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【1】

 幸せが胸のうちいっぱいに広がっていく。

 膨らんだお腹を押さえる尼岸あまぎし綾子の胸にじんわりと広がっていく。幸せとは誰かが勝手に決めたり定義するものなどではなく、ふと気づけばそこにあるもの。失ったときに初めて価値が分かるというもの。

 その意味を知らぬ綾子はエレベーターに乗り込もうとする。と、先に乗っていた女性がいた。時々近所で見かける女性だ。失礼だが肥満といっても差し支えのない体型で、いつも杖をついて、のっそり、のっそり、歩いている。なんとなくだが精神疾患を患っていそうな雰囲気がするので、彼女はなるだけ近づかないようにしている。だが乗り合わせた以上、仕方あるまい。

 老人用のキャリーのハンドルを持ち、懸命に肉厚なからだを支えている様子の女性は、綾子を見ると目を見開き、そして背けた。黙って綾子はからだを回転させ、同乗する。

 妊婦だと明らかに分かる体型になって以来、女性から好意的な言葉をかけられる機会が増えたのだが、こちらの女性は論外。眉をひそめるありさまだ。

 背後から威圧感を感じ、沈黙に満たされるエレベーターが一階に到着すると、綾子はその女性のために『開』ボタンを押した。

「どうぞ」

「いりません」

 他者を寄せ付けぬ調子の声音に、綾子は苦笑いを漏らす。ネットの掲示板なんかを見ているとよく分かる。自分の考えが絶対的に正しいと考え、他者の思想を受け付けないといったタイプの人種がいることを。声を聞いただけでそれが読み取れたので、綾子は重たいからだを動かし、その女性よりも先にエレベーターを出る。

 ――が。その女性の歩行スピードがどれほど遅いのかを知っているので、綾子は、女性の邪魔にならないように立ち位置を調整し、エレベーターの扉を押さえた。

 すると、たちまち、綾子の耳に金切り声が響いた。

「手ぇ、どけて!」――と。

 なにが起こったのか分からなかった。『手をどけて』ではない、確かに『手ぇどけて』と女性は叫んだ。ずかずかと出てきたその女性は憤怒の表情で、

「あなたね。なにさまのつもりなの? 妊婦様がそんなに偉いの? ええ?」愚鈍だが口は達者だ。早口でまくしたてる女性に綾子は驚愕していた。「わたしはねえ。自分で、自分のことくらいできます。あなたね。自分がいくら幸せだからって、見せびらかす権利なんか――あると思っているの!?」

 ここで、引けばいいと考える自分もいたのだが。綾子の口は勝手に動いていた。

「そっちこそ、……なにさまのつもりですか」

 妊婦になって以来、経産婦のあたたかい目線に言葉に触れるチャンスは増えたが、その一方であくまで無理解は頑なに存在する。世間の妊婦に対する偏見に、綾子は我慢がならなかった。

 超高齢化、少子化が叫ばれて久しいものの、政府は一向に動く様子もない。

 綾子は電車で会社に通勤している。妊婦バッジをつけて半年以上が経つが、いままで電車のなかで一度たりとも席を譲られたことがない。優先席で堂々と爆音で音楽を聴く若者に携帯をいじる若者の多いこと……なかには既婚者と思われる、新聞を広げて読みふける男性も。紙媒体のなかに封じ込められた世界よりもいま目の前にある現実を知れと。これでは誰も子どもなんか産みたがらない。育児の負荷は次々押しよせ、綾子の周りでも悲鳴をあげている既婚女性の多いこと。

「はあ?」

 と女性の口が動いた。大きくて歯が汚いなあ、と思いつつ綾子は、

「わたしが幸せアピールしているというのなら、あなたは不幸をアピってます。

 偉いんですか? そんなに。

 障がい者のくせに、自活出来ている自分が。

 散歩もお買い物も出来て偉いわねー。

 でもわたしそのくらいのことなら十八歳の頃からしています。あなた、世界狭いんですね。友達いないんですね。あれですか? 褒めてくれる人間が誰もいないから、弱そうな妊婦タゲって憂さ晴らししようとしてるんでしょう。

 ざーんねんでした。わたし、そんな弱くありません。

 自分のことが自分で出来るというのならね、あなた、わたしくらい速く歩いてみなさいよ。

 妊婦のわたしよりもおっそいくせに。――っ」

 視界が反転する。強く、床に頭を打っていた、と綾子が認識するのは、その女性に突き飛ばされたと気づいていたからであった。

 咄嗟に、お腹を守った。その女性の力といったら怪力そのものであり、お腹を庇い、胎児のような体勢で丸まる綾子の足を背を、ものすごい力で女性は蹴り続けていた。気づいた人間が、救急車を呼び、その救急車が到着するまで、女の暴行は本格的に続いた。


 ――精神的なショックも原因だと、医者には言われた。

 夫には呆れられた。そんなキチガイ――放っておけばよかったのに、と。

 同情してくれるかと思ったのに。結婚して以来、綾子に家事全般を押し付け、綾子がつわりで苦しんでいるさなかも、平気でビールをぐびぐび飲んだあの男。

 驚いたのは、その女性は、暴行罪――で裁かれたことだ。

 殺人罪ではなかった。

 綾子にとっては、殺人そのものであったというのに。

 レイプは、魂の殺人だという。ならば、お腹のなかの赤ちゃんを殺したあの女。あの女を、殺戮者と呼ぶ以外、どういいようがあろう? ――綾子は、煩悶した。

 仕事は一ヶ月休んだ。

 夫とは離婚した。まだ見ぬ最愛の我が子を失った綾子に、寄り添うどころか、『おまえが言い返すから殺されたんだ!』と綾子をなじる始末。価値観の相違とは、こういう現象を指すのだろう、と骨身に染みた。

 事件から三ヶ月ほどは周囲が騒がしかったが、小学生の起こした猟奇的な殺人事件が世間を震撼させ、綾子の事件は、やがて忘れ去られていった。あたたかみを失ったトーストのように。

 だが、綾子のなかで、事件が風化することはなかった。

 いつまでも鮮烈な血液のように、生々しい記憶。痛みを伴い、その事件は綾子のなかに実在した。苦渋とともに綾子は振り返る。最愛の、会えなかった我が子のことを。

 女の子、だった。あと二ヶ月もすれば会えたはずの我が子を、守るどころか自分の反論が原因で暴行され、流産するなんて。

 後悔よりも、相手の女を憎む気持ちのほうが強かった。

 自分は、正しいことを、している。

 なにも悪いことは言っていない。悪いのは――あの女。富山とやま数見かずみ

 執行猶予付きでたった三年で刑務所を出たあの女。もし、あの女に復讐を果たすとしたら、あの女が幸せを手に入れた瞬間にしよう、と名前を授からぬうちに亡くなったあの子に綾子は誓った。

 数見は反省しているのか、毎年あの事件の起きた日に届くよう手紙を送ってくる。迷惑な話だ。つくづく、自己中心的な女なのだと思う。反省している、といくら伝えられたとて、あの子が戻ってくるわけではないのに――。

 内容も、一方的な謝罪のみで、綾子の現状を気遣うなどの配慮が見られない。ただ、『反省しています』『申し訳ありませんでした』あとは自分の生い立ちや苦しみが延々と綴られるのみ。あろうことか、事件の被害者に自己を正当化する論理を展開するその思考回路に、綾子は、呆れた。――裁判官の論述からあの女はなにを学習したのだろう。

 手紙を受け取り続けることの利点は、数見の住所が分かる点だ。フェミニンな印象を与えていた長い髪をばっさり切り、くっきりとした二重瞼を作った。

 時々、数見のアパート近辺をうろついた。へえこんなボロアパートに……だからといって、許されるはずがないのよあなたの罪は。と、定期的に綾子は数見への怒りを掘り起こした。守るべき娘を失った彼女の生きるよすがは、数見への復讐。それ以外に、なかった。


 そして――朗報を手に入れた。

 手紙で、数見は、自身の結婚を明らかにした。妊娠していることも。

 馬鹿なのか、と綾子は思った。手紙の返信がないこと自体、それが答えだろうに。ああこの女はなにも分かっていない――事件から四年の歳月が過ぎていた。

 復讐をするならそう――タイミングを考えなければならない。もう、間もなくして最愛の我が子に会えるだろうと思う頃合いで。自分が味わった苦しみをあの女に味あわせてやるのだ。そう――お腹の中の大切な我が子を殺される苦しみを。


 あの事件の頃よりも10kgは痩せただろうか。努力は褒めてやりたい。――が、その努力がいったいなんになろう。綾子は失ったのだ。綾子が失ったものは絶対に取り返すことが出来ない――。

 しかし、ここで、閃いた。――そうだ、そうすれば……。

 腹を押さえ、あの日の自分のように丸まり、歩道に這いつくばる数見に向けて、綾子は、

「ねえ……。助けて欲しいのなら、条件があるわ……」綾子は屈んで自分の携帯を見せつける。「119番。119番してあげる。そうしたら、その子は助かるかもしれない……けれど。

 二つ、条件があるわ。

 飲まないのなら、わたしはここから去る。あなたのバッグはどこかコンビニのごみ箱に捨てておく。それでいい?」

 切れ切れの声で、数見は、

「お願いですから、この子だけは助けて……なんでも、し、しますから……」

「その言葉に嘘はないわね?」にやりと綾子は笑うと立ち上がり、素早く通話ボタンを押す。「――助けてください! お願いです! 妊婦さんが――妊婦さんが、歩道橋から落ちて、苦しんでいるんです! ここは……住所は神奈川県Y市○○区○○……そうですケーキ屋の近辺です!」

 一息に無垢な通行人を演じ切った綾子は、数見に告げる。


「わたしの言う条件、それはね――」


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