11.約束
茂みをそよがす夜風に迎えられ、二人は洞の脇に立った。
斜め向かいの少し遠い崖縁で、恐らく毎年、誰にも見られる事なく一本きりで咲いているカガリザクラは、上から優しい淡紅色を振り撒いて彼等の無事を祝う。
命の危機に瀕している時にはレスターに告げたい事が痛いほど溢れていた筈なのに、それを脱し、こうしていざ伝えられる段になったら、シャラは言葉が出なくなってしまった。じっと花を見上げたまま、防寒マントもなく夜風に晒され続けて、小さく震える。
その肩を、レスターは抱き寄せた。
「――冷えるし、ゆっくり見るのは、また来年だな」
彼も、他に何も語らない。互いに持っている言葉に出来ない気持ちが同じものならば、いま交わし合うのは、温もりと他愛ない約束だけで良いと、二人は思った。
「来年、見に行ける?」
「行けるだろう。名所までの不安要素だった苦手も、今日克服出来たしな」
シャラは、互いの生命と関係の存続についての意味で聞いた。対してレスターは、単純に目的地への道程についての意味で返した。
彼女の望みが、彼の中では既に決まった未来である事の証左だが――。
「……え、克服? 何?」
意味の分からない事を言われ、シャラはレスターの顔を見る。
「ワーム。綺麗に首をはねて仕留めたな」
「ワーム……?」
今の時期、ワームは最も活動的となり何処でも遭遇率が高い。二人で出掛けてそれに遭遇するとシャラが大騒ぎしてしまうので、レスターにしてみれば、シャラのワーム嫌いはワーム自体よりも大変面倒くさい、道中の障害なのである。
「覚えてないのか? 無駄も迷いもない、ここ最近で一番の剣捌きだったが」
シャラは首を傾げ、腰の鞘に手を置く。
「……剣捌きって、それは、えと……この剣で……?」
「他にあるのか」
彼女は、ラウルを助けるために何が何でも自分がその敵を倒さなければならないという境地で精神的な防衛が働き、おぞましいものの全情報を、意識から閉め出していた。――今の今まで。
シャラは途端にひっくり返った。
「おいシャラ! お――」
慌てて抱き止めたレスターの、まだ継ぎ目の笑っている全身の骨が一斉に声なき悲鳴を上げる。
彼の声も声にならず、しかし彼女の事は意地でも離さずに、彼はしばらく、その場でうずくまり耐え忍んでいた。
一方で、洞から出て行く二人を見送ったレファレッドは溜息を吐いていた。
「羨ましいねえ……。あたしも、あんたとふたりきりでデートしたかったよ」
流し目を使われ、イーリスは少しばかり動悸したのを咳払いでごまかす。彼は、彼女が自分に好意を持っている事を知っている。隠されない態度から伝わるのは勿論で、きっかけの出来事も、はっきりしているからだ。
レファレッドはあぐらをかいた膝で頬杖をつき、しみじみと零した。
「あんたが泣いて湿る姿も見ずに済ませたかったのに、結局見る事になっちまったしさ。……でも、今日の涙なら悪かなかったよ」
イーリスは息を吹き返したラウルの手を握って、泣いた。
冒険者においては、身を置く世界の危険さ故にすべからく、明日にも命を落とすと本人も周りも覚悟しているもの。イーリスだって、承知はしている。けれど芯からラウルを失う覚悟など絶対にしてはならない理由が、彼にはあった。だからその喪失を誰よりも恐れてしまって、そんな情けない自分の元へ戻ってきてくれた彼に、泣いた。
イーリスは憚らず涙を流してしまった事を少し恥じらいながら、レファレッドに述べる。
「……今日は、随分とお世話になりました。貴方がニーナの声を拾ってここまで連れて来てくれなかったらと思うと、身の縮む思いです。本当に、何とお礼を言ったらよいか……」
「カフェの常連客が減ったら、売り上げに響くからね。礼なんて、また皆が店に顔出してくれりゃそれでいいさ。あんたとは、今日はこうして一夜を共に出来るだけで良しとしとくよ」
「誤解される言い回しはしないでくださいよ」
イーリスはまた咳払いして、顔を俯ける。それを少し覗く仕草をして、レファレッドは尋ねた。
「――あの時言ってたラウルの『約束』、あんたが外界での仕事を受けないのと、何か関係あるのかい?」
イーリスの目が、照らす火の中でも分かる憂色を帯びた。彼は黙って身じろぎもせず、その目を伏せ続ける。
憂いの深さを汲み取り、レファレッドは断りを入れた。
「別に言わなくていいよ、理由までほじくるつもりはないんだ。ただこの討伐の件で、ラウルはあんたを外界そのものから頑なに守ろうとしてるんじゃないかって思えて、少し気になってさ」
――私との『約束』を破るつもりですか――。
――そとで、しなねぇって……やくそく、したろ――。
ラウルが言った『そと』は、外界の意味。
ラウルの『外界で死なない約束』は、イーリスに代わって彼が外界の仕事を引き受ける理由と固く結び付いているのではないかと、レファレッドは感じだのだった。
イーリスが顔を上げて見やったのは、子供の頃、彼と約束を交わした日の事。
失う覚悟をしてはならないのは、イーリスも彼に約束したからだ。自分に『死なない』と言ってくれた彼を、『信じる』と。
「……守ろうと、してくれていますよ、確かに」
子供の稚い約束、などとラウルは思った事もなく、その約束を守る事で、彼は発端になったものからずっとイーリスを守り続けている。
「私ばかりでなく、彼は抱え込んだものを、律儀に全部守ろうとし過ぎなんです。身体一つ、剣一本しかないのに、本来自分に全く関係のない事だろうと、一度決めて抱え込んだら、誰に何を言われても絶対に捨てない――」
焚き火に遠い日を映し見て訥々と語るイーリスに、レファレッドは、今ある日の最たるそれについて投げ掛けた。
「だからあんたは、ラウルが抱え込んだニーナを家に預かったのかい」
彼が、潰れてしまわないように――。
イーリスは過去からレファレッドに視線を戻し、いつもの困り顔で笑った。
「彼はあの子から全てを奪った人族の咎を、一人で背負う無茶な心づもりでいました。至極真剣に……。その時に、そういう友人を好きで持っていたのが、自分だっただけです」
無自覚なお人好しと生真面目が過ぎる、そんな素晴らしく困った彼の事を他に誰が支えられようかと、彼の友は諦念めいた自負をする。
ふうん、とイーリスの心情を一つ知れたレファレッドは言う。
「放っといたらいくらでも抱え込んじまうあいつと、あんたなりに苦労を分かち合いたかったってとこかね」
「でもいま分かち合っているのは、決して苦労だけではないですよ」
イーリスは改めて、ラウルとニーナに目をやった。ふたりは寄り添ってよく眠っている。
「……そうかい」
見守るイーリスの横顔に望ましい幸福を見て、レファレッドは笑む。
「あたしとも、一生の苦楽を分かち合う気はないかい?」
「……どうしてそんな話が飛び出すんですか」
過去からのものと、未来へのものと。彼等の約束が果たされるために必要な願いを聞き届けたのか、その夜は以後、何事もなく過ぎて行った。




