6.月影に浮かぶ牙
ラウルは外界へカーバンクルを放しに行った後、家へ戻ったら眠気に襲われて、夕方まで休むつもりでベッドに沈んでいた。飛んだ時間の先で目を覚まさせたのは、扉をけたたましく叩く音と、ココリの呼び声。
「――おーいラウル! ラウルってば! 居ないの? 寝てるの? ラウルッ!」
「……あー、いるよ。いま、出っから……」
家の中はすっかり宵闇に浸っていた。夢とベッドからずるずる這い出し、ラウルは扉へと向かう。開ければ仄かに差し込む街の灯。ココリは扉を叩く勢いそのまま、寝ぼけたラウルの胸まで叩かんばかりに迫って尋ねた。
「ニーナ、来てない?」
「……来てねえけど……。え、居なくなったのか?」
やっぱりここじゃないか、と彼は頭を悩ませる。
「黙って出掛けたみたいなんだ。ニーナに本を届けに行ったら、イーリスが家中捜し回っているところで……。カーバンクルの件、聞いたよ。もしかしたらそれが原因で家出したのかも知れない」
髪全体をくしゃくしゃと乱して寝ぐせをごまかしながら、ラウルは疑問を呈する。
「家出って、そこまでは考え過ぎじゃないか? まだ宵の口だろ」
「僕も最初はそう思ったよ。でも、よりによって血界石を置いて行ってしまったと聞いて」
ラウルの目がにわかに冴える。
「……何だって?」
「ニーナはあれが僕等との『繋がり』を示すものだって理解してる。それを外して出て行くなんて、離別の意思表示としか考えられないんだよ」
ニーナはこれまで、人族との『繋がり』であると教えられたその石を肌身離さず持ち続けていた。契約云々以上に、この世界で自分がひとりぼっちではないと証明してくれる大切な物、と捉えて。だから彼女が石を手放した事の意味を、彼等は重く受け止める。
「とにかく一度イーリスの店に来て。イーリスはニーナが帰って来た時のために、店を動かずに待ってるんだ」
「分かった、すぐ支度する」
ラウルは急いで家の明かりを点け、着替え始める。
「それじゃ僕は先に行って、他の心当たりを訪ねてから店に戻るよ。また後で」
言って扉を閉め、ココリはニーナが頼って行きそうな数少ない知り合いの元へと向かった。
街用の装備を引っ掛けて出たラウルは、ちょうどイーリスの店の前でココリと再会した。
「居たか?」
ココリは首を横に振る。
「シャラとレスターは留守だし、カレンスイレンのレファレッドとサージャも、今日はニーナを見てないって」
二人が開ける前に、店の扉は中から開けられた。話し声を聞きつけてそこから出て来たイーリスは、しかし彼等がニーナを連れていない事に落胆し、ますます憂慮を深める。
「ああラウルすみません、私がニーナから目を離してしまったばっかりに」
「ニーナは、ほんとに血界石を置いて行ったのか」
「ええ。屋根裏部屋に残されていて……」
イーリスが広げて見せた片手の平にあるのは、確かにニーナの物である血界石の首飾り。
「何てこった……まさかあいつ、あのカーバンクルに会いに」
彼女が人族との繋がりを捨て、同族の仲間を取ったのだとしたら――。その懸念が強まった時に、彼はやって来た。
「あ! ラウル――と先生も」
息を弾ませて三人の元へ駆け寄った少年に、先生と呼ばれたココリは目を瞬かせる。
「フリッツじゃないか、どうしたんだい」
「ニーナの事、知らせなきゃと思って……」
彼はニーナがイーリスの店に住んでいると知っているので、イーリスに知らせるつもりでここへ来たのだった。
ラウルは思いがけず持ち込まれた話に飛び付き、身を屈めてフリッツと目線の高さを合わせる。
「お前、ニーナが何処に行ったか知ってるのか? いま捜してるんだ」
フリッツは脱いだ帽子を両手でくしゃりと潰し、ためらいがちに打ち明けた。
「少し前に、うちの前を通り掛かったんだ。それで俺、その……どうしてもあいつに言いたい事があって、でも、なかなか声を掛ける決心がつかなくて……。追いつかないように追い続けてたんだよ。そしたらあいつ俺に気づかないまんま、大きなキャラバンが街門を通るどさくさに紛れて、ひとりで外界へ出て行っちまって――」
懸念が現実となり、ラウルの顔つきは一気に険しくなった。
「守衛の奴等は気付いて止めなかったのかよ!」
イーリスとココリも焦燥する。
「街門は、出る事に関しては甘いですから……」
「そうなると血界石を置いて行ったのはむしろ幸いだ、今すぐ捜しに出よう」
血界石に悪意を浄化された状態の魔族は、外界の空気に馴染まず、人族と同様に魔族から敵対心を向けられる対象となってしまう。しかしそれがなければ無闇な襲撃だけは免れるのと、恐らく向かったであろう森林が危険な魔族は滅多に居ないとされている場所である事を考えれば、発見までの彼女の無事は十分期待出来る。
それでもそこは、何が起こるか分からない外界という領域。更に今は夜行性の魔族達が活動的となる時間帯であり、思わぬ者に獲物として狙われないとも限らず、早急な保護が必要な事態には変わりない。
「イーリス、ランタン貸してくれないか」
「ええ、すぐに持って来ます」
ラウルに言われて身を翻すイーリスに、ココリが重ねて頼む。
「ああ、僕の分もお願い。そのランタンを持って僕とラウルで手分けして捜すから、イーリスは街門で待っていて。それで僕等のどちらかがニーナを連れて戻ったら、火の色を変えてもう一方に知らせてほしいんだ」
魔力を燃料とするランタンは、火魔法を籠めて灯す。籠めた主は中の燃料が尽きるまでの間、距離の制限なく火に色や明るさ等のイメージを反映出来るため、照明として以外にも、離れた者への合図の用途に使えるのである。
イーリスは承諾し、急いで店の中へランタンを取りに戻った。
***
月の舟が、空と湖とに浮かんでいる。
ラウルが『とっときの場所』だと言っていた花咲く湖畔は、今は夜に色彩を吸い取られて、幼子の泣き声だけを響かせている。
ニーナは草の上で膝を抱いて座り、しゃくり上げていた。
カーバンクルに会いたくても会えないまま森林を彷徨い歩いている内に、ここへ辿り着いた。以前ラウルと訪れた時に初めて綺麗だと思った光の眩さを思い出し、癖で胸元に手をやるも、そこに彼がくれた血界石はもうない。自分とカーバンクルを引き離したラウルとイーリスに反発し、街を飛び出す際に衝動的に置いて来てしまったのだが、その石に触れられないという喪失の実感が、彼女の涙を止まらなくした。
人族の街で『友達』の概念を知り、森で暮らしていた頃の群れの仲間達こそが自分のそれだったのではないかと考え始めたニーナは、子供の頃からずっと友達がいるというラウルの話を羨ましく思った。唯一子供の知り合いであるフリッツに、同族で同い年の友達が沢山いる事も。
でもニーナには、友達と呼べる者が誰も居ない。特殊な事情を抱えるニーナ以外、街には魔族の子供など住んでおらず、自分と対等ではない大人ばかりに囲まれた生活の中で、彼女は胸に空いた孤独の穴を深めていた。
そこに出会ったのが、あのカーバンクル。
木の根の陰で怪我して動けないまま衰弱していたのを見つけ、ニーナは屈んで覗き込んだ。そのとき自分の襟から零れ出た血界石と、カーバンクルの額にある赤い石とが、彼女にはお揃いのものに思えたのである。
それに、小さな魔族で、ひとりぼっちで弱っていて――と自分の境遇を重ね見ながら抱き上げたら、両の手と胸に、柔らかな温もりが満ちた。
そうして放っておけなくなり、とにかく薬がある街で手当てしてやりたくて、でも魔族を街へ入れる事が簡単には許されないと何となく分かっていたので、彼女はカーバンクルを籠に隠して、連れ帰ったのだった。
涙で重たくなるほど袖をべしょべしょにしていると、横から声を掛けられた。
「どうしたの?」
その女は、闇のカーテンを音もなく揺らして出て来たようだった。上げられたニーナの顔を見て、あらあら、と歩み寄る。
「そんなに泣いちゃって。可愛いお顔が台無しじゃないの」
ニーナは夜目が利くので、月影しかない中でも相手の姿はよく見える。だが、親しげに話し掛けてくる女に見覚えはなかった。
「……だれ?」
彼女は微笑みを返す。
「そうねえ、貴方には、何て名乗るべきかしら?」
ニーナは、過去に彼女――ルノアと会っている。何もかもを失った、ニーナにとって最も悲しい日に。覚えがないのは、ラウルの腕の中で気を失っていたから。
ルノアはニーナの隣にしゃがみ込む。
「何か、悲しい事があったの?」
寄り添われ、奇妙な者との遭遇に驚いて止まりかけていたニーナの涙が再び溢れ出す。一緒に、心の声も零れた。
「……友達が、ほしかった……」
ルノアは親身なふうに聞いて、深く頷く。
「そう、お友達が欲しかったの。今まで寂しかったのね、可哀そうに……。それなら、私とお友達になりましょうよ。私も長い間ひとりでいて、寂しくて」
誘いに対して、しかしニーナは下を向き、ふるふると首を横に振る。
「……大人と子供は、友達って、言わないって……」
フリッツに言われたそれも、彼女はとても気にしていた。
「まあ、そうなの。残念ねえ……」
拒まれたルノアは、静かに立ち上がる。打ち捨てられたその優しい仮面の下を、ニーナが目にする事はなかった。
肩を震わせて止まないニーナに背を向け、呟く。
――それじゃ私が、貴方のために素敵なお友達を『作って』あげるわね。
「え……?」
自分の咽ぶ声のせいもあって何と言われたかよく聞こえず、ニーナは振り向いたが、既にルノアの姿は失せていた。忽然と現れて消えた彼女に、泣き濡れた頬をつままれた気持ちになる。
ニーナはまた湖の方へ向き直り、膝を強く抱えた。湖面の月が、時の流れに任せて寂々と進む。そんな場の静けさは不意に、低く這う唸り声に揺るがされた。
ニーナはびくりとして、恐々振り返る。そこに居たのは、双頭をもたげて白く凍れる息を吐き、ニーナを凝視する獣型の魔族――オルトロス。
ニーナは飛び上がって立ち、慄いて後ずさる。
夜の舞台袖で、ルノアは邪な笑みを浮かべた。
「付け入る方法は色々あるけど、『大切なものを失わせる』のが一番手っ取り早いのよ……ねえ、ラウル?」
その足首に、冷たく張り詰める糸のようなものが触れた。それが切れてしまったのに気づき、ルノアは上げていた口角を露骨に下げる。
「……やだもう、気をつけてたのに引っ掛かっちゃった。本当に面倒ねえ、最後まで見たかったのに――」
愚痴を残して、彼女は闇の奥深くへと早々に去って行った。




