[51]心の吐息? 〈As&L〉
「──ひっ!!」
あたしは思わずか細い悲鳴を上げた。がっちりと握られた左足首から、ゾクゾクとした悪寒が全身を昇ってくる。
「……リ……ル」
「え? ア……アッシュ!?」
掴んだ相手がアッシュだと分かった途端、あたしの震えは一掃された。すぐに放されたので、少しだけ後ろに下がってしゃがみ込む。朧げなシルエットはゆっくりと身を起こし、大きく息を吐いて目の前に座り込んだ。
「ご、めん……驚かせて。落下の衝撃で声が出なかったんだ……こんな暗闇で逃げられてしまったら、追いかけられる自信もなくて」
「落下って、どれくらい落ちちゃったの!? け、怪我は? 大丈夫??」
あたしは動揺して、ともかく確かめようと腕を伸ばした。でもこんな真っ暗な中で何をどうやって判断しようというのだろう……触れてもアッシュに負担を掛けるだけなのに。
闇を掻き分ける両手が、今度は優しく掴まえられる。握ってくれたアッシュの掌は、とても温かく感じられた。
「大丈夫だよ……実際さっきリルから見えた位の、目線の高さから落ちただけだから。ただちょっと胸を打ったみたいで、一瞬息が出来なかったんだ」
「う、うん……ごめんね、アッシュ。あたしのせいで……あたし、やっぱり……」
──来なければ良かったのかも知れない。
そう言ってしまいそうな唇を急いでつぐんだ。みんながママとあたしのために頑張ってくれた行為を、無にしてしまうと思ったからだ。
「違うよ、リルの所為なんかじゃない。サリファは『ジュエル』さえ手に入れば、ラウルおじさんが『乗り移れる対象』を引き渡さなくとも、いつかは見つけ出す手筈だったと思う。だから遅かれ早かれきっと誰かが囚われることになっていたよ。でも……ルクを奪われたのは僕の失態だ」
「アッシュの……?」
包み込むアッシュの手に瞬間力が入る。それに気付いたアッシュは自分を咎めるように、あたしの手を放してしまった。
「ルクもユスリハおばさんと同様に、リルを確保してしまえば、サリファにはもう必要でないと僕は思っていた。だからそのルクが目を付けられるなんて考えもしなくて……リルが光に呑み込まれる時、自分がリルを掴まえるには、ルクを飛び上がらせることくらいしか思いつけなかったんだ。あの時もっと熟考すれば良かった……せめて僕がリルの手首を掴んだ時点で、ルクの手を放させておけば……なのに……本当にごめん」
「そ、そんなこと! アッシュの失態なんかじゃないよ!! あたしこそママの偽物に気付けていたら、こんなことにはならずに済んだのに……」
頭頂部が重みを感じるように、お互いの頭がガックリと垂れ下がる。ルクが捕まった要因は一体何なのだろう。あたしが自由になった理由だって、どうにも良く分からない。そんな疑問がグルグル回転する脳ミソを整えたくて、今一度アッシュに協力を求めた。
「うん……サリファが去る前に『三人を取り込んでおけるほど、まだ力が戻っていない』って言ったのを覚えている? 推測だけど、王家の結界から出られたお陰で、サリファは自分の力を取り戻し始めているのだと思う。でもまだ僕達三人を縛りつけていられる程まで力が戻っていない。最終的にはリルだけが必要なのだろうけど、ルクにも何かしらの利用価値を見出したサリファは、とりあえず逃げられない此処に君を閉じ込めて、ルクだけを自分の手元に置いた。例えリルを逃がしてしまっても、ルクが「ルヴィ」と呼べばまた掌握出来る訳だしね……で、僕はきっとリルを生かしておく為にこちらに残された……のだと思うよ」
「ルクの利用価値……」
アッシュもそれがどんなことかは分からないみたいだった。でもサリファがそのヒントをくれる前に、アッシュは「ルクを選べ」ってあたしに言ったんだ。それはどうしてだったのだろう? 自分のことを二の次にしてまで、アッシュはどうしてルクを救おうとしたの??
「アッシュ……あたし、アッシュもルクも大切な家族だと思ってるよ。二人が一緒に自由になれなくちゃ、本当に嫌だって思ったから、あたしは「両方」って答えたんだ……なのに何故アッシュはルクを優先しろって言ったの? ルクの三年前の決意って何?? どうしてそのためにルクを助けようとしたの!?」
「リル……?」
自由にされたあたしの両手は、気付けばアッシュの前身頃を掴んでいた。その力がいつになく強かったから、アッシュはあたしの名を疑問形で呼んだのだろうか? それともあたしの声が震えていたから?
「リル……泣いているの?」
心配そうな小さな声にハッとする。問われるまで気付かなかった……元々ぼんやりとした視界が更に霞んだのは、涙が溢れている証拠だった。
尋ねたアッシュの声は、誰かに似ているように思えた。誰かじゃない……パパ、だ。パパがあたしを心配している時の声色。いつになく重なった二人の音に、アッシュの心の色も薄っすらと浮かび上がった気がした。
「……タラお姉様が教えてくれたの。アッシュには憧れの人がいるって。それって……あたしのパパなの?」
「え……? ……う、ん」
涙声の問い掛けに、アッシュは戸惑いながらも肯定した。そして思う。パパに憧れた理由と今回のアッシュの選択。それってもしかしたら──
「パパは……あたしが生まれる前も、今回も……みんなを救うために、自分の命を犠牲にしようとした。……アッシュもそういうつもり、だったの……? 自分を犠牲にすることで、ルクを助けようとしたの……?」
「リ……ル、それは──」
高揚したあたしの眼と唇から、涙と想いが止め処なく流れた。左の頬にアッシュの指先が触れ、その上を転がった水玉を感じて、目の前の細い影が困ったように揺らいだ。
「ヤダよ……あたしは二人が、全員が助からなくちゃ、ダメだって思ったんだ! ……アッシュはパパのそんなところに憧れたの? カッコいいって思ったの?? そんなの間違ってる……!!」
「ちが……」
「だからママもお姉様もおばちゃんも、必死にパパを止めたんだよ! お願いだから……パパのそんな部分、見習わないでっ、憧れないで……パパは、本当はっ──!!」
「リル……」
アッシュの長い腕が左右から伸びてきて、あたしの背中を柔らかく包み込んだ。それでも勢いがついてしまった心の昂ぶりは止まらなくて、しゃくり上げるような泣き声はもう止め方が分からなかった。
「違うんだ、リル。僕は……そういう面に敬意を払った訳じゃない……ちゃんと分かっているよ、ラウルおじさんの尊敬する部分。だからこそ憧れて、目標に掲げて……。だけど僕は……君のパパにもシアン兄さんにも、きっとなれないと思うけどね……」
「……アッシュ……?」
優しく抱き寄せられて、胸に押し付けられたあたしの耳に、乾いた笑いが小気味良く響いた。きっとなれないってどういう意味? パパとシアンお兄様とは違うアッシュの部分って……何??
「全部諦めきれたら、いつか教えてあげるよ。……だから、今だけは──」
あたしの横髪に温かな吐息が掛かる。それから今までで一番強く抱き締められて、アッシュはしばらくその腕を……あたしを放すことはなかった──。




