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「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま帰りました。こちらが例の方です」
屋敷で出迎えてくれた執事長にテディを押し付け、アリスはさっさと馴染みのない自室に引きこもった。
テディの顔も見たくないと言った風に振る舞うアリスに、リーゼロッテは眉をひそめる。アリスの鋭い目がさらに剣呑な雰囲気を帯び、世話をしようと集まった侍女たちを無意識に威嚇していた。
アリスはとても素直な少女だ。だが、自分の感情を全て表に出して周囲の空気を乱すなどといった子供じみた態度をとることは初めてである。
らしくない、とても。
何かあったのか――もちろんアリスにとって重大なことが起こったことはリーゼロッテも承知済みだが、兄が現れた事だけではない気がするのだ。
「アリス様、入りますわよ」
アリスの部屋の前でおろおろしている侍女を尻目に、リーゼロッテがドアをノックする。侯爵令嬢リーゼロッテ・マグロスに不機嫌な主人を会わせるわけにはいかないと侍女たちがますます慌てる中、リーゼロッテは躊躇なくドアを開けた。
リーゼロッテには馴染みのない、細かな意匠が凝らされた調度品の数々が品良く並べられた室内は、びっくりするほど生活感がなかった。アリスの私物は学院の寮の方がよっぽどたくさんある。
そんな部屋の中を見回し、リーゼロッテはアリスが見当たらない事に気付いた。不躾だとは思いつつ中から繋がっていた隣の寝室を覗くも、やはりアリスは居ない。
その代わり、よく似合っていた黄緑色のドレスとコルセットが脱ぎ捨ててあった。
「アリス? どこにいるの?」
何か嫌な予感がしたリーゼロッテが、居場所のわからないアリスに向かって呼びかける。もちろん、返事はない。
「アリス……?」
そういえば、アリスは旅行鞄を自ら持って自室に入っていった。使用人に傅かれることに慣れていないからだと思っていたが、まさか。
「あの、バカ娘……!」
開け放たれた窓と、そこから吊り下がるシーツをちぎって作られたと思わしきロープ。ベッドの脇のサイドテーブルの書き置き。
『少し頭を冷やしてきます。心配しないでください』
「頭を冷やすなら私のそばでしなさいよ!」
部屋の外で様子を伺っている侍女たちに聞こえる事も厭わず、リーゼロッテは大声で吠えた。
何よりも、友達に頼りにされなかったことが悔しかった。
トイドール家当主の政務室に、リーゼロッテ、テオドール、テディの三人が集められた。机に座っていた初老の男がにこやかに三人を迎える。
現トイドール家当主アズベルト・トイドールは、真っ赤に燃え盛る髪を丁寧に撫で付け、丸眼鏡の奥にあるエメラルドグリーンの目に小皺を作ってやってきた若者を歓迎した。
「そうですか、アリスが」
促されるままにソファーに座ったリーゼロッテは、まず最初にアリスのことを話した。孫娘が窓から家出をしたと聞いたアズベルトは、ソファーに体を沈め目元の優しげなシワをさらに深くして顎を撫でる。どうも焦っている様子はない。
さっきから牢の中の熊のように部屋をウロウロしているテディとは大違いである。
「こうしてはいられません! 当主様、僕はアリスさんを探してまいります!」
今にも部屋を飛び出そうとするテディを、テオドールが長い手足を活かして通せんぼしていた。
「落ち着け、テディ。儂の地位を継ごうというのならば、どんな時も焦りを表に出してはいかん。足元を掬われるぞ」
「しかし!」
「アリスなら心配はいらん。つい最近まで市井に身を置いていた子だ、そこら辺の貴族令嬢とは生きる力が違う」
そう言った後に『リーゼロッテ殿はどうもそこら辺の貴族令嬢とは言えないようですがな』と付け加えるアズベルトは、さすが無駄に年はくっていないということか。リーゼロッテははっきりとした返事を避け、曖昧に微笑み返すのにとどめた。
「テオドール殿、リーゼロッテ殿も、せっかくいらっしゃっていただいたのにこの様な事になってしまい、申し訳ありませんな。アリスはいずれ自ら帰ってくるでしょう。お気になさらず」
「そうおっしゃいますが、アリス様はまだ15の少女です。どんな危険があるとも分からないのですから、心配になってしまいますわ」
テディに変わって食い下がったリーゼロッテに、アズベルトはニッコリと微笑み返した。
「正直なところ、儂は何も言えないのです。幼い頃に似たような事をした覚えがあるものですから」
「似たような事……と言うと」
テオドールが意味深な目でテディを見やる。対するテディは気まずそうに頭をかいた。にへらとだらしのない笑みを浮かべてなにやら誤魔化そうとしているようだが、テオドールは容赦なく言い放つ。
「こいつ……アリスの兄であるテディも、従者として働き出す前は屋敷から黙って抜け出すことが多々ありました。やれ野良猫の鳴き声がしたからだとか、虹が出ていたからとか、訳のわからない理由で」
「もう昔の話ですよ」
そう言って軽く流そうとするテディの頰を、冷たい汗が伝った。この話をするときのテオドールは、決まってテディへの当たりが強くなる。当時まだ幼かったテオドールがどれだけ苦労してテディを探し出していたのか、思い出してしまうらしい。
「それはそれは、やはり今代でもトイドール家の悪癖は消えないようですな」
テディの幼い頃の話を聞き、アズベルトは機嫌よく顎を撫でた。悪癖と言う割には咎める様子は微塵もない。むしろ喜ばしい事とすら思っているようだ。
「トイドール家の人間は、少々変わったところがありましてな。放浪癖といいますか、誰にも何も言わずにふらっと外出してしまうのですよ。どうやら儂の孫たちにもしっかりと受け継がれたようで」
祖先が常に旅をしていた民族だと言う説もありますが、果たして本当かどうか。そんな事を言いながら、アズベルトはすこぶる機嫌良くテディを見つめた。目を細めたその姿は、どこかテディと似ていると思うのは、偏見が混じっているからだろうか。リーゼロッテの目から見て、二人はやはり血の繋がった祖父と孫だった。
「テディ、今後について話したいことがある。日が沈んで涼しくなってから、庭で散歩でもしようか」
「はい」
アズベルトがこの場をお開きにしようとテディに話しかける。その後にリーゼロッテとテオドールに向き合い、丁寧に頭を下げた。
「孫たちと仲良くしてやってください。儂は、この子もアリスのことも、完璧に理解してあげることはできないでしょうから。どうか、今後とも」
「もちろんですわ」
「俺の方からお願いしたいくらいです」
自分よりも一回りも二回りも年下の相手に礼儀を尽くすことができるアズベルトに、リーゼロッテは好感を覚えた。
と、同時に自分への不甲斐なさを感じる。
――私はアリスのこと、どれくらい理解できているって言うのかしら。
少なくとも、アリスがリーゼロッテに不安や愚痴と言ったネガティブな感情をこぼしたことはないのだ。
「アリスのことは、彼女が満足できるまで自由にさせてあげようと思っとります。アリスのためにわざわざいらして下さったリーゼロッテ殿には申し訳ありませんが」
「いえ、そんな事ありませんわ。せっかくですから少しこの土地を見て回りたいのですが、よろしいでしょうか?」
「もちろん」
領内を自由に行動する事を許してもらい、リーゼロッテとテオドールは執務室を後にした。
「……友達って、難しいのね」
「ん?」
隣を歩くテオドールにも聞こえないくらい小さな声で、リーゼロッテがつぶやく。
アリスはリーゼロッテにとって、初めてできた本当の姿で付き合える友達だ。だが、アリスにとっては? アリスの本音を、リーゼロッテは聞いたことがあるのだろうか。
侍女に客人用の部屋に案内されながら、リーゼロッテは猫かぶりの微笑みも忘れて考え込んでしまった。




