8.謎は氷解せず
一方、ラウルはニーナを捜して先の湖畔に来ていた。
「ニーナ、何処だニーナ!」
彼女を呼ぶ声は、空しく湖面を滑っていく。
「ここにも居ねえか……」
かつてニーナに教えた場所なので、ここへ来れば会える気がした。実際その見当は正しく、しばらく前まで彼女はここに居たのだが、入れ違いになったのだった。
ランタンを掲げ、周辺を見て回る。急いで出て来た街用の軽装備で、皮ブーツの底が薄く、踏む草の感触がいつもよりも足裏に伝わってくる。
その足が、不意に止まった。
湖畔に面した木々の奥から、何かが迫る気配。ラウルはそちらへ身体を向け、片手で大剣を外す。彼の剣は両手持ちの仕様だが、反対の手は今ランタンで塞がっているため、何かに襲われれば片手で振るわざるを得ない。
枝をへし折り、草を抉って猛然と駆けて来たそれは、木々の間隙を埋め尽くす闇からラウルの前へと躍り出た。ランタンの明かりで暴かれる全容。彼は目を見張った。
「オルトロスッ……」
漆黒の炎と見紛う毛並みに、鋭く光る眼。最大の特徴である双頭は、しかし片方が失われている。一度獲物を逃したオルトロスは酷く荒ぶっていて、次に見つけた獲物に激情の一切を向ける。
オルトロスが熱くなればなる程、取り巻く空気は冷えていく。四足の元に霜が降り、周囲には氷の結晶が漂う。牙を剥いていた口が開き、放たれた咆哮の吹雪をラウルが跳ねて回避すると、そこの一帯は瞬く間に凍結した。
敵対心の凄まじさと魔導力の高さから、そのオルトロスが本物である事の疑いようがなくなる。着地したラウルは思わず叫ぶ。
「何だってこんなもんがここに居るんだよ!」
オルトロスは、外界でも殊更危険な『深層』と呼ばれる地帯の更に奥、人族には決して立ち入れない『最深層』の高濃度な瘴気より発生する魔族。瘴気に飢え易く深層を離れない筈のそれと、このような場所で出くわすなど有り得ない事だった。
宙に浮く氷の結晶が大きく育ち、雹となっては次々とラウルめがけて飛ぶ。大剣を盾にしつつ、及ぶ衝撃を特異な術でもって殺ぎ、ラウルはオルトロスとの間合いを詰める。
残っている首を狙いすまし、大剣が閃く。オルトロスは後方に退きながら吐き出した氷塊を、身代わりとして砕かせた。両手でなら大剣に十分な威力を発揮させ、氷塊もろとも衝撃波で相手の首を飛ばせていたところ。ラウルは舌打ちして、一旦離れる。
片手のランタンをどうにかしたくても、それがなければ夜目の利かないラウルだけがほぼ何も見えなくなり、致命的な不利を被る状況。魔法を使えないがために他所に別の光源を作り出す方法もなく、手放す訳にはいかない。
その灯で照らして尚、オルトロスの黒い肢体は夜の闇に馴染んで狙いを付けにくく、加えて雹が絶え間なく飛来して、ラウルは苦慮する。
魔導力の連続使用による消耗の感覚を、オルトロスは飢餓感と捉えた。攻撃に転じる機会を窺って逃げ回るラウルに焦らされ、喰らい付きたい衝動が高まる。それを反映し、ラウルを襲い続ける雹と度々吐出される氷塊は肉を裂く牙の如く、鋭利に研ぎ澄まされていく。
二度目の、猛々しく吹雪く咆哮。避けたラウルの後方で、湖が一面、厚い氷に覆われる。場の気温自体も下がってきているのを軽装の身で感じ、戦闘をこれ以上長引かせる事に危機感を強めたラウルは、数が増える一方の雹の弾幕を押し切って前へ出ようとした。
しかし踏み込んだ足を、迂闊にも暗くて確認出来なかった地面の凍結で滑らせてしまう。転倒は免れたものの、体制を崩して一度膝を付く。
立つまでの隙を逃さず、オルトロスはラウルに飛び掛かった。彼は大剣を逆手に持ち替えて腕を剣身にあてがい、再び盾代わりにする。防いだ体当たりも当然緩衝したが、やはり凍った足場では踏み留まれずに今度こそ後方へ転倒し、勢い余ってそこから湖の氷上まで一直線に滑らされていった。
その間に、月をも震わすほど高く響き渡った遠吠え。
しばれる氷上で仰向け状態のラウルは、降り注いでくるものに息を呑んだ。天が割れ落ちたかとも思える、大量の氷の切片。直接は当たらず済んだが、首の横に、両足の間に、両腕の脇にと突き刺さったそれらに、彼は寝返りからの起き上がりをすっかり妨害される。
張り付けになったも同然のラウルに、再度飛び掛かるオルトロス。宙で体の表面を覆う毛がみるみる凍って厚みを増し、硬く刺々しい鎧を纏ったような姿へと変わる。飛び込む先の氷片をそれで砕き、間隙の獲物だけを、丸齧りするために。
「くそっ……!」
身動きが取れない中、ラウルは辛うじて離さずにある右手の大剣を何とか突き立てようと足掻く。間に合うか間に合わないかは紙一重、という局面だった。けれどもその結果は、誰も見ずに終わる。
ラウルに迫ったオルトロスは彼の目前で、側方から突如飛来した燃え盛る刃の直撃を食らった。弾き飛ばされ、熱で水蒸気を噴く巨体は氷上に打ち付けられて、そこに刺さる氷片の群れを砕き散らしながら滑っていく。
オルトロスを攻撃するのと同時に、その刃はラウルの動きを封じる氷片をも薙ぎ、溶かしていた。 起き上がった彼は、足場の水の魔力を一部絶つ事で摩擦抵抗の低さを自分とは無縁にし、蹴上がって畔へと復帰する。
気づけば辺りに数個、闇夜を払う火が浮いていた。物理媒体なしで焚かれた眩い火球。それらの魔法を駆使している主は、ラウルの見返った先、畔の傾斜の上に居た。鎧の空色を、今は携える剣の赤き火で暁に染めている。ラウルを助けた攻撃も、彼が放ったものだった。
「……ジーク」
青の騎士団長が何故いま、一人でここに来ているのか。ジークもラウルを見たが、すぐにオルトロスの方へ視線を戻し、話している暇はないと態度で示す。
オルトロスは身を起こした。攻撃を直に受けた箇所のみ纏う氷が僅かに溶けただけで、ダメージを負っている様子はない。ラウルを見つけるや否や駆け出す血気が、それを証明する。
「……頑丈なのだな」
呟いたジークは剣の火を、新たに宿らせた水で鎮める。その澄んだ刃が垂直に振り上げられると、だだ広い湖に張っていた厚い氷が全面、下から突き上げた水に割られて高々と散った。上に居たオルトロスも吹き飛び、畔へ打ち上げられる。
剣身を包んで揺らめかせていた水は、次に剣が水平に振られた瞬間、非情に凍て付く。その号令に従い、宙に舞っていた破片が一斉にオルトロスへと切っ先を向け、弾き飛んだ。
集中攻撃をもろに浴び、更に周囲を無数の氷片で固められて、オルトロスはそこに閉じ込められた形となる。
ただ身体を貫きに掛かった破片は、悉く弾かれていた。獲物に喰らい付きたいという直接攻撃への強い欲求から魔導力は全て防御に回された結果の、氷の鎧に。
最初から首が片方落ちている以外には殆ど無傷であり、氷牢の中で憎悪と鎧を一段と強化させるオルトロス。予測を上回る硬度にやや手こずり、ジークは仕留め方を思案する。
そんな彼の視界を、跳ね上がって過ぎた人影。
場の照明が確保されてランタンを手放せたラウルが高く飛び、その頂点にて両手で持った大剣を、やおら振りかぶる。
しっかりとオルトロスに狙いを定めて叩き落された剣の一撃は、外側の氷で出来た牢と鎧の硬さを物ともせず、全ていっしょくたに粉砕した。凍れる残骸は光をはねて飛散し、湖に落ちて幾つも水飛沫を上げる。
湖面の月は、しばし戦闘の余波に動揺し続けていた。
やがてそれが落ち着きを取り戻す頃、ジークは剣を腰の鞘に収め、氷の瓦礫が転がるばかりとなった湖の縁まで下った。離れた位置のランタンを取りに駆け戻ったラウルも、そこへ帰って来る。
「助けられたな、ありがとよ」
ラウルはジークに礼を述べた。照らす火の下、彼の無事な様を視認してのちジークは問う。
「何故、オルトロスなどがここに居た?」
疲れた顔で、ラウルは返す。
「それはこっちが聞きてえよ……。いきなり出くわして戦う羽目になったんだ。あんたこそ、何でここに居るんだよ」
「……異変を、感知したのでな」
「異変って、あのオルトロスの出現か?」
ラウルに思い当たるのはそれしかなかったが、ジークの考えからは外れていた。
「いや……。ただ、関係は否定出来ない」
「どういうこったよ?」
「この森林一帯には、瘴気の流れを監視するために私が『水の囲』を張り巡らせている。対処を要する濃度の瘴気が流入して触れれば、位置と広がる速度が逐次私に伝わるものだ。その囲の糸がここ付近で一箇所、前触れなく切れた。だから原因を探りに来たのだ」
瘴気は、流れ動くもの。最深層から広がる過程で散って薄まり、また最深層に集まって濃くなるのを繰り返す。深層と呼ばれる地帯が人族にとって危険な理由の一つには、予測不能な瘴気の流動に呑まれやすい事が挙げられる。
そして稀に、高い濃度を保ったまま深層を出て、黒い雲のように各地を漂い続ける瘴気も存在する。
地下にあるとされる死者の国から見れば、地上は空。そこを漂い、呑み込んだ街の命を地下に降らせて落とす災いの意味で『冥府の雲』と呼ばれるそれは、王都ジェサにも到来する事がある。過去のいずれの例でも西側の山脈から吹き下ろす風に乗って来ていて、王都を襲う経路を取る場合には山脈との間に位置するこの森林を必ず通過するのが分かっているため、ここの瘴気の監視は王都の守護に欠かせない。その役割を現在担っているのが、ジークなのである。
「オルトロスが生まれるほどの瘴気が、この界隈に流れて来てるってのか?」
「そうであれば、外縁から先に反応がある筈。内側の、一点のみが感知するとは考え難い。糸が切れるほどの濃い瘴気に触れたのは確かだが――」
以後に異常は一切感知されず、ジークが考え耽っていた時、突としてラウルの持つランタンの火が橙から銀に色を変えた。
「お、ココリの方が見つけてくれたか。何ともなきゃいいが……」
ニーナが見つかった合図を受けて、ラウルはほっとしながらも彼女を案じ続ける。何せオルトロスが徘徊していた近辺に、たったひとりで居たのだからと。
「お前が外界へ出て来た理由は、街門で会ったイーリスから聞いている。魔族の子が見つかったのなら、早く帰ってやるといい」
そう促したジーク自身は、街とは反対方向へ歩き出す。湖畔に浮かせていた火球を全て消し、掌の上に新しく発生させた一つだけを照明にして。
「あんたは、戻らないのか?」
「私にはまだ調査がある」
「そうか、なら先に行かせてもらうよ。じゃあな」
ラウルが帰路につくと、ジークは一度足を止めた。そして彼の背に、一声掛ける。
「――場からの『借り物』を使ったとはいえ、お前に私の氷牢を打ち破られるとは思わなかった」
ラウルは驚いて顧みる。
ジークが言うのは、ラウルがオルトロスを仕留めた際の事。ジークは魔法の内、氷の扱いを最も得意としている。その彼が湖の氷を利用して形成した牢を、中で一層硬化していたオルトロスごと、ラウルは苦もなく破壊したのである。以降、彼はマロードという滅多にない存在のラウルに一目置くようになる。
「……『牢を破った』からって、捕まえないでくれよ?」
冗談めかして言い残し、ラウルは足早に湖畔を後にした。




