ゴミ屋敷
その町は、郊外とはいえ立地は良好。駅も近いしスーパーも学校もちょうどいい場所に建っている。気候は穏やか……流石に今日は暑いが、春にここを訪れれば驚くほどに優しい風が吹いていることに気づくだろう。
だから、だろうか。ここの住民はみな余裕があると見えて、立ち並ぶ家々もカタログから飛び出してきたような【庭付きの白いおうち】ばかりだ。俺の安月給では、あと何年歯を食いしばればこの生活が実現するのだろう。
『将来、こんな豪邸に住んでみたいわねぇ』
頭の中の元妻が、嫌味たらしく言った。
ひとつ舌打ちをしたくなったが、同僚たちが乗り合わせていることに気付き、飲み込む。代わりとばかりにハンドルを握る手を強め、目的の場所へとトラックを走らせた。
そこは、町のさらに外れ、家の数も点在の様相を呈していた。その中の一軒、そこが今日の仕事場である。
気慣れない作業着の下で汗が噴き出た。夏場だというのに、なんでまた……。苦情の数が閾値を超えるまでだんまりを決め込んでいたこちらにも責任はある。だが、「若いんだから」の一言で駆り出されるのは気に食わなかった。
「いや、ホントすごいですねこのお宅……」
げんなりした声が隣から聞こえた。無理もない。ここ最近の酷暑のせいで、当該宅の臭気は耐え難いものになっている。
ゴミ屋敷。
テレビ画面越しのそれは、単なる一枚絵でしかなかった。いざ前に立つと、まるで粘液を纏った異形の怪物がヤドカリのように家に擬態している……そんなイメージが浮かんでくる。迫力というのか、それがあった。そんなものない方が断然いいんだけど。
今日の俺たちのミッションは、ここに住むアホの爺さんをなんとか黙らせ、それに成功したら少しずつでもゴミを撤去する。というものだった。
「何年前からでしたっけ、これ」
「外にゴミがあふれるようになったのは五年前からだそうだ。ため込み始めたのは、もっと前なんじゃないか?」
「げー、その時からずーっと説得続けて、それでもダメなんでしょ? じゃあ……」
「言うなよ」
言ったって無駄。それはわかっている。
でも、だからやりませんでは通らないのが世の中だ。
「じゃ、行くぞ」
開けた門をトップでくぐる。一応、俺が最年長の先輩にあたるから。
内から溢れるゴミで閉じなくなってしまったのだろう。ドアは完全に開かれていて、役割を果たしていなかった。
だけど一応インターホンは押す。ピンポーン。と軽い音が外まで聞こえてきた。
「ごめんください、市役所の者ですが」
マイクに向かってつとめて優しく語りかける。いつもなら、発狂したような怒声が轟いてくるはずだった。
だけど、今日は何も聞こえてこない。俺の挨拶が素通りして、静寂が場を包み込む。
ピンポーン。もう一度。二度、三度。押す。
だが結果は同じだった。
「おかしいな、買い物か?」
「かもですね。もしくは、夏の間は図書館にでも行ってるんじゃないですか? 暑いし」
「ああ、この有様じゃいい風も通りそうにないですしね。クーラーだって安いものじゃないし。あるかどうかわからないけど」
「はは、ゴミとして紛れ込んでるかもよ」
軽い口調の会話。本来は好ましくないが、気が重くなる作業が少しでも軽くなれば。そう皆が思っていたのかもしれない。
だけど、心のどこかで最悪の想像が揺れ動いていた。
年長者として、ぽつりと零しておく。
「もしかしたら、熱さで倒れてるかもしれない」
はぁ。自分でも驚くほど、深いため息だった。
考えていたのは、もしそうなら……仕事が面倒になるというその一点だけ。はっきり言って、地域の厄介者の爺さんに抱く情はなかった。
だとしても、確認はしなくちゃならない。そうでないと、救急車の一台も呼べない。俺たちの所持する権限は、責任だけが付属していて甘い汁を吸えない絶妙な塩梅なのだった。
「確認、するか……」
重い足取りをプラスチックのゴミが拾う。神経に触るパキパキという音が響いた。
案の定というか……中はすさまじいことになっていた。何をどうすればこうなるのか逆に知りたい。ゴミが天井を目指して詰みあがっていて、廊下を通るときは屈まねばならなかった。
「たとえ死体があったとしても……これじゃわかりませんよぉ長谷川さん」
泣き声を漏らすのは、一番の若手だった。泣きたいのは俺も同じだったが。
鼻に飛び込んでくる臭気は、甘かったり酸っぱかったり苦かったり、とにかく本能の奥底を逆なでしていく。腐ったものを怖がるのはそこに死の要素があるからなのかもしれなかった。人が血や死体を怖がるように。そう考えると、まるで森の中の一本の木を求めてさまようような気分だ。まあ、死体があるとは限らないのだが。
「坂本さーん! いらっしゃいませんかー!」
ゴミをかき分けながら奥へ奥へと進んでいく。いつしか、居間と呼ばれるであろう場所へとたどり着いていた。そこもゴミに塗れて、元の姿を想うこともできない。
「どこ行ったんだ、まったく……」
かろうじてここで生活していたのだろう。他と比べてまだマシな一角には、半分残されたスーパーの弁当が捨てられていた。中身の腐敗が始まっていない。つまり、近い時間にここにいたということになる。
「うひゃあ!」
と、先の若手が素っ頓狂な悲鳴をあげて転んだ。
「おい、どうした」
「す、すいません。なにか変な物を踏ん……で……」
彼の足元に視線が集中する。一斉に顔面が蒼白になった。
そこには、腕があった。
マネキンではない。生々しい爪と皺が刻まれた、一本の腕。
それがまるで、根元から引きちぎれたみたいに……ゴミの山のなかに、埋もれていたのだ。
「う、うわぁあああああ!」
若手の彼が逃げ出すのを合図に、俺たちも一時撤退を余儀なくされた。外に出て電話をしないと。救急車……いや、警察に。
うず高いゴミ山の廊下を戻る。生きと同じく、帰りも疲れる。
と、戦闘を突っ切っていた若手が、ふと歩みを止めた。
「おい、どうした」
声をかける。だが、反応がなかった。他の二人も首を傾げている。様子がおかしい。
「ミーコ、ミーコ……あぁ、そんな……」
彼は、その手で何かを持ち上げていた。半分がゴミに埋もれていて、引きずり出そうとしているようだ。
玄関から斜めに入り込む光が、辛うじて手元を照らす。
露になった輪郭は、生き物のような形を、していた。
「そんな、君は……お母さんに絶対ダメって、それで僕は、君を……川に……」
ようやく気が付いた。
それは、一匹の小さな猫だった。
「ミャアン」
可愛らしい声で鳴く猫を、彼はいよいよもって完全に引きずり出そうとしていた。俺たちは、垂れる冷や汗を自覚しながらも、動けずに見守るだけだった。
「ミーコ……」
手の中に、完全にその姿が乗った。
その次の瞬間だった。
「ミャァア、ア”」
突如、絹を裂くような痛烈な鳴き声を、その猫が発した。
そして、俺たちが見守る前で……グズグズに崩れて形を失い、それは、夥しい数のゴミに変化した。
「ッヒ!」
その小さな悲鳴を合図に、俺を除く三人が外へと駆け出した。ゴミのガサガサという音がする。
蹴り散らされ、崩れたそのゴミの足跡の中に、俺は見た。
あれは、バイオリン……。
そうだった、一度だけ言っていた。今日のメンバーのひとり、彼女は幼い頃バイオリニストになることが夢だったと。
残る一人、彼には何がまつわっているのかわからない。確かなことは、老人の家に相応しくない大量の数学の問題集……それが、彼の残照だということだけ。
俺の足は、動かなかった。
目の前の異常な現象の前に、一歩も。
その原因はわかっていた。恐怖ではなかった。
顔が熱い。
俺は、激しい怒りを覚えていたのだった。
警察は彼らが勝手に呼んでくれるだろう。それよりも、俺は家主を……いや、この家そのものを殴り飛ばしたいような気分に苛まれていた。
居間に戻っていた。相変わらず、半分残ったスーパーの弁当が花見のブルーシートに置く小石のように座っている。
誰が聞くでもない。だけど、心臓から滾るモノが肺を通して出てくるのを止めることができない。
「あんた、なんだってんだよ! 未練がましく、捨てられず、こんなにため込んで迷惑かけやがって」
大声を出したせいだ。ゴミの臭気が大量に入り込み、俺は咳き込んだ。だけど怯まず二の句を継ぐ。
「人生ってのは何かを捨てるってことなんだよ。痛くても、苦しくても、捨てるしかないんだ! わからないのか!」
……なにやってんだ俺は。勝手に熱くなって、一人で。
イライラを抑え込みながら居間を後にしようとした。
そのとき、確かに聞こえた。
人の笑い声。
冷や汗が噴き出る。先ほどの猫のときの、何倍もの量だった。
「なに言ってんのよ。一番未練がましいくせに」
声の発生源は、左手側に積まれたゴミ袋の塔だった。天井まで届かんというその中から、あまりにも、聞きなれた声がする。
「本当は気づいてるんでしょう?」
「……違う」
「アンタのことだから、吹聴してるんでしょう? 捨てたのは俺の方だと」
「……やめろ」
「後悔してるくせに。もっと妻に優しくしていたら、もっと仕事以外の話題を共有できていたら、本当は愛していた。嫌だった。泣きたかった」
「やめろと……!」
温かい。
俺が怒鳴るより早く、首に手がかけられていた。
その手には結婚指輪が着いていた。
俺が贈ったものだった。
「気づいてないだけよ」
パラパラ。ゴミ袋たちが弾けていく。中から顔が現れる。体が見える。足が生える。
俺が捨てたもの。いや、本当は捨てられたもの。諦めきれなかった、悔しくてたまらなくて、心に蓋をして誤魔化していた……。
「あなたは、そういう人」
妻は、優しい笑顔でそう呟くと、次第に原型を失い、ゴミの塊となった。
自重に負けて崩れていく姿を、ただ見下ろす。
外からパトカーの音が聞こえてきた。
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インタビュイーとして、これほどの題材はない。そう確信していたが、まさかこれほどに興味深い話が聞けるとは思わなかった。
長谷川氏……雑誌に持ち込む際は仮名を使うが、彼の経歴はすさまじいの一言に尽きる。悪い意味で、だが。
二十年前……まだ「ルーズ」な雰囲気が漂っていた社会の中、彼は市役所職員として勤務していたらしい。問題のゴミ屋敷だとしても、許可なく踏み込むとは……今では考えられないが、それは些末なことだ。
『怪奇現象の起こるゴミ屋敷』……坂本氏の邸宅だが、現在は撤去されている。やはり怪奇現象に工員が悩まされ、だいぶ難航したらしい。
奇妙なことに、住民であった坂本氏は、職員の手で一つ一つゴミを検分までしたにも関わらず、どこにも姿がなかったそうだ。職員の一人が発見したという腕は、欠片も見つからなかったという。家の外でも確認できず、依然行方不明のままである。
それはともかく、そのゴミ屋敷被害者の一人が、目の前の椅子らしきものに陰気に腰をかける長谷川氏だった。
その邸宅を訪れた日以来、彼は変わってしまったという。なにかに怯えるような、どこか悟ったような、不可思議な雰囲気を纏っていたと元同僚は語っていた。
仕事は捗らず、ゴミを捨てることを躊躇するようになり、そのまま五年勤めたが自主退職。
その後、ゴミのため込み癖は悪化し、住んでいたご実家の、小さいとはいえ二階建ての全域を覆いつくすほどになったという。
法の複雑化が進んだとはいえ……もうじき、ここは強制撤去されるだろう。その前に、どうしても彼にインタビューがしたかったのだった。
「……君は、『捨てる』という行為をどう思うかね?」
唐突にそう質問され、俺はたじろいだ。
「捨てる、ですか」
「そうだ。君の答えでいい」
「……辞書的な意味になりますが、いらない物を処分すること。それ以外の感慨は特には……」
「そうかね」
くへ。と笑った。黒ずんだ不潔な歯列が覗く。
「じゃあ、いらないものとは、なにかね?」
「……」
なんなんだ彼は。禅問答でもしたいのか。
訝し気な顔を気にもせず、とんとんと言葉が続いていく。
「すぐに答えられなかったな君は。いいかね、いらないものなんかこの世にはないんだよ」
この有様の中、彼の口調は幸福そうだった。
「単純明快、それだけ。それが真実なのさ」
「そんな馬鹿な……」
「いや、君も心のどこかでは、わかっているはずだ」
汚れて細んだ枯木のような指が、俺の手を指している。押せば死んでしまいそうだ。買い物にでかけている姿は目撃されているようだが、働いていた頃の貯金を崩してのこの生活は、どのようなものなのだろう。
「君には素質があるのさ」
「……素質?」
「薬指」
彼の言葉。自分の薬指を、見る。
なんの変哲もない、ただの指。
「違うね。細いんだ、そこだけ。長年つけていた結婚指輪を外したね?」
心臓にナイフを突き立てられたような衝撃が走った。この男の言わんとすることの一端、深淵をこの目に捉えてしまっていた。
「ほら、素質があるじゃないか。だから俺はインタビューに答えたのさ」
枯木の腕が伸び、床に敷かれたゴミを撫でる。
端へ、端へとのけられたゴミの中に、人間の顔が埋まっていた。
あまりにも見慣れた、顔だった。
俺の夢を理解しなかったから、三行半を突き付けてやったんだ。家事もろくにできない。愛想も悪い。こんな女、いなくなっても惜しくもなんともない。
「認めなよ」
これは、誰の言葉なのだろう。
「君が継ぐんだ。真実を」
これは、長谷川氏の言葉だった。どこか寂しげだ。
「……俺はもうすぐ死ぬ。その前に、思い出に浸ろうと思っているがね」
坂本氏は行方不明。
いや、本当は、ずっとそこにいたのではないだろうか。
当時の市役所職員が見つけたという腕の切れ端……正確には、切れたのではなく『溶けた』のではないか。
捨てられなかったんだ。自分の命ですら。
スムーズに思考が纏まる。異常なことが、閃きにも似て浮かんでくる。
呼吸が荒くなる。肺に腐臭がなだれ込む。
それを、ゴミたちはただ見下ろしている。
体の内側から、俺が書き換えられているような、奇妙な感覚がずっと残っている。