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 わたしが羽田空港に着いたのは昼を過ぎた頃のことだった。それからわたしはひとり経路アプリとにらめっこしながら何本も電車を乗り換えて西へと向かった。東京の空港の広さよりも電車の路線図の複雑さの方が驚いたくらいだ。そういえば、あの男は旭川にいなくてはならない理由があるといってついてきてはくれなかった。薄情な男だと思うけれど、ここまで付き合ってくれただけでも感謝するべきなんだろう。だってきっとわたし一人では、縁の足跡のたった一つに触れることすらできなかったから。わたしができたのはあの男を引っ張りだすことだけで、それからは全部あいつがやったようなものだ。彼女を見つけたかったのはわたしの願いに他ならないというのに。それが少しだけ悔しかった。

 一時間ほど電車とバスに乗り継いでわたしは目的地にたどり着いた。東京というからもっとごみごみしたところを想像していたのだけれど(実際途中の電車の車窓から見た光景は想像通りのものだった)、そこは旭川よりもずっと緑の多いところだった。閑静という言葉が似合う住宅街の中を歩いて行くと、家々が並ぶ中で一つ、焼け落ちた家があった。

 わたしは住所を確認する。そこに間違いなかった。ブロック塀は煤をかぶったくらいで丸々残っていて、そこにはこの家に住んでいた家族の表札がかかっている。そこには「久坂・遠藤」とあった。周囲を見回して、周りに人目がないことを確認してから足を踏み入れる。塀の内側は無残なものだった。赤赤と燃えた炎の残り香が感じる。炎が舐め上げた後、わずかに形を残す黒く焦げた骨組みが家だったことを思い出させるだけで、最後の光すら消火剤で消し去られた残骸が積み上がるばかりだった。踏み出した足がポンとなにかを蹴り飛ばす。黒くなってわかりにくかったが、それは野球ボールのようだった。この家に住んでいた子供のものだろう。コロコロと転がって残骸の山を乗り越えたボールは敷地の隅に蹲る塊にぶつかった。それがわたしの目的地──縁だった。

 ブロック塀にもたれかかり、膝を抱えるようにして座る縁の汚れたスニーカーにボールがぶつかる。彼女は垢と煤にまみれて、一目にはわからなかった。身動ぎをするまで残骸の一部だとばかり思っていた。わたしがそばに立つと、彼女は緩慢に視線を上げて、すぐに眠るように目を閉じた。わたしは黙ってそこに立っていた。なんて言って声をかけていいかはわからなかった。


 あいつは、行き先が父親の元である可能性は高いがそれだけでは不十分だと言った。縁が言っていた通り、彼女の母親も父親の行き先は知らないそうだった。誰もその行き先を知らない場所には、わたしたちが行けないのはもちろん縁だって行けるはずがなかったからだ。本当に父親の元へ行ったのか、そうだとするならそれはどうすればわかるのかを知る必要があった。

 縁の家に行った次の日、わたしたちは朝から母親が見かけたというあたりの人間に聞き込みをした。縁の写真を見せてこんな子を最近見かけなかったかと尋ねた。しらみつぶしに見かけた人全員に聞いたところ、何人か見かけたと答えた人がいた。どうも彼女は月曜火曜とずいぶん長い間この辺りをぐるぐると回っていたようだった。ふらふらしていた上に一人で大声で喋っていたから大丈夫かと警察に通報した人もいたらしい。

 聞き込みを終えて、わたしたちは二人でファミレスのテーブルで向かい合った。相変わらず縁からの連絡はなく、先生の間では捜索願を出そうかという話も持ち上がってるようだった。それまでに見つけなければならないような気がしていた。

 今週頭から旭川では未遂も含めて放火事件が何件か発生していた。稚拙な手口にも関わらず犯人につながる証拠は見つからず、捜査は難航していた。マル特の知り合いに聞いた話によれば悪魔の契約者は権能を得る代償を支払うためにしばしば犯罪を引き起こすのだという。

「ありす、わかるかしら? 悪魔の与える権能はそれほどに魅力的であるとともに、悪魔が要求する代償が犯罪そのものであることもあるの。あいつらは、わたしたちを苦しめるために代償を課すのよ」

 彼女は慣れた様子で歌うように話した。何度も説明した事柄だったのだろう。さらに彼女は続けた。犯罪について語っているにも関わらず彼女は妖精のように美しかった。

「悪魔は契約によってわたしたちを苦しめる。そのためにわたしたちが罪を償ってしまうことすら許さない。代償のための犯罪の証拠は悪魔によって超常的に隠滅されてしまう。だからわたしたち特異犯罪対策課が要るのよ」

 あいつは昨日全国の放火事件のニュースに目を通したと言った。その結果こんなものが出てきたと、テーブル越しのわたしにブラウザの開かれたスマートフォンを寄越した。そこにはこんなことが書かれていた。六月二十九日水曜日二十時頃に東京都武蔵野市の住宅街で火災が発生したこと。一軒の住宅が全焼したこと。警察は放火の疑いで捜査を進めていること。そして、そこに住んでいた久坂明久さん、遠藤明美さん、遠藤博人くんの三人が重軽傷を負い、病院に搬送されたこと。

 わたしたちはそれによって知ることができた。彼女の居場所。彼女の目的地。彼女の父親はここでまた別の誰かの父親となっていたこと。そして、もうすべてが遅すぎたこと。


 ふと縁が口を開いた。思わず聞き逃してしまいそうな小さな声だった。

「キャッチボール」

 ひとり言のようにも思えて、けれどきっとわたしに向けた言葉だった。わたしがそこにいるから発せられた言葉だ。なにか内側から溢れたものを口にせずはいられない。そんな風に彼女はぽつりと呟く。その声は蚊の鳴くようであったけれど、静謐な湖に落ちる水滴のように確かなさざ波がわたしの胸中に立つ。

「キャッチボールをしたかったんだって」

 彼女はいつの間にか、わたしが蹴飛ばした真っ黒なボールを手のひらの下で転がしていた。振り返ると、それがあった場所には辛うじてグローブと思えなくもない黒い塊が転がっている。この家に住んでいた子供は男の子だということをわたしは知っていた。わたしはなにも言えなかった。

 再び黙ってしまった彼女に言うべき言葉をめいっぱい探したのに、わたしの胸の中から出てくるのはこんなものだけだった。

「帰ろう」

 彼女はすぐに答えた。

「帰れない」

「どうして?」

 彼女は声を低める。言葉にするのも恐ろしいというように。

「――しちゃったから」

「え?」

 聞き取れなかったわたしは間抜けに聞き返す。

「したの。悪魔との──契約を交わしたの。知らない人の家に放火するのが代償。それで、ここを見つけた」

 ずきりと頭が痛んだ。外れていればいいと思う予想ほど当たってしまうものなのだろうか。まるっきりわたしたちの予想通りの言葉を彼女は口にした。それは彼女に取っても現実でなければいいと思うものだっただろう。まるでカーテンを閉め切った部屋で手首を切るみたいに、彼女はわたしに向けて赤裸々に経緯を語った。

「放火して、逃げるみたいに来て、覗き見て。ありすちゃ、わかる? 気持ちが。三回やった。一回目誰もいないゴミ捨て場燃やしたらダメだって言われた。二回目、誰かの家の納屋燃やしたらダメって。それで、街中歩き回って、燃やしてもよさそうな家を探して、それで」

 燃やした。

 突然辛い気持ちを思い出したように、彼女は話すのをやめた。ぎょろぎょろと大きな目が空を何度も行ったり来たりする。ようやく焦点があった瞳でわたしを見た。映画で見たドラッグのジャンキーのようだった。でも彼女が苦しんでいるのは薬の禁断症状なんかじゃない、罪悪の自家中毒だ。

「……私は……もう犯罪者なの。契約者ってばれたらマル特に捕まって研究所に送られて人体実験されて、それで。だから……放っておいて」

「でもそれは悪魔にやらされて――」

「──違うよ。わかるでしょ? ここ」

 焼け跡を我が子のように小さな手が撫ぜた。ぞくりと背筋に寒気が差す。また彼女の目がぼんやりととろけて、うわごとのようにつぶやく。

「そんなつもりじゃなかった。飛行機乗るまで怖くって、ふらふらで東京まで来て、ここに来た。表札に久坂って書いてあってドキドキして、窓から覗いたの。そうしたら、お父さんがいた。知らない女の人と、私より小さい男の子。もう、私のお父さんじゃなかった。他の人のお父さんで、それでもうあきらめようって思ったのに、玄関まで来たら、あった。ボールとグローブが。そんなもの見たくなかった。思い出したくもなかった。わたしが男の子だったらって。でも、そうしたら、捨ててきたのに、ライター、あと、灯油が――」

 自分の記憶に耐えられなくなった彼女は声にならない叫びを上げた。目も、口も、耳も塞いで、なにも入ってこないでと彼女の縮こまった身体が言う。これが、悪魔の契約者なのか。これが悪魔の望んだことなのか。見ていられなかった。目に見えない傷が彼女を塗りつぶしているように見えた。いったいなんで彼女はこうなった。いったいだれが彼女をこんなにまでした。いったいどうして誰もこうなる前に助けてあげなかった。

 それができたのは誰だ。

 わたし──か。

「じゃあ――一緒に逃げよう」

 誰の目にも明らかなように──けれど誰の目にもわからないように──彼女は放火という罪を犯した。その結果怪我人も出た。もしかしたら何軒も延焼してたくさんの人が死んだかもしれない。その罪の重さをわたしに量ることはできない。彼女が悪いことも、それを見逃しても誰も救われないこともわかっているけれど、でも。

 元の場所に帰れなくたっていいから。わたしと。

 口にしてから、怖くなった。そんなことを言ったのは初めてだった。誰かに、一緒にしようなんて。誘いを断られるのがこんなに怖いことだなんて今まで知りもしなかった。

 自分が怖がっていることに気づいて、震えている手を握りしめる。それから、ようやく自分の目が泳いでいることを意識する。

 縁の顔を見る。目があって、彼女は口を開いた。

「なんでそこまで言うの? ありすちゃんとうち、そんなに仲良かった?」

 彼女は胡乱な目でわたしを睨みつける。剣呑な声。

 逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。反射的に踵を返そうとしたのをなんとか堪える。ここでわたしが逃げてどうする。

 助けられもしなかったのに、今前に進まなかったらどうするんだとわたしが言う。

 それに、言われればそのとおりなんだ。わたしだって縁を友達だとは言えなかった。ただ時々同じ場所で昼食を食べて、あの日一緒にお茶をして、それで、約束をした。

「わたし、初めて会った時からあなたのことが嫌いだった」

 たった三ヶ月前のこと。教室にやってきた縁。話しかけられて、笑いかけられて、それで、わたしは彼女を嫌いになった。

 それから一ヶ月経ってわたしの秘密基地にずかずか踏み込んできて、もっと嫌いになった。

「人懐っこいところとか馴れ馴れしいところとか、人の距離考えないところとか」

 たかが週に二、三日。たかが一日に四十五分。それくらいなら我慢できると思った。それがこんなにも大きなことだなんて想像もできなかった。

 縁はただそこにいて、わたしはいつの間にかそれを許していた。

「わたし、一緒にいて嫌じゃなかったよ」

 あの屋上で。一人でいるより二人の方がいいと思った。 

「縁がいないよりいた方がいいって、いてほしいってわたしは思うの。ただ、それだけ」

 喉がカラカラに乾いていた。正直、今はわたしのことを好きだと言ってきた男の子たちを尊敬する気持ちでいっぱいだった。自分の気持ちを直接その人に伝えることがこんなに難しいだなんて知らなかった。直接ぶつけた言葉を拒絶されることがこんなに怖いだなんて知らなかった。自分が口にした言葉の返事を聞きたくないなんて思うことがあるなんて知らなかった。わたしは知らないことばかりだった。

 伏せていた目を上げる。精一杯の力で彼女の顔を見た。

 縁は、目を丸くしていた。

「……それだけで、こんなところまで来たん?」

 うなずく。

「ここまで来て、本当にそれだけなん?」

 わたしはまたうなずく。

 彼女はぽかんと口を開けて、ただ「呆れた」とだけ言った。

 現実に戻ってきたように、彼女の顔に表情が戻っていた。わたしの知っている縁がそこにいた。

 わたしは、彼女の手を取った。握った。煤と泥と汗と脂でどろどろだったけれど、もみじみたいに小さな手は確かに彼女の手だった。

「これでわたしも同罪だから」

 握った手で彼女を引っ張り上げる。よろよろと立ち上がる縁はまるで死人のようだったけれど、それでも彼女はわたしに従って立ち上がってくれた。引っ張り上げる手を拒まれなかったことに胸の奥がじんわりと暖かくなる。

 覚束ない足で歩き出そうとして縁がよろける。わたしはそれを抱きとめた。なはは、と胸の中で彼女が照れ笑いをした。彼女の笑い声は少し鼻声で、顔をわたしの胸に押し付けた彼女はきっともう動けるのに、そのまま顔を上げなかった。鼻を啜りあげる音がしても、聞こえないふりをする。くっついた彼女の髪からツンと鼻をつくにおいがして、まずはお風呂かなと思いながら、わたしはそっと彼女の背中を抱き寄せた。


 それから、わたしたちは二人で銭湯に行った。途中百円ショップで男物なんだか女物なんだかわからない安い下着を買った。フリーサイズのTシャツは裾が膝上まであった。広いお風呂にはわたしたちしかいなかった。石鹸をつけたタオルで縁の顔をごしごしと拭くといつも通りの縁の顔が現れてほっとした。髪を洗うとお湯が真っ黒になって二人で笑った。携帯で泊まれるネットカフェを探して狭い床に二人で眠った。

 羽田空港から旭川への飛行機のチケットを買った。思えばここに来るまでの飛行機は人生初のフライトだったのに楽しむ余裕もなかった。帰りは二人で外の景色を見た。飛行機に慣れている彼女から耳抜きを教わった。

 空港に着いて、荷物もなかったわたしたちはすぐに到着口から外に出る。ロビーは迎えの家族やツアーガイドでいっぱいになっていた。人の間を縫うように歩く。前に人が立ちふさがって、わたしたちは立ち止まった。

 そこにいたのは奇妙な男。病院でしか見ないような前合わせの簡単な服、それに最も不似合いな白い狐面をつけた男だった。肌が見えるはずの場所には包帯をぐるぐると巻いていて、髪の色以外人間らしい部位はなにひとつ見えなかった。

「ありすちゃ……」

 縁が不安そうに呟く。

 そんな目立つ人間が目の前に立っているのに周囲は誰もその男に注意を払っていなかった。奇妙に思って身構える。注視しているところを後ろから、どんと押された。よろけて、たたらを踏む。縁がわたしを押しのけていた。男と自分の間にいたわたしを。

 振り返った時にはもう、彼女のお腹には異物が突き立っていた。しっかりと作られた木製の刃物の柄が縁のTシャツから垂直に生えていた。じんわりと染みが広がっていくのがスローモーションのように見えた。きっと縁はわたしに逃げろと言いたかったのだ。でもわたしは、そんなことできなかった。

 一歩踏み込んで、その男を蹴りつける。こめかみにつま先が当たったという確かな感触があったのに、一瞬ぐらりと揺れるだけで男は平然と立っていた。

 気づけば男の手には再び得物が握られていて、縁は血だまりの中で眠っていた。わたしたちの横を何人もの人が通り過ぎていく。異常な光景だった。刃物を持った奇妙な男がいて、男に刺された女子高生が倒れていて、広がっていく血だまりを踏んだサラリーマンが平然と携帯電話に話しかけながら去っていく。

 狐面の奥からくぐもった声が漏れた。

「おまえ、悪魔だろう」

 その声はどこかで聞き覚えがあった。それがどこだったか思い出すことはできなかった。思い出すよりも前に、わたしの胸に刃が差し込まれる。

 一瞬のことだった。

 わたしの胸に穴が開き、目の前は真っ赤に染まる。溶けるように、暗闇が視界に満ちていく中で、わたしは羽音を聞いた。


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