9.生死を分けるキス
騒ぎが終息して月と星の明かりが静々と帰ってきた空の下、一仕事やり遂げて振り返ったイーリスに、レファレッドが飛び跳ねて抱きついた。
「ああイーリス、やっぱりあんたの火は最高だよ! もうずーっとあたしから離れないでおくれよ、火傷なんてさせないからさあ……!」
彼は相変わらず押しの強い彼女にどぎまぎとする。
「そんなくっつかないでくださいよっ、さっきも似た台詞を聞きましたけど、転送はもう終わったでしょう! というか貴方元気じゃないですか、もしかして私にあれをやらせるために、疲弊した振りを――」
「そんな騙すような真似しやしないよ、あんたの火の煽りのお陰で元気になれたんだ。まあ正直、見たかったのはあるけどねえ……。あんたこそ、一回にあれだけの魔導力を使ってけろっとしてるなんて、この身体、一体どうなってるんだい?」
密着したままぺたぺたと触れられて、イーリスはますます紅潮する。
「だから、離れてくださいって! 皆の治療に必要な余力だけは意識的に残したんです! 早くあちらに行かないと」
「ああ、そうだね」
思いの外あっさり聞き分けるレファレッドと、離すよう自分で言っておきながらいきなり離されてつんのめるイーリス。もつれた足を立て直して最も近くのレスターに駆け寄り、片膝を付く。
「待たせました、いま手当てを――」
触れかけたイーリスの手を、だがレスターは苦痛に顔を歪めつつも拒む。
「俺は、最後でいい」
少し離れたところから、利き腕を潰されてしまっているシャラも訴える。
「ラウルが、一番危険な状態なの。先に、彼を」
「イーリス、この子等の応急処置はあたしがするよ。ラウルとニーナのところへ行ってやりな」
白魔法の心得があるレファレッドに言われ、イーリスはひとまず命には別状なさそうな二人を、彼女に任せる事にした。
「そうですか、ではお願いします」
イーリスは即刻立ち上がり、洞の中へ駆け込んで行った。
レファレッドはシャラとレスターに、怪我への処置を施しながらここへ来た経緯を話した。どうにか自分で歩ける程度に回復した彼等を連れて洞の中に戻ると、イーリスは横たわるラウルの胸に片手を当てて仄白い力を送り込み、反対の手で彼の手首を持って、体温と脈拍を常時確認していた。
ニーナはイーリスにぴたりと寄り添い、まだ涙に濡れている目でラウルを見つめている。
シャラは応急的に骨が整えられたばかりの腕を肘から支え持つ格好のまま、ラウルを覗き込む。
「まだ、意識が戻らない?」
「ええ……外傷の方は一通り確認して、急を要していたところは治療出来たのですが」
レスターは腰を下ろして岩壁にもたれる。足の刺し傷や体幹の骨のひびを閉じられて疼痛が減った分、疲労の感覚が戻り、怠そうな様子でイーリスに聞く。
「……打ちどころが悪かったのか、でなければ、失血が多かったせいか」
「初めに意識を失くしたのは、受けた衝撃のせいだと思います。でも戻らないのは、重度の瘴気中毒に陥っているのが原因です」
思わぬ診断に、彼等は驚いた。
「瘴気中毒?」
「そんな馬鹿な、ラウルはホーネットの討伐の後、確かに瘴気あたりの薬を飲んだんだぞ。出がけにも五瓶も空けてきたと――」
「知ってます、それは彼がニーナを迎えに来た時に、私が飲ませたんですから。かなり嫌がってましたけど無理矢理」
「そ、そうだったの?」
光景が目に浮かぶようで、つくづく心配性なイーリスらしいとシャラは思う。今回は彼のその慎重さが功を奏した。
「巨大な巣相手の大量討伐になるからと思って、多めに服用させておいて正解でした。そうでなかったら、とっくに――」
そこまで重篤な状態にあると知って、レスターは疑問を抱く。
「……にしても、どうしてラウルだけが中毒を起こすほどの瘴気を取り込んだんだ。ずっと一緒に行動していた俺とシャラは何ともないのに」
白魔法の使用で再び消耗したレファレッドは、焚火をつまみ食いして話に混じる。
「どうしてかはともかく、原因が瘴気とはっきりしたなら、それさえ抜ければ回復するんだろ?」
皆がそう思うも、イーリスは切羽詰まっていた。
「その筈なのですが……いくら排しても、彼の身体に巡る瘴気を一向に減らせないんです。減るどころかむしろ増えていて、容態の悪化が……加速しています」
ラウルの足側に膝を付いたシャラは、ニーナを挟んでイーリスを見る。
「どういう事?」
「分かりません、まるで体内の何処かから湧き続けているみたいで、このままでは、本当に危ない――」
焦燥が滲む。瘴気の除去も症状の軽減もどんどん追いつかなくなっていて、ラウルの体温と心拍数がじわじわと落ち、呼吸も弱くなっていくのを止められない。一度顔を上げ、イーリスはシャラとレスターに尋ねた。
「ホーネットの女王の針が、彼に刺さったりしませんでしたか? あれは濃縮された瘴気の毒塊です、小さな破片でも固形の状態で身体に残ればそこから溶け出し続けて、こうした中毒を引き起こす事が考えられるというか、もう、そうとしか考えられないんです」
レスターは否定する。
「針を飛ばしてくる攻撃は二度とも目を離さず見ていたが、ラウルは全部回避していた。仮に少しでも針に触れるような事があったなら、こいつだってあれの毒性と必要な処置ぐらい分かっていて俺達にも告げるだろうが、何も聞いていないしな……」
シャラも、俯いてよく思い返す。
「こちらから女王を攻撃する時にも、針とそこに近い部位は避けたから、破片や塵が飛ぶ状況もなかったと思うけど……」
それでもその針が元凶である可能性の根拠を、レファレッドが示す。
「不死化した女王があんたらをここまで追跡して来られたのは、女王の身体の一部がラウルの身体に残っていたから――とすれば、一連の厄介のつじつまが合っちまうけどね」
不死化した者には、ばらされた自らの骸を呼び集める力がある。本体には、例え使い捨ての部位だろうと存在する限り位置が掴めるので、自分の頭部を砕いた恨めしい者の身に残る破片を頼りに追って来て、だから彼を狙う事に、拘泥もしていた――。
そう説明が付く事に、シャラは青ざめる。
「何処かで、見過ごしてしまったのかしら……だったら早く取り除かないと」
しかしイーリスは首を横に振る。
「駄目なんです、ずっと探しているんですが瘴気が全身に行き渡ってしまっているせいで、発生源が特定出来なくて……。今日負った傷を調べて探そうにも、既に塞いでしまってもう傷と分からなくなっているところに埋まっていたら見つけようがありません。手当たり次第に身体を切り刻む訳にもいきませんし――」
目を閉じて必死の様相で、イーリスは暗い淵へずり落ちていくラウルの命を繋ぎ止めながら、濁流の中で泥をさらうように元凶を探し続ける。
彼の横で、ニーナも人知れず探していた。ラウルが倒れてから今まで継続して、自分が彼のために出来る事を。彼が死に直面している事は場の空気から否が応でも伝わってきて、それに圧し縮められる思いで、あまりにも小さく無力な自身を強く抱く。
ラウルが昼間に甘いシロップをくれて、笑っていたのを思い出す。これきり、笑う彼が見られなくなるのは絶対に嫌だった。彼女が嫌だと思う事に対して起こす、いつもの癇癪。でもこのとき起こった癇癪は表に現されず、彼女は、彼女自身の内で暴れ出した。
――嫌だ、ラウルが死んじゃったら嫌だ、どうして、誰が、ラウルをこんなにした?
狭くも深いがらんどうによく響く、がなり声と地団駄。叫んで暴れてがむしゃらに、彼女は何もなく思える自分の中で、尚もって彼のために使えるものを探し続けた。
――誰が、何が? 助けたい、たすけ、タイ……チガウ、タスケル……ワタシガ、タスケル……。
ラウルの身に意識を集中していたイーリスが、はっと目を開ける。彼が手を置いている胸の、上下する動きが止んだ。
「ラウル、息を――息をしてください、ラウルッ! 私との『約束』を破るつもりですかっ!」
一同が身を寄せて、彼を呼び戻そうと口々に名を叫ぶ。その緊張の極まりが、ニーナを弾けさせた。
――イヤダ、イやだ、嫌だっ! 助ける、ラウルは絶対、私が死なせない――!
心が放った強い叫びは、至る事の禁じられた最奥にまで届き、眠る力の扉を、僅かに押し開けた。
ニーナの気配が転じたのに唯一気づいて振り向いたのは、レファレッドだった。大きく見開かれたニーナの瞳に、元の色を一層冴えさす金が灯る。
ニーナはその目にラウルを映し、彼の身体を濁らして蝕んでいるものを、透かし見た。
――何か、何かが、ラウルの命を食べてる?
彼女は言い得ぬ怒りを覚えた。全身の毛が逆立つ代わりに、いま瞳にあるのと同じ光が立ち昇る。
――許さない、ラウルを食べたら許さない、そんなことするのは、全部私が――!
体表から術で肺に働きかけても呼吸を再開させられず、口から直接息と魔力を吹き込もうと身を屈めたイーリスは、いきなり突き退けられて後ろに手を付く。そして退けたところに割り入ったニーナは、ラウルの頭に抱きついた。シャラとレスターも彼女の突然の行動に仰天する。イーリスは声を荒げた。
「ニーナ! 何を――」
「待ちな!」
彼女に手を伸ばしたイーリスを、レファレッドが制した。その時初めて、彼はニーナの変化に気づいて瞠目する。
金に煙る彼女は、ラウルに口付けていた。伸ばしたまま止まっていたイーリスの手の指に彼女の光が絡み付き、それを通じて彼は、ラウルの首筋で黒い片が破砕する幻影を見た。
「これは――」
「……瘴気を吸い出して、食ってる」
信じがたい光景を前に呟いたレファレッドを全員が見、彼女と同じ表情になって、またニーナとラウルに目を移す。イーリスがどうにもし得なかったラウルの体内の濁流は、元凶の嵐が外へ去って緩やかになり、元の清澄へと、滔々と移り行く。
微かにラウルの指先が動いたのを見逃さず、イーリスは飛びついた。握った彼の手に戻りつつある体温と脈拍の力強さに、自分の手は震えてしまい、涙が零れた。
ニーナはラウルから唇を離して上体を上げ、彼の顔を見つめた。
彼のまつ毛が揺れ、瞼が少しずつ上がる。
開いた目が最初に見たのは、金の灯る瞳。過去の記憶と被るものを前に、彼は乾いた喉元で『ある名』を呼ぶ。聞き取ったのはイーリスだけだが、今の彼にはそれが誰の名なのか等、どうでもよかった。
ニーナの最奥の扉が閉じ、漏れていた光がふいと消える。張っていた糸も切れたのか、彼女は目を覚ましたラウルと入れ替わりに、ふにゃりと彼の胸に伏す。
「ニーナ!」
ラウルを看続けなければならないイーリスや身体を回復中のシャラ達に代わって、レファレッドが彼女を抱き上げて預かる。
「眠っただけみたいだ、大丈夫だよ」
「……良かった」
レファレッドの腕で寝息を立てるニーナに安堵し、イーリスはラウルに向き直った。
彼の胸に再び手を当てると、自力で呼吸出来ているのが改めて感じ取れた。瘴気の濁りが抜けてもうすっかり穏やかとなっている体内を、治すべき嵐の爪痕がないか隈なく調べながら、イーリスは彼に声を掛ける。
「ラウル、私が分かりますか?」
ラウルは彼に目を向け、しばらく覚め切らない様子で茫と見ていたが、やがて、彼の頬に残る涙の跡に応えた。
「――そとで、しなねぇって……やくそく、したろ……」
途切れ途切れの、でもしっかり彼らしい言い様に、イーリスは泣き笑う。
「ほんとにもう……。説教は、街に帰ってからしますよ」
洞の外で、闇の裾が揺れる。
気配さえ夜と同化して、誰も、自分達の居る洞の内が覗き見られているとは気づかなかった。
「……あらあ、彼を助けたい一心で力を引き出しちゃうなんてあの子、小さいのになかなか頑張り屋さんじゃない?」
ラウルが覚えなく口にした『ある名』の持ち主は、手にしていた女王の毒針の破片をクッキーか何かのように口へ放り込み、ぽりぽりと咀嚼する。
ラウルが隙を突かれたのは、女王に攻撃されたニーナを庇い、地に針山が築かれた時。自在に操れる瘴気で出来た針を遠隔で欠けさせ、その片を擦り傷に紛れさせる悪質な形で彼の首筋に打ち込んで、あまつさえ女王の不死化を誘起した彼女こそ、真の元凶。
「どうでも良かったんだけど……最初の勘、当たってたみたいね。本気で欲しくなっちゃったじゃないの……。あの子に力を引き出させて、私にもトキメキを起こさせた彼には、ちゃあんと『責任』を取ってもらわないとね?」
軽く死に至る悪戯を仕掛けた彼に、今度は愛しげな眼差しを送る。
「また来るわ、貴方を美味しく食べに――」
キスを投げ、夜と負を統べる災厄は身を翻した。




