5.蘇る異変
王都ジェサからホーネットの巣があった谷まで、休憩も含めて徒歩で四時間足らず。だがそれは道中が順調だった場合であり、魔族の襲撃に遭えば退けるのに時間を食われるため、外界での移動は見込み通りにいく方が珍しい。
ラウル達が辿ってきてこれから引き返すリタ街道は、リタ峡谷地帯を横切ってジェサと最寄りの町トラルシンを繋ぐもの。古くから人族が往来し物資の運搬にも使われているが、ジェサとトラルシンを隔てる外界の探索が進み、リタ街道の他にも幾らかの道が開拓された現在、ここ一つ通行出来なくなっても差し当たり不便はない。しかしその環境がホーネットの巣の放置に繋がり、あれほど巨大化させる原因ともなったのである。
国から注意喚起がされているので、リタ街道の利用者達は別経路に流れている。だからここで今ラウル達と出会う者があるとしたら、それは皆、魔族。
かくのごとき次第で、彼等は遭遇した魔族を振り切ろうと逃げている真っ最中だった。
「しつけえな、何処までついてくんだよ!」
峡谷地帯を抜けるまでは、狭まったり開けたりを繰り返す谷間の道のり。追っ手のワームはその土中をあたかも水中であるかのように泳ぎ回り、浮上してきては何度かわされても土砂の飛沫を散らして頭側の先端を突き出し、地表の獲物を円筒状の口蓋に落とし込もうとする。口はちょうど人族を縦に丸呑み出来る大変ありがたくない大きさと分かるが、全長は部分的にしか地上へ姿を現さないため、知りようがない。
ぶよついた体表をくねらせまた土に潜り、ラウル達を狙い続ける。
「何処までも追い掛けたくなるほど俺達が魅力的なんだろうよ、餌としてだが!」
「ワームなんて餌になるのも餌にするのも御免だわ、倒しても回収しないでよね! 絶っ対! だからね!」
手足のない魔族だけはどうしても苦手で受け付けないシャラが、涙目でしんがりのレスターに激しく念を押す。ワームはグロテスクな見た目で敬遠されがちだが、実は人族にとって優れた栄養の供給源。柔らかくて味も良く、肉片を持ち帰れば結構な値で売れる。しかしそれをしようものなら、レスターは彼女から即刻別れを告げられる勢いである。
ちなみに、彼等にとってはさして難儀な敵でないにも関わらず応戦せず逃走する事となったのも、シャラが相手するのを全力で拒否したからだ。
「だとよ、良かったなラウル! 後の回収考えずにやれるぞ!」
「俺かよ!」
ニーナを両手で抱いて走っているのに振って寄越され、仕方なしに跳躍したラウルは横の岩壁を蹴って斜め上へ軽やかに飛び、向かいの崖上に着地する。
「っと……?」
その足がふらつき、転びかけたのを堪える。後、ゆっくり片膝を付いて草むしたそこにニーナを下ろすと、ラウルは眉間を押さえ、しばし俯いたままになる。
「ラウル?」
不安げに呼ばれて、彼は顔を上げる。
「……ん、何でもない。もう少しで帰れるからな、ここに居ろよ」
言い置いて身を翻す。すぐ飛び降りた空中で、続いて来ていたシャラとレスターとすれ違う。
「頼んだぞ!」
「そっちもな!」
ワーム撃退と引き換えにニーナの保護を頼み、ラウルは背負う剣の柄に手をかける。彼の落下点となる地面が盛り上がり、そこから予測通り飛び出したワームめがけて振り下ろされる大剣。
自分の身の代わりに大口へ食らわせた斬撃は、しかしワームを断ちはしなかった。大口から噴き出て零れ落ちる、粉砕された岩石の片。ワームは咥えたり飲み込んで腹に溜めたりした岩や石を飛ばしてくる事がある。ラウルの剣は、その口が咥えていた大岩に止められていた。
ニーナ達三人は頭を揃え、高所からそれを見ていた。レスターが訝しむ。
「……おかしいな、いつもならあの一撃で、資源の回収不能が決まっているところだが」
これまでラウルと組んで数多くの仕事をこなしてきた彼とシャラは、普段のラウルであれば大岩はおろか大地ごと、ワームを叩っ斬れると知っている。ニーナは、繋いでいるシャラの手に少し力がこもるのを感じた。
最もおかしいと思っていたのは他でもない、ラウル自身。着地してまたふらついたのは、ワームの浮沈ですっかり波打った足元のせいではない。急激に襲ってきた悪寒で注意力が低下し、次に仕掛けられる攻撃への反応が鈍った。
後方より突き出たワームの尾側が、ラウルを殴打せんと横に大きく振られた。彼は前へ飛び退いたが宙で先端に足を引っ掛けられて体勢を崩し、のめって地面に転がる。
その間に、尾側に突き刺さったレスターの矢が爆ぜて肉片を飛び散らせ、ワームは仰け反ってのたうつ。
「やっぱり変よ!」
レスターの横からシャラが飛び降り、そこにいる敵が死ぬほど忌み嫌う存在である事など打ち忘れて、明らかに異変をきたしているラウルを助けに向かう。
ラウルはどうにか立ち上がるも、震えが止まらず、両手で持つ愛剣はまるで彼を裏切って地の側についたかと疑うほど重く、切先を上げさせない。脳髄と眼球を掻き回されるような眩暈と、内臓を捻り上げられるような吐き気。過去に覚えある諸症状で、ラウルは察する。
――ああ、これは――。
しかし近づいてきている筈のシャラの呼び声は遠のいていき、処置してもらうのに必要となる原因を彼女に伝える事は、叶わなかった。
ワームがラウルに向けて口から撃ち出した散弾は、皮肉にも彼がワームを倒そうとして砕き、飲み込ませてしまった岩石片。最後は剣を捨てて両腕で頭と胸を庇い、岩石片が自分に到達する瞬間、それらに働いている力の法則を可能な限り無効化して、受ける衝撃を軽減するのがせいぜいだった。
放射状に散開した攻撃を全身に浴び、その威力を殺いでもラウルの鎧は布切れのように拠れ、破れ、穴が開いた。彼は正面から弾き飛ばされる形で仰向けに倒れ込み、動かなくなる。
同時に、ワームの首なき首が風纏う剣にはねられ、空高く舞う。次いで胴から切り離されたそれの口は数本の矢を飲まされ、内側からの爆砕で粉々になった。残された胴は力を失くして崩れ落ち、沼に沈むごとく土中へ没していく。
「ラウルッ……!」
援護が間に合わず、シャラは半分悲鳴の声を上げてラウルに駆け寄った。彼は至るところの傷口から血を溢れさせていて、いくら呼び掛けても全く反応を示さない。
レスターとニーナも急いで下りてきて寄る。シャラとレスターが手当てのためにラウルの防具を手早く外していく側で、ニーナはぼうっと立ち尽くしていた。ずたぼろになっている彼の姿が、目の前にあっても信じられなかった。ホーネット討伐の時にはあれほど強かったのに、と。
「ニーナちゃんの持ってる薬も出してくれる?」
シャラに頼まれて我に返ったニーナは、結んで繋ぎ直されたポーチの紐を肩から外し、中身全部をぶっちゃけて彼女の横に広げた。シャラはそこから使いかけの治癒薬を選び取る。
特に出血の多い創傷は、抉られている左の脇腹と貫通している右肩口。そこに手持ちの治癒薬の殆どを使ったが、それでもレスターが傷口の圧迫に使っている端切れには、血が染み続ける。
「まずいな、薬では回復が追いつかないのか」
この世界で作られる薬の多くは、あくまで対象の身体が生来持つ回復力に作用してそれを増幅させるもので、治癒薬もこれに同じ。よってある程度の開放創なら速やかに塞がって血も止まるが、作用する組織自体の欠損が甚だしい場合には、その効果を得にくい。
「それならもう白魔法でないと……」
困り果てたシャラの言葉で、ニーナはココリの話を思い出す。
――薬では間に合わない深い傷を負ってしまう事だって決して珍しくない。そういった時に備えて、冒険の仕事では白魔法を使える仲間がいるに越した事はないんだよ。
その事態に初めて直面し、彼女は身を震わせた。ラウルが動かず傷まみれで鮮血を流し続けている事の怖さと、白魔法が使えず彼を助けられない自分自身への憤りで。
レスターは多少ながらラウルの出血が減ってきたのを確認して自分の携帯マントを裂き、シャラと手分けして目立った傷を縛る。
「連れ帰って、イーリスに任せるしかないな」
「この状態で運んでも大丈夫かしら、こうなった元の変調も、原因が分からないし……」
「処置が遅れる方が危険だろう。街道が封鎖されていなければ通り掛かる者の助けを期待出来るが、それも無理ときているし」
言って下ろした弓と矢筒をシャラに預け、レスターはラウルを背負い込む。彼の装備一式は、一旦置いて行かざるを得なかった。
ラウルが負傷し、レスターはその彼を背負っていて、危急の際に皆を守って戦えるのはシャラ一人となる。
レスターの背でぐったりとしているラウルを見上げながら、ニーナは無意識にシャラの手を握る。シャラはそれをぎゅっと握り返した。
「ここから少し早く歩く事になるけど、街へ帰り着くまでしっかりついて来てね。それがラウルを助ける事になるから」
自分に出来る唯一の事を示されて、ニーナは今にも崩れ落ちそうだった心と膝を強く持ち直す。
まだ続く峡谷地帯の道に、傾いた陽の光は徐々に射し込まなくなっていった。