7.君に伝えたい事
『街』と総称される人族の領域の殆どは、外周に物理的な障壁を築いている。
障壁は非常時に魔法で結界を張るための礎石の役割も持ち、襲来する魔族や流動する高濃度の瘴気といった外界の危険から、街の民を守る要。長く存続して周辺の外界を開拓し大きく栄えてきた街ほど、障壁も領域の拡大に伴って拡張と補強が重ねられ、大規模になっている。
その障壁を通過するための出入り口が、街門である。王都の障壁はそれ自体が砦の如き高く堅固な石積みで、貫通する街門に踏み入れると、くぐり抜けるまでの距離で厚みが実感される。
そんな街門を出たところでランタンを手に、イーリスは草原の先にある真っ暗な森林を見つめていた。ニーナと、彼女を捜しに向かったラウルとココリの無事を願って。
街門の手前まではフリッツもついて来ていたが、ラウルとココリが先に行った後、イーリスはフリッツに帰宅を促した。その時に話した事を、彼は思い返す。
「――あまり遅くなると、今度は貴方がお家の方に心配されます。後は私達に任せて、家に居てください。ニーナを保護出来たら、ちゃんと知らせますから」
「でも……」
躊躇するフリッツを見て、イーリスは思った。彼をここに留めようとする重石があるのなら、それを吐き出せば、少しは胸が軽くなるのではないかと。
「……ニーナと何があったか、良かったら、聞かせてくれませんか」
切っ掛けを貰って、フリッツは顔を上げた。イーリスの温かさに縋り付き、彼は吐露する。
「俺あいつに友達がいるって事、認めてやれなかったんだ。だから街を出て行ったのは、多分、俺のせいだ。俺があんなふうに言わなきゃ、あいつは、街を出て行ったりなんてしなかったと思う」
「友達……そうですか……」
イーリスは、ニーナもその言葉を口にしていたのを思い出す。
――せっかく『友達』になったのに!
フリッツは続ける。
「ニーナと居た時、同い年の奴等に友達かって聞かれて、只の店の客だって、俺が強く言っちまったからいけなかったんだ。俺の方が、何だかちっせえ子供みたいに――」
あの時、ニーナは何も言わずに駆け去って行った。
フリッツは小さいだの大きいだのという自分基準のこだわりが、いつかラウルに言われた『しょうもない事』であり、そのせいで彼女を傷つける結果になったのだと自覚した。だから次に会ったら謝って、『彼女の友達』を認めるつもりでいた。なのにそれが叶わないままになってしまうかも知れないと思うと、居た堪れないのだった。
悔悟するフリッツの肩に、乗せられるイーリスの手。
「私達みんな、この街でのニーナの寂しさを、分かっていなかったんですね」
「……みんな?」
孤独は山になく、街にある――とはよく言ったものである。誰も居ない山や森などではない、むしろ大勢の他者が居る街でこそ生じた寂しさが、彼女に友達という存在を求めさせたのだと、イーリスは思い至る。
「これは、誰かだけのせいではありません。でもそんな中で、ニーナの寂しさを理解した貴方が彼女に『言いたい事』は、きっと今のあの子に必要な事です。だから街へ帰ってきたら、伝えてあげてください。大丈夫、必ずラウル達が見つけて来てくれますから――」
イーリスは先刻フリッツに告げた通り、信じて待ち続ける。
そんな折に後方の街門から一人、出て来る者があった。街門出口側の守衛兵と言葉を交わすのが聞こえて、彼は振り返る。
「……貴方は――」
その者とイーリスが対面するのは、二度目だった。
ニーナは湖畔から木々の生い茂る方へと入り、漆黒の毛を逆立てる追っ手から逃げていた。
オルトロスは、四つ這いの姿勢でも足先から頭頂までの高さがニーナの背丈の倍はある。図体の大きなそれを相手に、小柄なニーナは狭い間隙が散在する森林という地の利を得て、どうにか振り切ろうとひたすら駆ける。
追いながらオルトロスが口から放射する冷気を、間の木立が彼女の身代わりとなって浴び、一瞬で凍り付いては体当たりを受けて、砕かれていく。そうした無駄な攻撃で手間取っても、オルトロスの足の速さは彼女に勝り、決して両者の距離は広がらない。
恐怖と消耗でニーナの呼吸は乱れ、身体は徐々に前へ行かなくなっていく。彼女は隠れてやり過ごすべく、先に見えた巨木の裏へ身を滑り込ませた。太い根の股に挟まって縮こまり、上がった息を懸命に殺す。左右の手の指を、震えを抑え合うみたく胸先で組み、強く願った。
――こわい……こっち来るな、あっち行け……!
作った霜の道を踏みしめ、やがてオルトロスは追い付いて来た。巨木を挟んだニーナの真裏で立ち止まり、唸る。
ニーナの背筋に走った寒気は、心理的なものではなく実際にそこへ受けた感覚。彼女が咄嗟に跳ね退くと同時に、巨木は氷結した。オルトロスはそれに体当たって粉々に割り砕き、身を屈めたニーナの頭上を飛び越えて着地する。
身体の向きを反転させて立ちはだかったオルトロスを前に、ニーナは膝から力が抜けてしまって座り込む。光る四つの目に捕まって最早動けず、喉も縮み上がって声すら出せない。
――食べられる……!
獲物が逃げる力を失くしたと悟り、おもむろに踏み出される前足。その前進を、急に飛び行って驚かし、止めさせた者があった。
それはへたっているニーナの膝の上に乗り、オルトロス以上に毛を逆立てて甲高い声で鳴き、自分よりも遥かに大きな相手を激しく威嚇する。
結び方が下手で簡単に外せる筈の赤いスカーフは、まだ首に残っていた。ニーナが手当てした後に外界へ帰された、あのカーバンクルである。
ニーナには、カーバンクルが全身全霊で自分を守ろうとしてくれているのが分かった。オルトロスは目障りな小物が現れて苛立ち、二つある口の一方へ、急速に冷気を溜め始めた。周囲の空気が含む水分も氷の結晶と化し、吸気で集められていく。
そこから放たれた咆哮は、浴びた者の視界も生命も真白に帰す猛吹雪となる。動けないニーナとカーバンクルは、なす術なく呑まれる――かに思われた。
ニーナは目を瞑る刹那、膝のカーバンクルから赤い煌めきが起こるのを見た。
直後に甲走った悲鳴。しかしそれはニーナが発したものではなかった。
彼女は自分の身が全く何ともないらしい事を奇妙に感じ、そろそろと目を開ける。
オルトロスは地面に倒れ込み、のたうち回っていた。その横に転がっているのは、氷漬けになってもげた片一方の首。
状況を理解出来ずに放心するニーナは、更なる奇妙に包まれる。
「――ニーナ!」
ココリの呼び声だと、彼女は思った。すぐ近くから聞こえて、ココリの黄土色のマントが目の端でひらめいた気もした。けれど、彼の姿は確認出来ない。
オルトロスは残った方の頭部の口から唾液を垂れ流し、苦痛にもがきながらも立ち上がった。そして一層爛々となった目をぎょろつかせ、辺りを見回す。
ニーナは震え上がった。けれどもオルトロスは、間近にいる彼女に全く気づかない。まるで、見えていないかのように。
動けず声も出ないまま、ニーナはオルトロスの様子を窺い続ける。自分が木の一本になり、森林の風景と一体化している心持ちで。
目にも鼻にも引っかからなくなってしまったニーナの気配を捜して、オルトロスは来た道を引き返して行く。十分に遠ざかり、馳せる音も聞こえなくなると、再び呼ぶ声がした。
「……ニーナ、ニーナ僕だよ」
木から元の身体へ戻ったような感覚。座り込んだまま、ニーナはいつの間にかココリの胸の中に居た。包むマントを払い除けてランタンを翳し、ココリは彼女に顔を見せる。
「無事で良かった、もう間に合わないと思って肝を冷やしたよ……」
まだ放心しているニーナの懐がもそもそと動き、小さな毛玉が頭を出す。ココリはそれに微笑み掛けた。
「見てたよ、カーバンクル。君が攻撃魔法をそっくり『反射』して、ニーナを助けてくれたの。ありがとう」
カーバンクルは、チイと一声鳴いて彼に返す。ニーナへの懐き方で、そのカーバンクルがイーリスから聞いていたのと同じ個体である事を、ココリは確信していた。
「……ココリ……」
温もりにほぐされて、ニーナはやっと声が出せた。恐怖で凍り付いていた涙も溶け出したみたいに、目に溢れる。
「何処も怪我してないかい?」
ココリに聞かれ、泣いて頷く。
「よし、じゃあ一緒に歩いて帰ろう。皆、ニーナを心配して待ってるよ」
ニーナはココリに支えられて立ち上がった。だが繋いで歩き出そうとした彼の手を両手でもって強く握り、引き留める。
「……あれと、またあったら……」
落ちている首を見てしまってびくつき、目を逸らす。散々追い回されて殺され掛かったばかり故、彼女が帰路に強い不安を抱くのは無理もなかった。ココリは身を屈めて、優しく宥める。
「大丈夫、僕と居れば必ずやり過ごせるから。さっきも、全然見つからなかっただろう?」
「……ほんとに?」
「本当さ。それに、カーバンクルだって居てくれているじゃないか。もうニーナは独りじゃないよ」
彼の言葉に応えてか、またもそもそと動くニーナの懐。カーバンクルはそこから出て行く気がないようで、無邪気に顔を覗かせては引っ込むのを繰り返す。それがくすぐったくて、ニーナの泣き顔が笑い顔になった。
「さ、行こう」
改めて促され、彼女は踵を上げた。繋ぐ手と、くすぐる懐から、心強さを得て。
ランタンで行く先を照らし、ふたりと一匹は街へと向かう。片手で涙をごしごしと拭き取り、ニーナはココリに尋ねた。
「さっきココリが使った魔法、すごい。何て魔法?」
彼女が言うのは、オルトロスから自分達の姿をくらませたらしき彼の術。ひとりの時には木の陰に隠れていても容易く見つけられてしまったのにと、ニーナは不思議でならなかった。
「ああ、あれは魔法じゃないよ。ニーナにはまだ言ってなかったけど、僕もラウルと同じ体質で、魔法は全く使えないんだ」
「……ラウルと、同じ?」
即ちココリも、マロード。そう知ってニーナは初めて、これまでココリが魔法を使うところを一度も見た事がなかったのに気づく。
「うん。だからこそ使える術があってね。僕等がオルトロスに気づかれずに済んだのは、簡単に言えば『目に映っても心には映らない』状態に、僕がしたからなんだよ」
「……こころには……?」
簡単に、と説明されてもニーナが理解するにはまだ難しく、彼女の反応は鈍かった。
「それも交えて、またちゃんと話すよ。僕とラウルとイーリスが、まだ小さかった頃の話。僕等も最初は、生まれついた体質のせいでお互いにひとりぼっちだったんだ。誰も信じられない時期があって、沢山悩んで……。皆そうやって少しずつ大きくなっていったんだって事を、今のニーナに、伝えたいから」
昨日ラウルがニーナに小さい時分からの友達だと語ったのは、ココリとイーリスの事だった。
自分とは違うとばかり思っていた周りの大人全員が、自分と同じ子供の時代を経ていて、その傷つきやすかった心は今でも、痛みごと彼等の内にある――。
詳しく聞かずとも、それを茫漠と感じ取っただけでニーナの孤独感は和らぎ、街へ戻る足取りも少し軽くなった。




