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〝人は甘いぶどうを育てるために冷たい風へ晒す。しかし、その時にぶどうがどう感じるか考える者はいない〟――Eve
母親の寝室には一つだけ鍵のかかる引き出しがある。ぴかぴかの三面鏡のついた真っ白な化粧台の一番上。そこにはわたしが十歳になるまで鍵はかかっていなかった。
イヴはわたしの母親で、いつもフランス人形みたいな恰好をした本当にお人形みたいな人だった。それが普通の母親の姿ではないと知ったのは小学校も終わりに差し掛かったころだった。だいたいはフリルのたくさんついたドレス、外に出る時は決まってくるみ帽子をかぶる。身長は小学三年生の時のわたしと同じくらい。その姿は少女のようにしか見えなくて、街を歩いているとわたしの妹に見られることもしばしばだった。宝石のような青い目と透き通るようなプラチナブロンドはおとぎ話に出てくるお姫様のようで、小さなころからずっとうらやましく思っていた。週に一回金曜日の朝にはトロトロのオムレツを焼いてくれて、それがわたしの一番の好物だった。化粧台とたくさんの衣装箪笥、小さなテレビ、それとソファが一つだけある屋敷で一番小さな部屋。彼女はソファのクッションを小さな頭に敷いて、たくさんのフリルと長い髪に埋もれるように小さな体を折りたたんで毎晩眠っていた。
十歳になった頃、わたしはその引き出しを開いた。
鍵がかかっていないことは知っていた。けれどそこになにが入っているか聞いても彼女はいつも教えてくれなかったし、もう一人の母親の冬美さんですら知らなかったから、覗いてやろうと思ったのだ。
引き出しに入っていたのは革の巾着袋だった。厚手の革に麻ひもが通されて堅く結ばれている。結び目をほどいて口を開いた袋には真っ赤に輝く石が詰まっていた。ほとんど球に近いものから角ばっているものまで、二つや三つ、じゃなくてたくさん。数えきれないほどというほどに多くはないけれど、十歳の両手にはあふれてしまうくらい。小窓から入ってきた陽が赤を光かせて、わたしには宝物みたいに見えた。たくさんあるから大丈夫だろう、そう思ったわたしは一つくすねてポケットに入れた。袋はしっかり閉じて引き出しも元に戻して、そうしたら絶対にばれない。小さなわたしは宝物をポケットの中に握りしめて、家を出た。
山の上の屋敷で育ったわたしの遊び場は決まって林の中だった。表の道を脇に入ったところに薮の隙間があって、その奥の倒木の上で枝を削るのが十歳のころのわたしのお気に入りだった。裏庭の奥にもいくらでも森があったのだけれど、悪魔が出るから屋敷より奥に行ってはいけないと物心ついた時から聞かされていた。けれどこの屋敷が旭川の北に敷かれた警戒線より向こう側にあっても悪魔なんて間近で見たことはなかった(展望台からは何度もある。でもそれはただの旭川名物だ)。
良く晴れた日だった。わたしは空に石をかざす。見れば見るほどきれいで、胸の奥が熱くなるようだった。こんなものをたくさん持っているイヴはずるい。
これはいったいなんだろう。ガラス? 宝石? ずっと握っていたから気がついたけれど、宝石というには表面にかすかな弾力があった。内側にはなにかが揺らめいているように見えていた。
キラキラと輝く石が太陽を透かしてわたしの額に赤い影を作る。ぼうっと緋色に輪郭が浮かび上がった。
そこでわたしは気がついた。
わたしはこれをどこかで見た覚えがある。
たしかそう、とても暑い夏の日。周期の狂った蝉がうるさく鳴いていた。
空調の効いたエメラルドグリーンの部屋。
ガラスタイルの床。小さな手のひら。
赤。
触れると、まるでそれが心臓であるかのように血管が脈動した。
イヴが言う。
『――だ』
わたしは、なぞるようにつぶやいた。
閃光。
轟音。
また、閃光。
はっと我に返る。一瞬自分がどこにいるのかを見失った。わたしは家の横の林の中にいるはずだった。それなのにわたしの視界は赤く染まっていて、空が広く見えた。炎の向こうにはわたしの家が覗いていた。
木々が倒れ、燃えていた。きっと雷が落ちたんだろう。空には雲一つなかった。わたしの手にあったものは、無色透明のガラス玉へと変わっていた。
「――――」
同じ声が耳に届いた。呆然としていたわたしが振り返ると、イヴが駆け寄ってきて急いでわたしを家に入れた。すぐに消防車が何台もやってきた。彼女は初め戸惑っていたがわたしの手にあったガラス玉を見ると血相を変えてこう言った。
「ありす、あの引き出しを開けたのかい?」
わたしはうなずくしかなかった。
彼女はそっと手の中から石を取り上げると、わたしを抱きしめた。
「ばかなことを」
それからは、もうこのことは忘れるように、と何度も繰り返すだけでなにを聞いても答えてくれなかった。 そして、次にわたしがイヴの部屋に入った時には、もうその引き出しには鍵がかかっていた。わたしももうあんなものに触れるのはこりごりだったけれど。
けれど不思議だったのは、冬美さんにも黙っているようにと言われたことだった。今までわたしがいくら冬美さんには黙っていてといっても、彼女は「私も怒られるから」といって教えてしまうのが常だったからだ。
冬美さんは、わたしのもう一人の母親だった。もうすっかり成長の止まったわたしよりもずっと背が高くて、毎朝わたしが目を覚ます頃にはもうスーツを着ていた。でも休みの日は誰よりも遅くまで寝ていて、お昼ごろに起きだしてぼさぼさになった頭をイヴにブラシされていた。お仕事に行く時は格好いいのにねとわたしとイヴはいつも話していた。たまに早く起きだしたかと思ったら自慢のランサー――彼女がいつもそう呼んでいた赤い車――にたたき起こしたわたしたちを詰め込んでドライブに出かけた。小学五年生に上がったくらいの頃、冬美さんは裏庭を耕して部屋一つ分くらいの小さな畑を作った。わたしはなにを植えたのか黙っているようにお願いして何ができるのか楽しみにしていたのだけれど、夏になると毎日のように草取りを手伝わされることを知ってからは余計なことをしてという気持ちでいっぱいだった。
それが、わたしの二人の母親。二人の家族。
小学六年生の春休み、つまりは中学生に上がる直前、冬美さんはわたし一人をランサーの助手席に詰め込んで車を走らせた。今思えばあれは彼女なりの挨拶だったのかもしれない。行先はいつもと違う海辺だった。
普段より時間をかけてたどり着いた場所はきれいな砂浜なのに全然人がいなかった。白い砂が広がっていた。
「ここは秘密の場所だ」冬美さんはそう言ってにっと笑った。
砂浜を二人で歩いた。靴を手に持って裸足で歩いた。足の形に痕がついて、わたしたちの後ろにずっと続いていた。水は冷たくて触れられなかったけれど、ざらざらと波が砂を擦る音が耳の奥で鳴っていた。
それから冬美さんは家を出て行った。
わたしの二人の母親は一人になった。どういった理由だったのかは知らされていない。二人の不仲だったのか。他に相手ができたのか。そもそも離婚とかそういった手続きが必要なのか、二人が恋仲だったのかも、幼い私には理解が難しかった。わたしが高校生になるまでに理解したことは、女同士の二人が結婚していることはなくて、わたしはふたりの実の娘であるはずがないということだった。わたしは寂しくて、家族みんなが揃っている世界中の人間が妬ましくて仕方なかった。ちょうど上がったばかりの中学校のクラスメイトにもその態度は伝わったのか、次第にわたしを仲間外れにするようになった。一度バケツで水をかけてきた女子たちの顎を蹴り抜いてから、わたしは学校に行くのも億劫になって、昼間から旭川の駅前を歩き回った。
ろくに学校も行っていない割に(たぶんなんらかの温情で)高等部に上げてもらって、高校生になったわたしは、もとは孤児院だったらしい大きな屋敷に、今はイヴと二人で住んでいる。