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いまやイギリス人は世界中にいるのよ、それが彼女の口癖だった。世界最大の被害を出したロンドンは、数千万人単位の難民を産んだ。イングランドの中心に現れた城はバーミンガムを飲み込み、マンチェスター、そしてロンドンをも勢力下に入れた。イングランド、ウェールズは壊滅し、スコットランドが独立。皮肉にもアイルランドは悲願の統一を叶えることとなった。五千万人が一斉に逃げ出し、『接触』から逃げ出すまでのどさくさで行方不明になった人の数を数えきれない。歴史の教科書にも書いてあることだった。恐慌というのがふさわしい光景を彼女は目にしたのだろう。
アメリア・アインズ。わたしが覚えている彼女についての最初の記憶は手をつながれて家までの坂を歩いているところだった。たぶん、イヴも冬美さんも用事がある時にわたしの面倒を見て欲しいと頼まれたのだ。どこに連れて行かれたのかは覚えていない。小学校に上がるより前のことだったと思う。
彼女はわたしの母親二人の古い知り合いのようだった。わたしが物心ついた時には屋敷に出入りしていて、お茶を飲んだり夕食を共にしていた。イギリス人らしく座敷が苦手で、大広間でご飯を食べる時は人が揃うまで所在なさげに立っていたりしたけれど、それ以外はわりに図々しい性質で、アポなしでやってきては夕食を集っていた。特に、もらいものの食材の行き先にしていた節があり、彼女の手土産が食卓に並ぶことも多かった。
わたしは幼稚園にも行っていなかったから、小学校に上がるまで家の外の人間で会ったことがあるのはアメリアだけだった。言葉遣いとかファッションには今でも彼女の影響が強く残っている。金髪の長い髪、女神のような容姿、颯爽と歩く彼女に幼い私が憧れるのは当たり前の成り行きだったかもしれない。だから、彼女に勧められてマル特のポスターのモデルになった時は認められたようでうれしかった。なぜかイヴはいい顔をしなかったけれど、その時のカメラマンが気に入ってくれたから、わたしはそれからも何度かモデルまがいの仕事をしていた。街中で声をかけてくる男がぐっと増えることに気づいて少し前からほとんど受けていないけれど。おかげであの男には顔が知られてしまっていた。思えば、もう十年は付き合いがあるというのに彼女は少しも変わらないままだ。わたしにとってアメリアは憧れだった。
刺人鬼に刺されたわたしは、どうして自分が無事なのかということよりも先に、解決しなくてはならないことがあった。
いつの間にか経っていた三日の間に縁は病院に入院していた。死んだように眠っていた。死んでいるのとなにが違うのかはわたしにはわからなかった。
縁をこうした刺人鬼を、そしてあんな風にした人間を同じ目に合わせてやらなければならない、とわたしは思ったのだった。
あの時わたしは彼女になにもしてあげられなかった。なにかしてあげなければならないということに気づきもしなかった。あの時してあげられたのはわたしだけだったかもしれないのに。せめてその過去に報いるために、その犯人を捜さなければならなかった。
その日の待ち合わせ場所も溢れたゴミ箱が等間隔に置かれている四条通りから一本入った小さなビルの一階。店を構える喫茶店『プリムローズ』だった。
店名の書かれたガラス戸を押し開くと、カラカラとドアベルが鳴った。扉の隙間からコーヒーと煙草の混ざった匂いが顔に吹きつけられる。左手にカウンター席があり、右手に三つテーブルが並ぶだけの場末の喫茶店。明かりの少ない店内は薄暗く、客は女性一人だけだった。鮮やかな金髪にドレス。鄙びた喫茶店に場違いな彼女はここの常連らしかった。
ソファに座るアメリアはわたしが入ってきたのを見て手を上げる。
「ハイ、ありす。元気だった?」
わたしが席につくと、メニューを出してくれる。わたしから呼び出したのに、なんでも頼んでいいわよなんて言われてしまった。子供扱いされているようだったけれど、お言葉に甘えて飲み物を頼んだ。それから、挨拶もそこそこに、わたしは切り出した。
「アメリアさん。悪魔との契約はどうやって結ぶんですか?」
「ありす、私がどこで働いてるかわかってて言ってる?」
彼女は苦笑いする。わたしが彼女について知っていることはあまり多くない。その最後の一つは、彼女が特異犯罪部特異犯罪課──通称マル特の副課長だということだった。マル特は警察の治安維持組織で、主に悪魔とそれに関わる現象に関する治安の維持を担当する。実際のところ市中に悪魔が前進してくることはほとんどなく(そのために自衛隊が防衛線を敷いている)、マル特は悪魔を招き入れる人物、そして悪魔と契約を行う人物を取り締まることを職務としていた。彼らの最も特別な点は、契約者という超越者を相手にするために、警察でありながら、確保対象の殺害が認められている点だ。それ故に、悪魔に関わるということは警察から殺害される可能性を孕んでいる。恐れに満ちた視線で見られることの多い組織だ。
わたしは続けて言った。
「じゃあ、刺人鬼は?」
「どういう話?」
「刺人鬼に刺されてるのは一般人。でも被害者は全員契約者だっていう。だったら、その人たちはどこで契約をするの?」
彼女はわたしを値踏みするように目を細めた。
煙草を取り出して火をつけた。アロマみたいな不思議なにおいのする細い煙草だ。いつも吸っているからトレードマークといってもいい。 煙草吸ってる奴は残らずジャンキーだと思っているけれど、彼女が吸う姿は不思議と優雅だった。
「旭川は、クソみたいな街よ」
彼女は吐き捨てるように言った。いつもとは違う口調。歌うようでありながら何かを恨むような強い目線がわたしを見つめた。
「掃き溜めと言ってもいい。表向きは再開発された新興都市という顔をしながら、見て見ぬ振りをして甘い汁だけを吸っている。悪魔と戦う街と銘打ち、大きなクソを隠している。誰も信じていない蜃気楼の夢の城。大体、こんな北の果てに悪魔以外を目当てに人が集まるわけがないのよ。こんなに街が広がったのはあの線の向こう側には悪魔がいるから。向こうに行けば悪魔が獲れるから。ここに来れば悪魔と契約できるから。ここは悪魔の漁場で、悪魔の市場。けれどそれは許されない。一人残らず嘘をつき、嘘を隠す。虚飾の塔に住む嘘つきの群れ。だから、私の仕事がある」
その時初めて、わたしは母親の友人ではなく、特異犯罪課副課長のアメリア・アインズと知り合ったのだと思う。きっとそれが彼女にとっての不器用な自己紹介で、わたしに対する精一杯の誠実な説明だったのだろう。
「結論から言えば、契約するのは難しいことじゃない。ただそういう伝手を持った人間に出会えさえすれば。この街に集まっているのは、それを売る人間、買う人間、そして仲介して日本中に広げる人間。あいつらは金さえ貰えれば誰にだって売るわ」
わたしは「わたしみたいな高校生にも?」と小さく呟いた。
彼女は「ええ、もちろん」と答えた。
「刺人鬼を連れてきたのは彼らよ。刺人鬼は嘘つきを狩る。旭川の街だけじゃなく内地に悪魔を売る人間はいる。東京にいた被害者はその結果。そんなおこぼれじゃあ満足できなくなったのか、彼は──刺人鬼は本場である旭川にやってきた。ありがたいことに私たちと同じ嘘つき狩りの仕事にね」
「じゃあ、アメリアは刺人鬼の味方なの?」
「そんなわけないでしょう。刺人鬼の加害対象が契約者に留まるなんて保証はどこにもないわ。それどころか現状ですら、その保証はないのよ」
わたしはほっとする。もしアメリアが刺人鬼は市民の味方よなんて言いだしたらどうしようかと思った。ネットではマル特と同じだとか、身を挺して契約者と戦う義賊だとか正義の味方みたいな扱いをする人も多くいた。
「でも今のところ捜査は難航してる。どこの誰かも、全く見当がついていない。契約者なのは間違いないんでしょうけれど、よほど強力なのか、追える証拠が何も残っていないの。今は被害者の線から地道に追っているのだけど、それが同一犯の──刺人鬼による被害者だということすら不確かな推測にすぎない。なにか確かな共通点が見つかれば、違うのでしょうけれどね」
わたしは期待に声が弾むのをこらえなければならなかった。できるだけいつも通りに見えるように。なんてことない風に装ってわたしは言った。
「わたしもそれ、手伝うって言ったら?」
この街で縁を契約させた人間を見つけるなんて土台無茶だった。それでもせめて、どの方角を向けばいいかくらいが聞けるかもしれないとアメリアに声をかけた。でも、彼女たちの仕事を手伝えるなら、必要なことが聞けるかもしれない。被害者たちを追って、縁についてもわかるかもしれない。さらに、刺人鬼にたどり着くことすらできるかもしれない。予期せぬ道は開けた。
「なにがあったの?」
「それは……言えない」
言えば、縁のことを話すことになる。そうすれば彼女も捕まってしまうかもしれない。
わたしのなにかが伝わったのか、彼女は真剣な顔で言った。
「危ない目にあう可能性もある。望んだものが得られない可能性もある。それでも、やるというの?」
「やるわ」
その先にここに無いなにかがあるというのなら。
彼女は頷いた。
「なにがあったかは聞かない。ありすももう十六歳だものね。その代わり約束して。危ないことがあったら、なにがあったとしても全部私に報告して。私にできることは何でもするわ」
「わかった」
わたしが頷くと、アメリアは長手袋をつけた細い手をカフェテーブルの上に差し出す。わたしたちの協力関係の証。きっとこの決断が結果を結びますように。わたしはそう願うように、その手を握った。
「成立ね」
まるで人ではないなにかのように、彼女は美しく微笑んだ。
そうしてわたしはアメリアとともに、刺人鬼──そして縁を契約させた人物を追うことになった。
マル特の手伝いをするという形でわたしは情報と少しの日当を受け取った。わたしの目的が刺人鬼とその被害者を契約させた人物であるということは話していた。それでも彼女は何があったかは聞かなかった。
相田務。水野小夜子。他の刺人鬼の被害者。ただの高校生である私には、彼らの名前、写真、情報を手にいれることなんてできるわけがない。アメリアがわたしを助けてくれたから、わたしは前に進むことができた。だから、わたしはここまで来れた。
『オメガ』の鏑木から話を聞いたわたしは、数日後同じようにプリムローズを訪れた。
「ありがとう。アメリアさんがああ言ってくれなければ、わたしどうしていいかもわからなかった。でも」
わたしは今日までにあったいろいろを思い出す。先月から今まで、濃密なようでいてあっという間だった。縁、あいつ、失踪、発見、刺人鬼、その被害者たち。たった一月で信じられないことばかりが起きて、走り回る羽目になり、この街の闇に触れた。その終着点。その一つ。
「ようやく尻尾を掴んだ」
『心臓のない男』──芒。縁をあそこに追い込んだ男。刺人鬼につながる糸。
アメリアは芒を知っていた。警察の中では有名な人物で、彼女自身も出会ったことがあるという。犯罪者であるとするならば、遠慮はいらなかった。
「わたしは芒をぶちのめすわ」
縁の責任を負わせる。それから、次の被害者を聞き出す。芒が契約させた者ばかり刺されているとすれば、奴が売ったやつを知ることができれば次の被害者がわかる。そうすれば刺人鬼にもたどり着く。
彼女は大きく煙を吐いた。
「あいつは、危険な男よ」
彼女が時折見せる癖を見せる。詩を口にするように話した。
「ただ生きているということ自体が私たち秩序の敗北を意味する。社会システムが、治安維持装置が機能しなかったことの証左。世界秩序の疵」
大げさな話だと思った。けれどアメリアは神妙な顔で言った。
「あいつは──芒は、契約者よ。非認定契約者で指名手配犯。当然うちとしても挙げようとしたわ。物証も現行犯も取れた。逮捕状も出た。でもね、できなかった」
「できなかった?」
「何度もやりあったけど、芒を拘束することができなかったの。日本中の警察、自衛隊にも協力を仰いで、それでもあいつを捕まえることはできなかった。それが結果」
ただ、できなかった。それを理解するのは難しい。警察が捕まえようとして捕まえられないということがどういうことなのか、想像できない。たくさん人がいても意味がないってことだろうか? それとも手錠の意味が無いとか? 漫画の世界の話だ。
「でも、わたしはやるわ。やめるわけにはいかないの」
復讐なんてものじゃない。わたしはその男となんの関わりもない。でももし、わたしが縁に報いることができるとしたらこれだけだって思う。わたしは縁のことをなにも知らなかった。縁を見つけらなかった。それなのにわたしは縁を見つけて連れてきて、それで、彼女は今ああなっている。
縁を助けられたかもしれないのは、わたし。
縁を見つけてしまったのは、わたし。
縁を連れてきたのは、わたし。
だから、わたしは、芒をぶちのめす。
わたしはわたしの責任をそいつに負わせなきゃいけない。
そうしなきゃ、そうできるって信じていられなければ、立っていることさえできやしない。
「わかってるわ。あなたは頑張っていた。だから、ようやくこれを使う時が来た」
といってテニスのラケットバッグを渡す。
「これって……」
「訓練はしたでしょう? だから大丈夫」
わたしはラケットバッグを受け取った。樹脂素材ではありえない重み。わたしはその重さをしっかりと身体で受け止めた。
「アメリアさん。どうしてそこまでしてくれるの?」
きっと危ない橋だってわたっているはずだった。こんなもの普通の手段で手にいれることなんかできるはずがない。一体どんな方法を使ったのかはいくら聞いても教えてくれなかった。
「刺人鬼や芒は私たちの敵でもある。本当は私たちの責任。でもそれができなかったのだから、あなたが見つけたいというのならその手伝いはいくらでもするわ」
あまり信用できなかった。お手本のような言葉。
表情をうかがう。笑っているといえば笑っている。感情のわからない仮面のような笑み。わたしに気づいて、困ったように笑みを消した。それからわたしの目をまっすぐに見る。
「昔から聡い子ね」
彼女は微笑んだ。
「正直に言えば、私はありすがこんな簡単にここまで辿りつくとは思っていなかった。あなたみたいな子は、探すと言ったって、うまくいかなくてすぐに諦めてしまうんだろうと思ってたわ。それで気晴らしにでもなれば、なにかしたという満足が得られるならそれでいいと思ってた」
やっぱり子供扱いだ。道理で最初の物分りがよすぎると思っていた。もしかしたらこれも初めから用意されていた結論だったのかもしれない。それでもわたしがこうして行動しなければ結局この結果は得られなかっただろう。
「あなたはたどり着いた。私の中に今期待がある。ありすにはなにか他の人とは違うものがあって、何か起きるんじゃないかって。その結果、今の私たちの状況を変えてくれるんじゃないかって勝手に思っているの」
「わたしに?」
なにを期待するっていうんだろう。確かに自分の能力が低いとは思わないけれど、それでも大人が精一杯やったことを変えられるとは到底思えなかった。それとも、なにかがあるのだろうか、わたしに。
アメリアの表情を見れば、彼女は困った風に微笑んだ。
「ごめんなさいね。本当は私たち大人が解決しなければならない問題なのに。でもそんな期待に頼らなければならないほど、私たちは手詰まりなの」
きっとそれが本心だと思った。
それに、アメリアに期待していると言われれば、悪い気はしない。
「あなたならできるわ」
話が済むと彼女は席を立った。ちょうど仕事が詰まっているという。わたしは頼まれていたものを鞄から取り出して渡した。刺人鬼と出会った後、その記憶を辿るために作った凶器の彫刻。わたしの心臓を刺した刃の模造だ。頭にこびりついていたそれを忘れるためには吐き出してしまわないといけなかった。それが本当に記憶通りかはわからなかったが、調べてみたいというので持ってきていた。
優雅に「バイ」と手を振る。
コーヒーカップにはまだコーヒーが湯気を立てていた。




