[65]初めての瞋恚(しんい)?
「リル……リル……──」
自分の名を呼ばれて目覚めるのは、もう何度目だろう?
「リル! リルっ!!」
けれどその声色は、いつもの穏やかで優しいものではなかった。とても深刻そうで、とても必死で……あたしの意識も無理矢理引き寄せられるように覚醒した。
「ん……」
「リル! 大丈夫か!?」
自分の右耳に吸い込まれた名を、奏でていたのはアッシュの声。
僅かに開いた瞼から見えるのは……鍾乳洞の天井じゃない。アッシュが火口下のあたしの許へ飛ばされた時のように、きっとあたしも何処かへ飛ばされたんだ。そして呼び掛けるのがルクじゃなくて、アッシュだっていうことは……?
「……ア、アッシュ!?」
あたしはようやく瞳をまともに機能させて、すぐさま声の方向へ顔を向けた。
一気に鮮明になった視界には、同じようにこちらを心配するアッシュ。でもその身体は飛行船の脱出用シューターらしきカプセル状の空間に閉じ込められている。
「アッシュ! 大丈夫!? えっ……やだ、何これ……どうなってるの!?」
「リル、落ち着いて……あんまり引っ張ると手首がすりむける」
「あ……」
動くと共に金属音がジャラジャラと耳障りに響き渡って、両手首が鎖で繋がれているのだと理解した。鎖の先を辿った視線が、左右に見える木製の細い柱に行き着く。寝かされている柔らかな布の手触り、支柱の繊細な彫刻、そして女性らしく小花の散りばめられた可憐な文様の天蓋は……これ、きっと王家のおばあちゃんの寝室だ!
「アッシュ……一体どうして?」
徐々に状況を把握したあたしは、カプセルの向こうのアッシュに問い掛けた。鎖で繋がれているけれど、それなりに長さがあるので何とか身を起こし、行ける所まで寝台の端に近付いた。
「二人が消える瞬間、ビビアンさんに赤い光の上まで放り投げてもらったんだ。お陰でリル達と一緒に此処まで来られたけど、サリファは同時に先生のカプセルまで転移させたらしい。そんなことより……」
そこまで話して一度歯を喰いしばったアッシュに、一瞬あたしの身体が震えた。初めて見せる憤怒の表情……それは明らかにあたしに向けられていた。
「どうして……どうして一緒に逃げなかったんだ! ビビアンさんが作ってくれた好機を、リルは……どうしてっ──」
「……」
こんなに恐いアッシュをあたしは知らなかった。もちろん分かっている……あたしを心配してくれたからこその怒りなのだと。でも……
「……でも、ツパおばちゃんがもし本当に死のうとしていたのなら……」
──自分独りが逃げるだなんて、やっぱり出来なかった。
あたしは……ツパおばちゃんに死んでなんかほしくない──誰一人、死なせたくない。
「ビビアンさんが残るって言ったじゃないかっ! あの人ならきっとツパイおばさんを守ることが出来た。あの場はビビアンさんが何とかしてくれると信じて、退却すべきだったのに……いや、僕が是が非でもリルを連れ去れば良かったんだ……僕が不甲斐ないばっかりに……!!」
「アッシュ……」
後悔の念に苛まれて頭を抱え込むアッシュの苦悶の姿に、あたしは二の句が継げなかった。
またこうしてあたしは周りを苦しめるだけなんだろうか? 傷つけるだけなんだろうか? アッシュだけでなく、きっとツパおばちゃんもビビ先生も、パパもママもタラお姉様達も、今もあたしを心配してくれている筈だというのに──。
「ご、めん……ごめん、なさい。アッシュ……」
振り絞った謝罪の言葉に、アッシュは刹那ハッと息を止めた。数秒落ち着きを取り戻そうとするように、胸に手を当てて呼吸を整える。やがていつものアッシュに戻り、それでもバツの悪そうな微笑みを、ようやくという様子でこちらに向けた。
「いや……ごめん、こんなことで取り乱して。過ぎたことは過ぎたこと、だね。それよりサリファの居ない内に、何とか逃げ出さないと」
「でも、あの、ルクはどうするの? サリファに乗っ取られたままじゃ……」
「今の状況では僕達だけじゃダメだ。応援を呼んだ方がいい。此処が本当に王室なら、合流するのも易いかも知れない……それに、おばさんの言った言葉が気に掛かるんだ……『死よりも惨いこと』というのが。リルをそんな脅威には晒したくない」
死よりも惨い……死よりも、なんてこと、他にあるのだろうか?
「アッシュはそれが何かを知っているの?」
「いや……正直分からない。でもいつも冷静なツパイおばさんが、あれだけの狼狽を見せたんだ。警戒するに越したことはない」
アッシュは神妙に呟いて、ともかく脱出しようと足元の扉に手を掛けた。
緊急用脱出シューターの出入り口は、奥の頭部側にパラシュートが設置されているため足側にある。
アッシュが入れられたカプセルは現状「立って」いるので、扉を開けるには横倒しにする必要があるけれど、どうもそんなことくらいで簡単に開きそうにはないらしかった。
「参ったな……サリファが細工したみたいだ。リルの鎖も解かないといけないし……何か金属に勝てそうな工具とか近くで見つからないかな?」
アッシュの言葉にあたしも動ける範囲から、道具になる物を見つけようと試みた。
でもそんな悠長な時間、案の定続く訳もなくて──
『ご苦労様だねぇ……さて、そろそろ出番といこうじゃないか、ルノ』
「「サリファ……!」」
回廊へ続く扉の向こうから、ルクのままのサリファが現れた──!!




