1年目
桜の蕾が少しずつ綻び始めた日の夜、アリスはリーゼロッテが寝静まったのを見計らって部屋を抜け出した。
通い慣れた抜け道を使い、寮の外へ出る。空に登った満月の光とと手に持った灯りを頼りにいつもの場所へ向かった。
明日卒業する例の王太子殿下に『卒業おめでとう』の一言でもかけてやろうと思ったのだ。
といっても直接会えるとは思っていない。約束もしていないのだ。交換日記のように使われているノートに書き込めれば、それで満足してすぐにでもベットに戻って夢の中だ。
そういう目論見だったのだが、残念ながら外れてしまった。交換日記に使っていたノートが無くなっていたのだ。
よく考えれば仕方のないことだ。卒業生たちはとうに寮を出る荷造りをしていたのだろう。
「ま、私に言われなくても、明日になれば嫌というほど聞かされるでしょうし……」
「それな。今から憂鬱だわ」
後ろから聞こえた声に驚いて肩を震わせた。
「レオン! 居たんですか?」
「まあな」
そこに。そう言ってレオナルドが指を刺したところは学生寮の外壁で、そんな所にいたのに気づかなかったのかとアリスは自分の目の節穴加減に自制の念を抱いた。
「では改めて、ご卒業おめでとうございます」
「どうも。……こんなに本心を曝け出して話した相手はアンタが初めてだったからな、まあ、寂しくはなるな」
珍しく神妙な顔をして別れの言葉を口にするレオナルドに対し、アリスは顔色ひとつ変えずに答えた。
「私はあんまり」
「なんだよ薄情なやつだな。俺とお前の仲だろうが!」
あからさまに不機嫌な顔をするレオナルド。腕を組んでアリスのことを睨め付ける。少し顔を動かした拍子に背中で一つに纏めてあった美しい銀髪がはらりと解けた。
「あらら」
「あー、跡がつかないように緩く結んでたからなあ」
残念ながら解けた髪紐は地面に落ちてしまい、二人がそれぞれ持って来ていた小さな灯りでは探せそうにない。
レオナルドは邪魔くさいとばかりに髪をかきあげ、片手で髪をまとめて掴んだ。邪魔にならなくなったからといってそれで良いはずもなく、程なくしてまた背中に垂れ流す。
そんな様子を見かねたアリスは、着ていた部屋着の首元で結んでいた細めのリボンを渡すことにした。無くなったところで着る分には問題はない。本当はちゃんとした髪紐の方が良いのだろうが、あいにく今は長く豊かな赤髪は自然のままに流れている状態だった。
「どうぞ」
「……ま、贅沢は言えないか。サンキュ」
「あ、やっぱり待ってください」
ふと思い直し、アリスは差し出した手を引っ込めた。受け取ろうとしたレオナルドの手が空を斬る。
「なんだよ」
責める口調でレオナルドが言った。手に持ったリボンを弄びながら、アリスが問いかける。
「私が結んで良いですか?」
「え、やだ」
まあまあそう言わずに。レオナルドの意見は聞かなかったことにして、アリスは彼の背後にまわった。
「うーわサラサラストレートじゃないですか。レオンのくせに」
「まったくアンタは……。生まれつき直毛なんだよ。血筋だな」
「ムカつきますね」
オルネイア王家の血筋である。この世で最も由緒ある血に対してムカつくとは。レオナルドは自分が身近な存在になりすぎたせいで、アリスの王家への敬慕の念が薄れつつあることに危機感を覚えた。
「それ、他のやつに言うなよ」
「わかってますよ。王太子殿下の髪に触ったなんて他の人には言えませんから」
(そう言うことじゃねぇんだけどな)
レオナルドの心配をよそに、楽しそうに銀糸の髪をいじるアリス。
「ポニーテールと三つ編み、どっちが良いですか?」
「どっちも嫌に決まってるだろ。バカか。もういい。自分でやる」
「ちょっとちょっと! まだ終わってませんよ」
「いだだだだ」
離れようとしたレオナルドの髪を掴み、それを阻止するアリス。あくまでもマイペースを貫くアリスにレオナルドはなすすべもなく従うしかなかった。
「俺が卒業したら多分もう話す機会は無いからな? 明日で今生の別れだぞ!? 最後くらいは俺を敬え」
せめてもの抵抗で口を動かす。
「うーん、そういう気にもなれないんですよね」
アリスはレオナルドの美しい銀糸を三つの束に分け、丁寧に編み出した。三つ編みに決めたらしい。髪を下に引っ張られレオナルドの頭が上を向く。
「前を向いていてください」
「おう……」
黙々と髪を編むアリス。レオナルドは諦観の気持ちでもう何も言うまいと押し黙り、その場にはしばらく沈黙が流れた。
それを打ち破ったのはアリスだった。
「私、二年後に卒業したら――」
「ちょっと待て」
レオナルドの硬い言葉がアリスの言葉を遮る。普段の彼からは想像もできない声質でアリスは少し驚く。
「誰か来る。俺は隠れるから上手く誤魔化してくれ」
「ええ? 誰かって、なんで分かるんですか? そもそも隠れるってどこに――」
レオナルドは混乱するアリスお構いなしに素早く動き出した。まだ結ばれていなかった三つ編みが解け、再び銀糸の髪が月に煌めく。
先ほどいたと言っていた寮の外壁に近づき、屈み込む。何か地面に置いていたようだ。
「よいしょ」
「まさかの隠れ身の術!?」
レオナルドが寮の外壁のそばで拾い上げたのは白い布だった。それを広げて自らの身を隠す。暗い月明かりの下では注意して見ないと分からないほどに外壁によく馴染んでいた。
そうこうしているうちにアリスの耳に他の誰かの足音のような音が届いた。本当に人が来たことにまず驚き、次にこの場所を知っている者が他にいることに驚く。
(いえ、居ますね。私たちの他に知っている可能性がある人)
レオナルドは前世の記憶で特例的に知っていた。アリスは祖父に教わった。実の孫に学生時代の秘密を教えると言って。
(だったらもう一人、あの人なら)
足音が近づく。それにつられてアリスの鼓動が少しずつ速くなっていった。
「あれ、誰か居るんですか?」
想像していた通りの優しい声。背後に隠れたレオナルドが息を呑んだ気がした。
「アリスさん!? どうしてここに」
「お祖父様に教えてもらって。テディさんもそうですよね?」
「はい。せっかく教えていただいたので、卒業前に来てみようと思って」
癖ある茶髪に、優しげな糸目、小さめな上背の青年は親しげにアリスに話しかけた。
「アリスさんはどなたかと待ち合わせですか? 兄としてはどのような方か教えていただきたいものです」
テディの発した言葉は何気ない、アリスを想っての言葉だろう。それはもちろん分かっているのだが、『兄』という言葉にアリスの心がざらついた。
「あなたは知らなくて良いことです」
自分の口から出た言葉が思いの外刺々しくてアリスは焦る。テディは人の機微に聡い方だ。こんな言い方をしたらアリスが胸の内に何かを抱えていることがバレてしまう。
「……やはり、怒っていますか」
「え?」
「当然ですよね。アリスさんの気持ちを踏み躙ってしまったんですから。いまだに兄と呼んでくれないのも、そういう事しょう?」
アリスの胸が大きく高鳴る。この気持ちはひた隠しにしてきたのだ。まさかバレているはずがない。そう言い聞かせた自分で自分を落ち着かせようとするが上手く行かない。
アリスは押し黙ってテディから目を逸らした。それを肯定と捉えたテディはアリスに一歩近づき、言葉を続けた。
「アリスさんがトイドール伯爵家の為に自らを犠牲にしようとした覚悟を、僕は踏み躙った。本当に申し訳ないと思っています」
「ああ、そういう……」
表には出さないよう、内心ほっと息をつくアリス。ただ、やはり心のざらつきは拭えない。
「その、私は自己犠牲をしようだなんて思ったことはないので、お気になさらないで下さい。ただ――」
ずっと思っていた事がある。本当の気持ちと一緒に隠し通そうと思っていたもう一つの思い。
「テディさんが本当に謝りたいのは、そういう事ですか?」
「えっ」
アリスの猫目が強気に光る。今度はしっかりとほとんど同じ高さにある糸目を見つめた。よく見ると瞼の奥で赤い輝きを放っているのが分かる。
「私の実の兄だと分かっていながら何も言ってくれなかったのはな何故ですか? 私が何も言わなかったらずっと黙っているつもりでしたか? ……ハンナさんと出会わなかったら、テディさんはどうしていましたか?」
「それは……」
「今更こんなことを蒸し返してごめんなさい。でも、あなた方が幸せそうにするたび、私は心が苦しくなるんです」
今度はテディが押し黙る番だった。さっきとは逆に、アリスが一歩歩みを寄せる。しかしそれは親しみの込められた動作ではなく、詰め寄ると言った方が正しいかもしれない。
「あなたは勝手です。自分の都合の良いように動いて、あまつさえ私を自由にしてあげたとでも思っているんじゃないですか?」
「そ、そんなことは!」
「あなたのいう通り、私は怒っているのでしょう。そして許すつもりもありません。兄と呼ぶつもりも。簡単に許しを乞わないでください」
アリスの鋭い眼光がテディを突き刺す。
「もういいですか。人と会うんです」
言外に早く立ち去れと言われ、テディは拳を握りしめた。何も言い返さないのは図星をつかれたからか。
「明日は笑って見送ります。その後は極力干渉しないで下さい」
「……分かりました」
小さく一言『おやすみなさい』と言い残し、テディは足早にその場を後にした。
足音が聞こえなくなるまで消えていった方角を見つめていたアリスは、レオナルドが隣に来たことに気づくまで時間がかかってしまった。
「何してるんです?」
「嫌悪感を表している」
アリスの見つめていた方向に向けて中指を突き立てていたレオナルドは、アリスに話しかけられたことでやめ時を見つけられたらしく、そっと手を下ろした。
「すごいな。よく言えたもんだ」
「ずっと思っていた事なので。いい機会でした」
アリスはまだテディが去っていった方向を見つめている。レオナルドはその横顔をチラリと見た。無表情だ。
だが、その瞳に膜が張っていることに気づいた。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃないです」
両手の甲で目を擦り、上を向く。満月は変わらずアリスとレオナルドを淡く照らしていた。
「こんなに許せないのに、まだ好きなんです。恋に身を焦がすほど馬鹿じゃないって、思ってたんですけど」
「そうか。……俺もだ」
辛いな。そのレオナルドの静かな言葉はアリスの胸に溶け、スッと染み込んでいった。
大きく深呼吸をする。大丈夫だ。一人でも分かってくれる人がいるならば、立ち直れる。
目に滲んだ涙を拭い、隣に立つレオナルドを見る。月に照らされた銀髪と紫の瞳は、神秘的な美しさを放っていた。
木の枝に二つ並んで吊るされていた灯りを持ち、アリスはレオナルドに向き合った。
「レオンに慰められるのは癪なのでもう部屋に戻ります」
「素直じゃねえなー」
そう言いつつレオナルドも自分の持ってきた灯りに手を伸ばす。
「では、お元気で」
一言別れの言葉を告げ、感傷に浸ることもなく帰路に着こうとしたアリスの背中にレオナルドが声を掛けた。
「ちょっと待て。さっき何か言い掛けてなかったか? 二年後にどうとか」
「ああ、それですか」
くるりと振り返り、少し赤くなった目でアリスが笑う。
「やっぱり言いません」
「なっなんだよそれ」
「二年後にわかるかもですね」
釈然としないレオナルドを置いてさっさと立ち去るアリス。
「振り返りもしねえし」
レオナルドは一抹どころではない寂しさを覚える。それなりに濃い付き合いだと思っていたのに、別れがあまりにも簡素すぎる。
しばらくいじけて地面に転がる小石を蹴ってみたりしたが、そんなことをしてもどうにもならないので大人しく部屋に戻った。
そして寝ようとベッドに入ったところで伝え忘れたことがあったと思い出す。
(『愛鍵』のシナリオは一年目の卒業式で終わる。つまりクラウスからのアプローチもだんだん少なくなる……かもしれない)
さっきの意趣返しとしてこのまま黙っておくのも悪くない。そう思ったが、アリスがクラウスを拒み続ける理由の一つにシナリオのことがあるのならば、教えないままでいるのはクラウスに悪い。彼はレオナルドにとって数少ない友人なのだ。
匿名でアリス宛に手紙を出すことにして、レオナルドは眠りについた。
翌日、オルネイア王国立シャラマイユ学園第七十三回卒業式が行われた。
リーゼロッテたちに見送られ、レオナルド、テディ、ハンナの三人は学園を旅立った。




