本日も僕らは
梅雨という文字を見て僕が連想するのは鬱々とした雨模様でも、夏へつながる期間でも、あの日振り返った君でもなく、無だ。
自分の想像力の無さにパリピなギャルやそこいらの蟻ん子にも笑われそうだが、
あの日の田んぼの中に見えたアンドロメダは今の僕の霞んだ目玉にはちっとも映ってくれないらしい。
自虐的な笑みを浮かべたところで、立ち止まってしまっていては先ほどまで友人と親しんだ彼すらもどこか彼方へ走り去り、肩を叩く者などこの時間軸にはいないものだねと。
自分で立ち、己に勝ち、誰も見つけることの適わない価値を自ら掘り出している今も
きっときっと『無価値』と断じてしまわれるのだろう。
しかしながらだ。
無価値だ無価値だと言われている自分の手のひらにしかない価値を感じる瞬間に何がどうして『個性』を感じずには居られないのだ。
あの寝たきりの休日も
あの笑いあった愛おしき日も
あの物書きに憧れた日も。
流れてしまえば何の価値も無いというのに、それでもな僕を奮い立たせ大地に根付かせる土になるには十分過ぎるのだねと。
話を戻すが梅雨だ。
白紙の紙を自分に差し出されたがそれ勝手と、自分語りを赤裸々に話してしまうが
こうも引っ掛かりの多い文章構成では読み手も疲れてしまうだろう。
簡潔に伝わりやすく。
コミュニケーションツールとして使用される言語の第一条件だ。
小説は実に梅雨に似ている。
小説家と自称する人間の『伝えたいことを回りくどく言いたい病』は正に梅雨の湿気た空気と等しく。
春の温かみも、夏の快晴も表現できる立ち位置にあり。
冬のような寒いものは存在していることすら認知されないのだ。
だから梅雨と聞いて私が想像するのは無。
故に価値があるのかもしれない。