4.隙を突いたもの
ラウル達も谷を出る。谷より続く、川床だった道は湾曲して右手へ逸れ、その縁の傾斜を上がった正面は開けた平原になっている。ラウルとシャラはそこを駆けて、女王の一団を追う。
途中で立ち止まったレスターが、背の筒から矢を抜く。
虫相手ながら抱く敬服の念。自ら焼かれて灰を散らし、女王を逃がすための目くらましになった者達。己だけなら逃げ切れるものを、女王を見捨てず身を呈して守り抜こうとしている者達を思って。
「王に忠誠を誓う騎士なら、情けをかけたくなるところかも知れんな――」
つがえられる矢と、引き絞られる弦。
「――だがすまない、生憎俺達は騎士でも何でもない、野良の冒険者でな!」
弦が弾き戻る。言葉と共に放たれた矢は燃え盛る火弾となり、女王を囲って支えるホーネットに命中してこれを焼く。
支えを失った女王の巨体が、あえなく地に落ちる。辛うじて火炎を免れたホーネット達はいよいよ追い詰められ、羽音で鼓舞し合いながらラウル達に決死の突撃をする。それも難なく薙ぎ払われて、ホーネット側に残ったのは、もう手負いの女王一匹のみ。
女王は落下した草むらで、のそりと身を起こした。複眼で迫り来るラウル達を捉え、動く側の羽で空気を振動させて威嚇する。
「ラウル気をつけて、羽が破れて飛べないだけで、攻撃する力は残ってる」
「おうよ!」
注意を確認し合った直後、女王が口から飛び散らせた多量の粘液。ラウルとシャラは別方向に分かれて飛び、避ける。避けられた粘液は下に掛かり、そこ一帯の草は煙を噴いて滅した。
二人は相手に的を絞らせない狙いで両側より蛇行して距離を詰め、ラウルは頭部に、シャラは胸部にそれぞれ狙いを定め、剣で突きを仕掛ける。
しかし女王は六本の脚で地を蹴って前方に高く跳ね、彼等の攻撃をかわした。宙で背を丸め、突き出した尻部の黒い大針から更に針を、斜め下方にいる二人めがけて無数に射出する。
「あぶねっ!」
ラウル達が飛び退いた直後の場所が、針山と化す。受け身を取って即座に起き上がり、敵に向き直る。着地した女王を見て、二人はすぐに大針の変化に気付いた。
「……随分短くなってんな」
「あれそのものを削いで飛ばした訳ね。残りでもう一回来そう」
彼等の話す間に、降ってきたレスターの火矢が女王の背に二本、三本と突き刺さる。だがそこの外皮は通常のホーネットの比でない硬さで、貫通には至らない。燃え尽きた矢をぼろぼろと落とし、女王は再度跳ね上がる。
それまで、ニーナはずっと言い付けを守ってレスターの側に居た。『隙』は、彼女を守るレスターがホーネットの次の攻撃に対し、牽制の矢を射つべく構えた時に出来た。
ラウル達が来る前から、平原には一体のコボルトが居た。コボルトは獣型の見目ながら二足歩行する、小柄な魔族。騒ぎを恐れて茂みにじっと身を隠していたが、様子を伺う中で、自分よりも弱そうなニーナが下げている赤いポーチに目をつけた。機を見計らって茂みから飛び出し、爪で紐を絶ってポーチを引ったくる。彼等は食料目当てに、よくこうして冒険者達の荷物を盗む事で知られている。
ニーナは驚き、思わず走って逃げるコボルトを追い掛けた。
「返せえっ!」
レスターは自分の元からみるみる離れていく彼女に気づき、牽制を中断してしまう。
「ニーナ! 駄目だ戻れ!」
ラウルも、思わぬ近くから聞こえたニーナの声にはっとする。平原を過ぎっていく者達を認識した女王は、逃げる獲物を追う習性が働き、針を射出する直前で狙いをそちらに変えた。
ラウルは血相を変えて大剣を放り出し、ニーナに向かって駆けた。半ばで跳んで手を伸ばし、捕まえた彼女を抱き込むと身を反転させ、仰向けになって鎧の背が地面にすり下ろされそうな勢いで滑り込む。その跡を追って次々と撃ち込まれていく針。
間一髪、止まって投げ出されたラウルの足先へ僅か届かないところまで長く築かれた、二箇所目の針山。標的とならなかったシャラが女王の無防備な腹側に斬撃を加えて行動を妨害し、レスターの疾風の矢が攻撃全体を押し戻していなければ、追撃の針は、確実にラウルとニーナに届いていた。
「いってえ……。ニーナ、大丈夫か」
何処をどう打ったかそこら中痛むのを堪えて上体を起こし、腕の中の彼女を確認する。
「……うん」
レスターが駆け寄り、ふたりの無事に心底安堵して詫びる。
「すまない、俺の注意不足だった」
ニーナのポーチを奪って逃げたコボルトは、針山の外縁で串刺しの骸を晒していた。それを見て、ニーナは皆が助けてくれなければ自分がああなっていた事を思い知り、慄く。
女王の動きから目を離さないようにして、シャラも一旦退いて来た。
「ラウル、動ける?」
「ああ問題ねえ、行くぞ!」
ニーナを再びレスターに託したラウルは、立ち上がって踏み出した際、首の後ろに痛みが走ってほんの少し顔をしかめた。そこに触れた指に血が付く。今しがた擦ったか切ったかしたであろう傷に舌打ちし、シャラと共にまた走った。途中に放ってあった愛剣を拾って携え、ニーナを危険な目に遭わせた女王に猛然と迫る。
背と腹に負った深い傷から体液を流し続け、最早その場から動けない女王は、自分の体液に浸かってもがきながら手当たり次第に粘液を飛ばして、彼等を近づかせまいと抵抗する。
シャラは風の力を借りる通例の魔法で身を軽くし、逆にラウルは風と地の力を殺ぐ異例の術で彼女と同様の状態を作り出して、地面を跳ね回り、宙に身を躍らせ、粘液の飛沫を悉く避ける。
そうして彼等はもう一度二手に分かれ、左右から止めを刺しに飛び掛かった。外皮の硬度はもう把握出来ているので、シャラはそれが無い胸部と腹部との節を狙いすまし、炎の剣を閃かせる。一方ラウルは、敵の硬さなど全くお構いなし。始めから狙っていた頭部に、振りかぶった剣を力一杯叩き落とす。胴を切断され、頭を粉砕されて、女王はようやく大地に沈んだ。
辺りに籠もった戦闘の熱を、そよ風がさらさらと冷ましていく。
大剣を引き上げて、ラウルはやおら立ち上がる。女王の死骸を仰ぎ見、一つ息を吐いた。
「……やれやれだな。これはこのままにして、帰ったら国に処理要請すっか」
シャラも剣を腰の鞘に収めて頷く。
「胴体はそこそこ形を留めているから、素材を沢山切り出せそうだものね。この分で報酬を上乗せしてもらえる」
弓を背負ってニーナを抱き上げたレスターも、彼等の元へやって来る。
「ああ、今回の収穫は上々じゃないか。いつもは誰かが木っ端微塵にして、回収出来なくする事が多いからな」
その言葉に刺された剣士は、思い当たる胸を押さえた。
人族は、仕留めた魔族の多くを資源として活用している。食料、装備品の材料、薬の原料等、用途は多岐にわたる。
「血が出てる!」
ラウルを見たニーナが慌てた声を上げ、レスターの腕から飛び降りる。
「ん? ……ああ、あちこち擦り剥いたな。大した事ねえよ」
ラウルの鎧は機動性を確保するために防御面積を抑えられていて、分割されたパーツ同士の継ぎ目の隙間が広い。そこから覗く布服のところどころが破けて、下の皮膚から血が滲んでいた。
ニーナは、コボルトが死んで落とした事で取り戻せたポーチを手にしている。そこから円く平たい容器を取り出し、蓋を開けた。イーリスに持たされた傷の治癒薬である。
「おい、別にいいって。擦り傷なんかにそんないい薬使ったら勿体な――」
「塗る!」
ニーナは察していた。彼のこれらの傷は、自分が助けられた時に地面で擦って出来てしまったものだと。万が一のためにとイーリスに薬を詰められるだけ詰められたポーチを一旦下に置き、目に付く患部全てに黙々と薬を塗り込んでいく。薬は傷を浄化して回復促進し、直ちに塞ぐ。
手当ての間、シャラとレスターは真剣なニーナと照れ臭そうなラウルを、微笑ましげに見ていた。
「……ニーナ、ありがとな」
塗り終えてほっとし、薬の蓋を閉めた彼女は、ラウルの眼差しの優しさに顔を赤らめる。急いでポーチを拾い上げて彼に背を向け、薬を仕舞う仕草で恥ずかしさをごまかした。
レスターが鞄から、青く澄む液体の入った小瓶を取り出す。
「後は追加でこれを飲んでおくか」
「そうね。敵の数が多かったし、念のために」
彼等が言うのは、瘴気あたりの薬。魔力という思念で形成された魂が、死によって身体から抜け出た時、魔族のそれは状況次第で瘴気に変わる。特定の種以外ならば量は微々たるものだが、此度は増殖に増殖を重ねたホーネットを全滅させたので、知らず取り込んでしまった瘴気が体内に蓄積している可能性があった。
また、瘴気を糧とする魔族の身体の一部が人族にとって有害となっている場合もあり、ホーネットの女王の針はこれに該当する。通常のホーネットの針はただの鋭利な武器だが、女王の針は濃縮した瘴気で生成された毒塊。そういった部位を持つ敵を倒した時、それの混じる粉塵等を吸ってしまうのも、瘴気の体内蓄積の元になる。
だから今レスターが手にしている『瘴気あたりの薬』は、冒険の仕事に欠かせない。この薬に瘴気自体を打ち消す効力はないが、人族の身体は取り込んでしまった瘴気を体外へ排出しようとする働きを備えているので、それを助け、溜まった瘴気が抜けるまでの間に現れる諸症状を緩和したり予防したりする目的で、使用されているのである。
ラウルも自分の腰の鞄から同じ薬を取り出して、ぼやく。
「しかしこれ、もう少し美味くならねえもんかな。一本ならともかく、出がけに予防で五本空けたら、渋過ぎて舌が括られたみたいになってよ」
「そんなに飲んで来たの? でも、ラウルは仕方ないか……。イーリスに、フルーツ味付きの開発でもお願いする?」
笑って、シャラはレスターに預けていた自分の薬を受け取る。瘴気に対する身の防護は、多少なら風魔法を纏う事で行えるが、魔法を使えないラウルはそれが出来ないので、誰よりも瘴気あたりを起こすリスクが高いのだった。
そんな会話をしつつ揃って小瓶を手にした彼等を、ニーナはじっと見上げていた。
「あ、ニーナちゃんにも――」
言ってから、シャラは気づく。レスターも同じ懸念を持った。
「ニーナにこの薬は不味いだろう。いや、不味いというのは味の話でなくて……」
瘴気あたりの薬は当然、瘴気が毒となる人族専用。普通に考えて魔族のニーナには不要なものどころか、逆に、飲んだら害になるかも知れなかった。
自分だけ一緒に飲める薬が無く、皆と異なる存在である自覚がまだ薄いニーナはしゅんとなる。
が、伏せられたその目の前についと差し出された小瓶。中の液体は青くなく赤いが、瓶は瘴気あたりの薬と同じもの。顔を上げると、身を屈めているラウルがいた。
「ニーナの分。来る前に、サージャに頼んで作ってもらったんだ。ベリーシロップを朝露に溶いたもんだと」
シャラとレスターは、ラウルの用意の良さに感心する。
「わあ、いいなあ! 素敵じゃない」
「そっちのは美味そうだ。良かったなニーナ」
ニーナはびっくりした後、開けてもらったそれを両手で大事に受け取り、口をつける。
「いつもの、甘いのだ!」
溶かれたベリーシロップは、カレンスイレンのパフェに使われているのと同じもの。サージャの水の魔法で磨かれた朝露が、シロップの甘みを雑味なく引き立てている。この薬瓶にニーナの好きなものを、とのラウルの依頼を受けて作られた、特製の飲料だった。
――人族でなく魔族だという自覚を持たせる事が、今後も人族と共存していかなければならない彼女のためには必要だと分かっている。でもそんなものは、殊更に言って聞かせなくても追い追い身に付く。一番大切なのは、その過程にある彼女が周囲と自分との『違い』に、傷つけられてしまわないようにする事――。
彼女を守る事にかけて、ラウルがぶれる事はない。ニーナの笑顔が、皆の疲れを癒す何よりの薬となった。
「さ、飲んだら帰ろうぜ。日が暮れると面倒だからな」
平原を照らす太陽は、真南を少し過ぎたところだった。
この時、彼は気づいていなかった。実はもう一つ、戦闘の最中で『隙を突いたもの』があった事を。
それが見過ごされて残り、これから彼等の着く帰路に、不穏な影を落とす。