プロローグ
「お前は! こんなにお母さんを怒らせて! そんなに楽しいのか!? お母さんをいら立たせて喜んでるんだろう!? お母さんが困ればそんなに嬉しいのか!? お前は! お前は!!」
「……ごめんなさい、ごめんなさい」
私はいつものように蹲り、頭を抱え込んで、ひたすら謝り続けた。
母親からの執拗な攻撃は、やみそうにない。何回も蹴りつけ、ミルクパンを手に持ち、私の体を何回も殴りつけた。頭を抱えてなければ、打ち所が悪く死んでしまいそうだ。
……死。そうか。井波理代子、十三歳。人生を幕引きするにはちょっと若い気もするけど、こんなクソ丸出しの人生、いっそのこと死んだほうがマシだ。中学生になったからといって、日々ろくなものを食べてないせいか、体も小さくやせ細っていて、虐待も一向に収まる気配がない。いっそのこと打ち所が悪くて死んでしまったほうがいい。
でも、小さい頃からのクセで「ごめんなさい」と謝り蹲ることが体に染みついていて、それ以外の行動を起こすことが、できない。
ちなみに母親からの虐待は、毎日というわけではないけれど、我が家ではいたって普通の日常風景だ。
父親は、私に虐待することはなかったけれど、私を庇うこともなかった。でも、数か月に一度くらいは母親に暴力を振るっていた。主な理由として、父親は母親によくお金をせびっていたんだけど、その要求額に見合ったお金を手渡さないと、酒を飲んで暴れていた。酒乱もあったと思う。そんな時は、私は狭い家のできる限り隅っこのほうへ行って、両親の視界に入らないように、息をひそめていた。
ただ、どれだけ息をひそめようと父親が家にいなくなれば、今度は母親が父親から受けた屈辱を私にぶつけるため、結局虐待されるのだけど。「お前のせいで、私が暴力を振るわれたじゃないの! お前というやつは、親不孝者! お前は! お前は!」とか言いながら。
父親が母親に暴力を振るうのにはは、一応分かりやすい理由があった。だけど、母親が私を虐待する理由は、あまり分からない。ひとつ言えることは、母親の機嫌が悪いときは、必ず虐待にあっていた。
母親は水商売で、夕方か夜に出勤するんだけど、私は少しでも母親の神経を逆撫でしないように、いつもギリギリ遅い時間に帰宅していた。
でも、今日母親の最初の第一声は「どうしてこんなに帰りが遅いの!」だった。
とにかく何か理由をつけて、私を怒鳴って暴力の限りを尽くし、日頃のうっぷん晴らしをするのが、母親のルーティンワークである。なので私はできるだけ母親の視界に入らないようにすることが、少しでも被害を減らすための、私の生きる術だった。
でも、それでも一切顔を合わせないとなるとまた逆上するので、母親の憂さ晴らしに付き合うように、定期的に虐待に遭わなければならない。
今日はいったい母親に、どんな嫌なことがあって、私がこの状況に陥ってるのかは分かんない。まあ、外で何かイヤなことでもあったんだろうけど、別に知る必要もない。知ったところで、虐待が収まるわけでもないのだから。
「お前は!お前は!こんなにも母親の私を怒らせて、腹立たせて、そんなに楽しいのか!お前は!」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
今日はまだ収まりそうにないか……
虐待して、日頃の鬱憤を晴らしているようにしか見えない母親は、きっと私のことを「暴力を振るわれて当然の人間だ」と思い、私を一人の人間としてではなく、道具か奴隷か何かと思っているのだと思う。
私はうずくまり泣きながら、ただひたすらに早くこの地獄の時間が終わるのを待っていた。
……地獄
もしもあるなら、地獄はここよりももっとひどい場所なんだろうか。
色んな苦しみがあるけれど、私は『人は、誰からも必要とされず、誰からも愛されないことが、人にとって一番の苦しみであり、悲しみじゃないか』と、過ごしてきた過程もあり、そう思っている。
親からも必要とされない自分、親からも愛されない自分、親にも見捨てられたそんな自分が、今後誰かに愛されたり必要とされたりするわけがない。
今後一生、誰からも愛されない、必要とされない、認められない、それどころか暴力を振るわれたり、忌み嫌われながら生き続ける人生。
こんな世界よりも、地獄の方が、本当にひどくて辛い場所なのだろうか。
ひょっとしたら地獄の方が、ここよりもマシかも知れないな……
そんなことを考えながら、母親からミルクパンで殴られ続けるのを必死で耐えていると、母親の蹴りが私の脇腹に強く入り、耐えきれなくなり体を横に倒してしまった。私が脇腹を抱えていると、そこに母親がミルクパンを思い切り私の頭に叩きつけ、当たりどころが悪かったのか、私はそのまま意識を失った。
しかし、気を失ったのは一瞬だったようだ。意識を取り戻すと私は再び殴られていた。蹲り、頭を抱えたいつもの体勢で。
でも、なんか様子がおかしい。
女の声が聞こえる。だが一瞬何を言ってるのかわからない。またいつもの母親の声とも違う。
ふと周りを見ると、ここは自分の家ではなかった。薄暗くはあったものの窓から夕陽が入るので少し様子がわかる。
古い物置小屋、窓の位置や大きさ高さからいって屋根裏部屋だろうか。しかも日本ではない。小公女のような、いやもっと古くて貧しい貧民街の、中世時代のヨーロッパ風の家みたいだ。私は親が家にいない時には、よくこっそり日本のアニメを見ていたので、そのイメージの、貧民層に近い家だと思った。
そして、女の声がだんだんと理解できるようになってきた。
これもよく見たアニメの設定、転生時の特典というやつなのかな……って、待って……
え? 私、転生してしまったの……?
恐る恐る顔をあげ、女の顔を見た。赤い髪色でグレーの瞳、顔立ちからしてもとても日本人とは思えない。
目鼻立ちのはっきりした欧米風の顔立ちだ。欧米風の顔を見慣れてないせいかも知れないけど、よく見ると美人とも思う。
しかしその整った顔立ちも全て台無しにする鬼の形相で、女はほうきの柄を鞭のように使い、思い切り私の体に叩きつけていた。
「お前は!お前な!こんなにも母親の私を怒らせて、腹立たせて、そんなに楽しいのか!お前は!」
……女は、母親と同じことを言っていた。しかも私はこの女の娘みたい。
……私は転生したみたいだった。しかも、転生先でも私は以前と同じように、ひどい虐待を受けていた。
ちなみに、虐待を受けながらもこんなに思考を巡らせることができるのは、虐待が日々の日常だったからだと思う。物心ついたときからの、当たり前の日常、疑問に思っても、口にすれば虐待が酷くなるので、私は押し黙るしかなかった。そしてただ蹲りながら、色んな事を考えていた。暴力を振るわれて痛くないわけない、心の中で、『痛い、痛い』と思ってはいたけど、その心の悲鳴が誰かに届くことはないし、この置かれた境遇を思ったらだんだん空しくなってきて、心の奥底で自分の別の人格が、客観的に物事を見て考えるという、そんな妙な癖がついてしまっただ。
慣れもあるんじゃないかな。慣れって本当に、恐くて悲しいと思った。
虐待が来る!と思っても、痛くて辛いとわかってはいても、反射的に用意してたかのように、私はただ蹲ることしかできない。
そして早く母親の怒りが鎮まるのを願いつつ、心の奥底で思考を巡らせるしかなかった。
転生先でも虐待に遭うなど、本当についてないどころではすまないレベルの、自分の運命を呪いつつ、また思考を巡らせる。
鬼の形相で殴り続ける女、これは転生物のアニメ的にはフラグで、そろそろ悪魔が乗り移りそうな……
と思ったら、本当にフラグだった。
女の顔色、肌色はドス暗く土色になり血管が浮き出、目の色は血走り、指や爪が異常に伸び、真っ赤の髪は蛇になって伸び散らかし私を襲ってきた。
「私は、憤怒の七大悪魔のひとり、ジミマイ。サタン様の命により、お前を魔界へ連れていく」
そのジミマイとかいう悪魔がそう言うと、蛇の髪の毛が異常に延びて、私に蛇の髪の毛を巻きつかせ拘束し、恐ろしい形相で私に襲い掛かってきた。魔界に連れていくって言ってんだから殺しはしないんだろうけど、気絶させるだけにしては凄い気迫、さすが本物の悪魔は違うな、今にも私を殺してしまいそうな感じだ。
でも、それでいいなと思った。生きながらえたって、イヤなことしかないんだし。
とはいってもやっぱり本物の悪魔を前にして、抗えない恐怖で震えつつ、痛さをなるべく感じずにすむような安楽死を、ひたすら祈った。魔界があるというのなら、この異世界にも天界があるのだろうか? もしそうなら、魔界ではなく天界に召され、少しでも心安らげる場所に辿り着きたい、そうなることを祈って。
……どうか私を、神のみもとへ……
すると、私は光に包まれ、拘束していた赤い蛇は粉々になった。ふと自分の手を見ると、そこには光りを放つ杖があった。
割と大きめの杖で、上の柄の部分は渦巻いている。あと、お花が何個か葉付きで散りばめられていて、大きくはあるけど見た目にもとても可愛らしい杖だなって思った。
突然のことで呆然としていると、
「お前、それ、モーゼの杖! どうやって手に入れた!? 私が手に入れようとしても無理だったのに! 早くよこせ!」
とジミマイが慌ててながら、私の手にあるモーゼの杖を奪おうとした。
それは、私を殺してでも奪ってやるという勢いで私に突進してきたので、私は思わず反射的に、わけもわからずモーゼの杖をジミマイに向けた。
「こっちに来ないで!!」
すると、杖から光が放たれ、ジミマイは呆気なく粉々になって消え去ってしまった。
……え
私は呆気に取られていると、杖の光が窓を差した。窓を開けると光はまだ続いていて、ひとつのある山の方向へと続いていた。
窓から下の様子を見てみる。道行く人たちは、光の存在に全く気付いていない。
光が見えるのは、私だけなのか。とにかくこれは、山に行けということなんだろうな。アニメ的に考えてもきっとそうだ。行くしかないと思う。
そう思いながら、屋根裏部屋から下の階に降りてみた。部屋中アルコールの瓶や割れているコップが散乱している。
……これも前世と同じか。父親はアル中気味で、暴力男だったし。
しかし今父親は家にはいない。仕事からまだ帰って来てないのだろうか。
それにしても『モーゼの杖』か、凄いな……アニメで見たことあるけど、海とか割ってた気がする。
私は宗教とかは、アニメで知る範囲でしか知らないけれど、とにかくこの『モーゼの杖』はとても大事な物だと、”アニメの勘”が私に告げているので、この杖が指し示す光の方角へ、抗わず向かおうと決意して、家を出た。
寒い。外に出ると、吐く息が白かった。どうやら季節は冬のようだ。部屋の中も寒かったけど、外は一段と寒い。
なんとかならないかと思い、一度家に入って、体を温めようとちょっと杖に念じてみた。すると、モーゼの杖が光り、私は一瞬光に包まれた後、体が暖かくなった。
このモーゼの杖ってすごいな。今みたいに呪文とか唱えなくても、何でもできちゃうのかな。でもこの杖、ちょっと目立つな。
結構可愛らしいし、何にもしなくても、ちょっとぼんやりと光ってるし。
片づけられないかな。
と思っていると、モーゼの杖はすっと消えた。
でも目的地を差す光は私の右手から続いていて消えていない。
私は光りに沿って歩き始めた。