにそこまでするのよ……わたし、あなたに……」
なにもしてあげたことなんかなかった。してもらってばかりで、甘えてばかりだった。巻き込んで、助けてもらって、怪我させて、それなのに、わたしのために全部使うなんて。
「俺は、おまえに結構救われたんだぜ」
顔を上げた。かすれた声にはこの期に及んで恥ずかしさが滲んでいた。その向こうで怪鳥が首をもたげていた。けれどわたしには彼の横顔しか見えなかった。そびえるような悪魔を恐ろしいとも思わなかった。
立っているのがやっとのはずなのに、あいつは剣を抜いた。左脇に吊るしたホルスターから、まっすぐに白刃が煌めき、自ら輝くかのような。その横で、あいつは照れ隠しにちょっとだけ口を突き出して、続きを話した。
「俺はちょっとした因縁があって、悪魔を一匹残らずぶち殺さなきゃいけない。でも、そんなことしたって別になにも変わりやしないんだ。なにも戻ってこない、誰も帰ってきたりしない。それなのにどうせできっこない。それじゃあ俺がやっていることはなんになる? なんのために俺は死ぬ? なんのために俺は生きるんだ? 俺は俺の罪を受け入れる理由も、俺の業に殉じる覚悟も足りていなかった」
わたしは続く言葉を聞いて、息を呑む。
「でも、おまえは言っただろ。後悔するだけだって。それだけのことだって」
そんなの戯言だ。口からでまかせだ。ただ吐き捨てただけの薄っぺらな嘘みたいなものだ。だって誰よりも今のわたしが、それが間違っていたことを思い知っている。そう叫びだしてしまいたかった。でもできなかった。だって言われたわたしは、鼻の奥がツンと熱くなるほど嬉しかった。
その場しのぎでわたしが口にしただけのことに、こいつは命を懸けるっていうのか。わたしが信じてもいない言葉のために、今こうして戦いつづけることを決めたっていうのか。
「俺はもうなにもかも怖いんだ。戦うことも、人と出会うことも、生きることも、死ぬことも。悪魔も、人間も、悪魔と契約する人間も。俺が生きて誰かを傷つけることも、誰かが俺を変えてしまうことも。だから一生一人で生きるんだと思ってた」
ただ迫り来る刻限を待ち合わせるだけみたいに、隙間を埋めるだけのなんでもない雑談みたいに、あいつはしゃべった。でも、わたしたちが待つのは映画館の開場時間でも、電車の到着時刻でもなかった。
「おまえといるのは楽だった。俺は俺が怖いと思う以上に、そうしなきゃいけなかった。もう変えてしまったから、それよりもずっとおまえを守りたかった。だから、なにも考えずにいられた」
一歩一歩、あいつは歩き出した。その歩みが、硬く、苦しみに満ちていることは、ただここに突っ立っていることしかできないわたしにも見て取れる。わたしがつけた傷が彼を蝕み、わたしがついた嘘があいつを生かしている。繫ぎ止めなければ飛んで行ってしまう紙細工のように、わたしを重石に彼は地面に立っているのかもしれなかった。
水晶の奥を焼きつけるように、燃える瞳をぎゅっと眇めて、わたしを振り返る。
「もう二度とおまえを死なせたりなんかしないよ」
ほんの一歩で駆け足に切り替えた彼が悪魔の懐に飛び込む。待ち構えていた怪物は歓喜の声を上げるように、涎が垂れるほどに大きくトカゲの口を開ける。もたげた身体でちっぽけな人間を全体重で押しつぶすように、渾身を叩きつける。しかしその質量すらも、彼は軽くいなしてしまう。なにをしたのかわからない。足を失った巨体は嘘みたいに転がって、駄々をこねるように無様にもがく。ずんと小さなビルが浮き上がるように揺れた。
ワルツを踊るように悪魔の向こうへ回り込んだ彼と視線が交錯する。目と目が合って、顔と顔を合わせて、彼は他の誰でもないわたしを見つめた。
「ありす──必ずおまえを家まで送り届けるよ」
それは長い長い戦いだった。でも本当は一瞬だったのかもしれない。どちらなのかはわからない。見ていることしかできないわたしにとっては、まるで一本の映画のように、あるいは一時の午睡の夢のように、その嘘みたいな光景に目を奪われるだけの時間だったのだから。
きっと立っているのがやっとのはずなのに、あいつは剣を振った。切先が悪魔の身体を削り取るたびに、彼の身体からも赤い飛沫が舞った。
ああ、命を支払っている、と思った。
きっと、わたしのために。
彼が残された時間を捧げるたびに、悪魔の身体が小さくなっていく。次第に自分が占める容積が減っていくことをあの怪物は感じていたのだろうか。執拗に怪物は彼を攻め立てた。翼が削れ、足が減り、顎が落ちるほどに、身悶えは苛烈になるようだった。己の武器も鎧も切り離されて、それでも、だからこそ、身一つを賭して、生きることを懸けて、一体のクリーチャーはちっぽけな人間に抗った。
次第に悪魔が小さくなっていく。まるで魔法のように、あいつはたったの一度も触れられることなく、敵の部位を削り取っていく。そうして最後に残ったのは、芋虫のように凹凸をなくした悪魔の首と体だけ。残った嘴をパクパクと動かして、穴だらけの歪な胴体をうねらせて、なおも生き続ける怪物を前に、無傷の剣士は虫の息を吐いた。流れ出た赤は足を伝って、血の足跡を床に描いていた。
あいつは、最後の力を振り絞って、かの胸に刃を突き立てる。
がちんと切先が固いものに触れて、途端それはただの物体と成り果てる。端からさらさらと塵になるように、崩れていく。それなのに、後には不思議と砂粒一つすら残ってはいなかった。
このビルを、そしてこの街を破壊した悪魔の巨体が、まるで初めから何もなかったように消えていく。切り離された肉片も、撒き散らされた血液も、この部屋を満たしていた獣臭すら、なにもかもおとぎ話の嘘がばれてしまったように、霧散していく。
からりと涼しい音を立てて、最後にひとつ残ったのは赤い赤い心臓だけ。
がくん、とあいつは崩れ落ちる。心臓を抱えるように倒れこんで、わたしは駆け寄る。もう立ち上がる力も残っていないようだった。廃墟の床に血だまりが広がていく。まるでそれは今もここに煌めく赤い石から滲み出ているようだった。
魅入られたようにそれを見る。
それは悪魔の心臓。
魔魅の赤石。
心臓。
わたしはポケットの中に手を入れる。指に触れたのはハンカチの感触。取り出すと、赤い石のかけらが包まれていた。縁の引き出しの奥にあったもの。縁の罪のかけら。罪を背負うことはできないから持っていた。
芒は、縁が来たと言った。そしてこれを渡したのだろう。悪魔との契約のために。
二つの赤い石を見比べる。見比べればわかる。その二つは間違いなく同質のものだった。大きさや形は異なるものの、その弾力も、透き通る光も、特別で、二つとない。
やっぱりこれは悪魔の心臓だったと、嫌な動悸が胸を叩く。
そして、気づく。これを手にしたときに思い出したもの。もう一つ、わたしの記憶の中にある赤い石。
イヴ。
わたしの母親。
わたしはそっと、縁の部屋から持ち出してきたかけらを握った。あいつを倒して、その手をその腹に触れさせる。そこに刻まれた傷を塞いでしまうように。わたしが空けた穴の深さを覗き込むように。生温かい液体がぷくりぷくりと指を撫でた。
再び、わたしの脳裏に記憶が巡る。
冬のある日。あの場所で彼女と最後に会った日。
口ずさむように呟いた言葉。
石畳の上。人工石毛で出来た氷の結晶のようなマフラーをした彼女が、街灯の一つに手を触れて。
「──προβολή」
わたしはずっと、昔の自分がこの石に触れた時には目を閉じていて、起きたことはなにも見ていなかったのだと思っていた。頭の中を占領したわたしの知らないなにかに思わず目をつむって、もう一度開いた時にはもう終わっていたんだと、そう思っていた。
でも違った。
わたしでないわたしが過去を見る。わたしの視界がゆっくりと暗くなる。からからとハンドルの回る音がする。白熱電球を握りしめているかのように右手が熱い。バラバラになった場面がフィルムにこびり付いていた。暗くなった現実の部屋を赤い光の円が切り取って、わたしの理想を描く。あるはずのない赤い幻が現実を上書いていく。穴の空いた皮膚は滑らかに繋がる。池のように広がった血は体の中を巡る。一つ一つ、フィルムが回るように、切り取られた理想が現像されていく。
右手の熱が急激に失われて、夢が冷めるように、現実が視界を侵した。フィルムが止まり、赤い部屋はひび割れて、一斉に飛び散った。ガラスの割れるような小気味良い音が聞こえた気がして、それすらも幻だった。
わたしは手を開く。あの時見たとおりに心臓の欠片は色を失って、もう無色透明の石くれにすぎなかった。
「はっ……!」
彼が大きく息を吸っていた。まるで棺の中から目覚めたように、荒い呼吸を何度も繰り返す。額には玉のように汗が浮かんでいた。呻くみたいにして、彼は顰めた顔でわたしを見上げた。
「……なにをした……」
わたしはなにも答えなかった。答えられなかったというのが正しいかもしれない。自分でもわからなかった。ただ、できると思って、身体が勝手に動いた。まるで身体が覚えているというように。
わたしは一体なにものなのか。どこから来た誰なのか。
それは奇しくもあの男と同じ疑問。
彼はもう死んでいてもおかしくなかった。わたしのせいで負った傷で、わたしのために命を使って、今あいつは死にかけていた。わたしのわがままに巻き込んで、自分勝手に頼って、わたしはまた間に合わなくなるところだった。
わたしはなにをするべきなのか。どうすればわたしはわたしなのか。
拳ほどの大きさの赤い石。血だまりに浮かぶたった今いなくなった悪魔の心臓。
それを手にして、わたしは立ち上がる。
「待て……どこにいくつもり……」
「あなたはそこで見ていて」
起き上がろうとするあいつの額に手を当てる。熱を持った額が燃えるように熱くて、温い汗粒が手を濡らした。でも気持ち悪いとは思わなかった。
だってそれは、彼が生きているということだったから。
そっと微笑む。
「勝ってくるわ」




