【2】
――また、動いた。
すっかり重たくなったお腹をさする篠崎数見は笑みを浮かべる。『あんなこと』をしたわたしにも、最愛の男と結ばれ、最愛の我が子を授かる、こんな幸せが待っていたのだと。
神様は、ちゃんと、いるのだ。
罪を償い、悔い改めたわたしに神様は相応の幸せを用意してくれていたのだと。
数見は、製造工場の事務の仕事をしている。給与は決して高いとは言い難いが、いわくつきの過去を持つ自分を雇ってくれるだけありがたい。妻を亡くした社長だけが数見の罪状を知っており、以外の社員はみな、知らないようだ。
数見はこれまで、数々の仕事を転々としている。露見するたびに、転居転職を強いられた。
それは自分の犯した罪なのだから。
と、正当性を曲げられない自分もいれば、仕方がないと諦観する自身も正直に胸の内に内在する。もし――あんな育ち方をしていなければ。あんな境遇に生まれ育っていなければ、見も知らぬ女性を傷つけることもなかったのに――後悔しても遅いと知りつつも、数見は考えるのを止められない。
数見は、毎年、手紙を書いた。贖罪のために。
相手から返事が来ることはなかったが、それでも出所してからもずっと送り続けるのは、数見のなかに厳然と存在する意地のようなものだった。止めてしまっては超自我が崩壊するとさえ思ったのだ。
名前はもう、決めている。美波。母の故郷にある海を思わせる美しい名前、それこそがふさわしいと数見は思った。『事情』を知る夫も諸手をあげて賛成してくれ、つくづく自分は恵まれていると思う。
いつものように夕闇に照らされた歩道橋を上がり、歩き進み、下りの階段に差し掛かったところだった。数見とは逆に、前方から階段をあがってくる女性がいた。その女性は――数見と同年代の女性だろうか。三十代と思われ、数見の目線を受け止めると柔和な笑みを見せた。その反応に数見は同調する。数見は妊娠してから、周囲の女性の妊婦に向ける目線があたたかいことに気づいていた。
ただ、数見が違和感を覚えたのは、その女性の髪が男性と思われるほどに短いことだった。角刈りと呼べるほどの短さだ。まるで役作りをしている女優のよう――
ここまで思い至ったときに、数見は、ふるえを、感じた。
そして、事態を、把握する。――そうだ確かにこの女は――
「……何ヶ月で?」
「は、八ヶ月です……」咄嗟に数見は腹部をかばうよう意識する。「……お、お医者さまからたくさん歩くように言われていてそれで、……危ないので自転車は使わないんです……」
もはや、この女性がここに現れた目的は瞭然。
「あなたに、分かるように説明しておくとね。……二重にしたのよ。アイプチで簡単に出来るの。印象がまるで違って見えるでしょう……? だから間抜けなあなたは気づかなかったのね?
――わたしが白畑綾子だということを……。わたしが離婚した情報をどこから得たのかしら? 返事を書かないことであなたは調子に乗って、自分の近況をぺらぺらと喋り倒してくれる。あなたのせいでわたしがどんな地獄を体感したかを知らずに。
それにしても随分痩せたわねあなた。贖罪のつもり? 笑える――笑えるわ」
狂気を宿す笑みを目の当たりにしたときに、数見は、既に背後に回り込まれていた。
やがてその手が思い切り、数見の背を押す。この行為は――かつて自分がしでかした行為に比べれば生易しいものなのだと思う。それでも、数見のなかで防衛心が勝った。
「――お願い。この子だけは、……あっ」
空を切る。からだが。言葉が。
腹部を庇いはしたものの、激烈な痛みで全身を打ち付けられ、数見の肉体は階段下のコンクリートに落下する。
ゆっくりと、数見を突き落とした女は段を降りる。その歩き方――は健常者のそれそのものであった。だから数見は思いだした。この女の、この颯爽とした歩き方が憎くてたまらなかったことを。
腹部におそろしい痛みが走り、股のあいだからあふれるなまあたたかい血の感触。数見はこの世に存在するかもしれない神に祈った。どうか、この子の命だけは――。
「――わたしが、どれだけ、このときを待ち望んでいたと思う?」
地べたに伏せたままの数見の前に立つと、女は、数見の顎先を足のつま先で突いた。
「――あの子は。名前もないあの子は、わたしのなかでれっきとした命を持った人間だった。
殺人を犯したあなたを、裁判官たちは暴行罪というやさしいフィルムをかぶせて世に放った。
もし――あなたに、復讐をするのならば。あなたが幸せになって子を宿すそのタイミングを狙っていたのよ。ずっとずっと……」
――そう、彼女は『被害者』だ。数見は思いだした。忘れることはなかった。
言葉を継げず、痛みに苦しむ数見に向けて女はたっぷりと笑い、
「わたしが味わった苦しみをとくと味わえ――この人殺し」
*