1.規格外の格安剣士
仄暗く濡れた森の奥。夜色の衣の裾を乱し、息急き必死で駆けていた。背後から迫り来る気配に、酷く脅えながら。つい先程まで一緒に遊んでいた仲間達の悲鳴と変わり果てた姿が、耳と目に焼き付いて離れない。幼い素足は草木で擦れ、何度も転んで、血と泥にまみれている。黒い翼の片側は突き刺さった矢と共に垂れ下がっていて、もう飛ぶ事が出来ない。
痛みと疲労で上がらなくなってきた爪先に、せり出した木の根が引っ掛かる。つんのめって転がった後、すぐさま立ち上がって駆け出そうとしたが、ひねった足首に激痛が走り、その場にへたり込んでしまった。
湿った地を踏みしだき、露を蹴散らす複数の足音。下卑た笑い声。それらがじきに追い付いて、真後ろから覆い被さるように立つ。恐ろしくて振り向けなかった。弓を引き絞る音が幾つもして、自分も仲間達と同じになるのだと思った。矢が放たれる直前、突如彼等と自分との間に割り入った怒号。極度に緊張していた身が、驚きで跳ね上がった。
びくりと震えて、彼女は夢から覚めた。一切の光が締め出された屋根裏部屋で、彼女の金の双眸だけが爛と輝く。
かつて『人族』の狼藉により理不尽な傷を負い、それまでの仲間も居場所も失った『魔族』の彼女は、今は人族の街に紛れ、そこに住む事を余儀なくされている。そんな彼女が、人族に対して抱く念は如何ばかりか――。取り分け執着の対象となっている『ある者』を思い浮かべる彼女の視線が、床に広げっ放しの書物に落とされる。人族と違い、魔族にとって暗闇は視界を奪うものとならない。眠りに落ちる前まで見ていた頁には読めない文字が並んでいるも、添えられた絵図の流れと、今ここには居ない協力者の解読により、書かれている内容は概ね把握出来ていた。
「この薬を、作れば――」
上げられた口の両端から、小さな牙が零れた。
***
この物語の主な者達が拠点としているのは北大陸の西部で、山脈間に位置する国、アルシュナ。冬季のやや長い地方だが、雪は解け、ようやく暖かな風が舞い込むようになって、ぬかるむ土はそこに営む一切に、新たな力を吹き込んでいる。
その日も王都ジェサは、空、人、共々陽気な朝を迎えていた。青天の下、ひさしを伸ばし、又はテントを広げて店を連ね、宮殿を望む広場から目抜き通りにかけては、毎日市場として賑わいを見せている。行き交う人に飛び交う声。我こそはと並ぶ青果物の瑞々しさに目を奪われ、肉を燻す香ばしい匂いに鼻を誘われ、骨董の醸す浪漫に後ろ髪を引かれしながら、黒い髪にまだ少し寝癖を残す青年はそこを歩いていた。
胴鎧のみの軽装備は、街で過ごすにおいて彼がよく好む格好。それだけなら何の変哲もなく何処にでもいそうな青年だが、彼の事を知らない者は、すれ違うと決まってその後ろ姿を振り返る。上体の専用装具に引っ掛ける形で背負われた『それ』は、一見持ち主の細身には全く不釣り合いで、重装備の厳つい冒険者達が大勢闊歩する中でも一際異彩を放っている。
剣士という彼の生業を知らしめる、両手持ちの、両刃の大剣。
無骨な鉄板と見紛うほど、幅も丈も厚さも通常の剣とは桁違いな寸法と重量を有した、追い追い語る『特異体質』の彼にしか扱えない得物である。大きさ故に鞘に納めてしまうと咄嗟には抜けないため、彼はその愛剣をいつも抜き身で携帯している。
「あらあら、ラウル!」
客を引く周囲よりも一層太く活気ある声で名を呼ばれ、彼はそちらを向いた。テント下の台に色彩豊かに積まれた果物の向こう側から、彼を呼び止めたふくよかな女性が豪気に手を振る。ラウルと呼ばれた青年は彼女の店先まで歩み寄った。
「おうマルディナさん。今日は露店出してたのか」
「そうなのよお! 良い値だからって張り切って仕入れ過ぎちゃって。でも上等なものばかりでさ、見てよこのリスコーダ産のリンゴ! 歯を立てるだけで蜜が滴るってもんでね、こんな大ぶりの大当たり、長いこと商売してる私でもそうそう出会えないからもう嬉しくてねえ。あんたにぜひ味わってもらいたいんだけど、どう? おまけもどんとつけるから」
まるで陶器のような艶の紅い玉を手に、こなれた弁舌で客をその気にさせる。毎度の小気味好さに和み、ラウルは笑顔で応えた。
「はは、いつも敵わねえな。じゃあそれ、五つ買った」
「はいはい、ありがとね!」
「行くとこあるから、帰りにまた貰いに来るよ。おまけも一緒に取っといてくれよな?」
支払いをし、はいよと返すマルディナに一旦別れを告げて店を後にすると、彼は角を曲がって脇の細道に入った。市場の喧騒が遠ざかる毎、石畳を打つ踵の音が閑々と響く。
彼の目的地は、その道沿いにある。宿屋の隣にこぢんまりと構える店で、土壁の金具に掛かる看板には『薬』の文字。扉には『休業中』の札が掛かっているも、知り合いの店である為ラウルはさして気に留めず、手前の段を上ってそこの取手を握った。
そして僅かに開けた途端、ラウルは店内から漏れ出した予想外の異臭に、全身を粟立たせた。目から鼻から爛れ落ちそうなほど攻撃的な刺激。何よりそこに混在する微かな『魔力』から、中にそれを発する邪な魔族がいると踏んだ彼は即座に臨戦態勢へと切り替わる。人族の街は魔族の襲来を防ぐ『障壁』に囲われているが、それでも出入りする者達や荷に紛れて入り込まれる例は多々ある。だから如何なる時も対処出来るよう、戦える者は街中であっても常に武器と防具を装備しているのだった。
腰に携帯している鞄から取り出した布切れで口と鼻を覆い、後ろで手早く結ぶ。音を立てずに隙間から身を滑り込ませ、姿勢を低くして店内を見回した。両側の木棚は一部荒らされたのか、陳列されていた薬の類がひっくり返ったり床に落ちたりしている。正面のカウンターには何の姿もないが、その裏側に、尚も発生し続ける異臭と魔力の元らしき気配を察して、ラウルは大剣の柄を握った。彼の武器は先述の通り相当な大きさがあり、室内のような振る事のままならない狭い空間とは大変相性が悪い。しかしそれはあくまで、常識の枠内に限った話。今、彼にとってこの条件は不利に働かない。何故なら展開次第では斬撃をもって常識の枠ごと建物を破壊する心積もりでおり、それが可能なだけの力を、自負するが故に。
そろりと立ち上がって、目標へにじり寄る。カウンターの少し手前まで来たところでラウルは気構え、慎重に中を覗き込んだ。
確かに、魔族はそこに居た。人族に近い姿をしているが、有角有翼は魔族の証。ただまだ幼く、その証も未発達で愛らしさすら覚える。彼女は上から見られている事に全然気づかない様子で、床にぺたりと座り込んでいる。小型の炉に載せた甕を前に口の中で呪文が転がされると、術者の彼女から魔力が立ち昇った。肩に掛かる黒髪が煽られて、鎌首を持ち上げた蛇の群れのようにうねる。
正体を突き止めた瞬間、ラウルは大真面目に気負っていた自分の滑稽さに頭を抱える。剣から手を放し、覆いの布切れを首元まで下げる。そして臭いで意識が遠のかないよう鼻をつまむと口からひとつ息を吸い、その見知った魔族の幼子に怒声を放った。
「何やってんだニーナ!」
「ひっ!」
彼女は蹴り上げられたみたく床から跳ねる。すると呼応した炉の甕が破裂し、黒煙を噴いた。
「ああーっ!」
彼女は無残にぶち撒かれてしまった焦げ色の粘液を見て叫ぶ。すぐさま振り返り、カウンター越しのラウルを金の瞳で睨め付けた。
「ラウルが脅かすから失敗した!」
「俺のせいかよ。いたずらしてたら駄目だろ」
「いたずらじゃない!」
ニーナの憤慨をよそに、ラウルは早々に店の扉と窓を開けて回る。
「しっかしこの臭い……。店に染みついて誰も寄りつかなくなったらどうすんだ。またイーリスに怒られるぞ?」
彼の口からその名が出た途端、ニーナは威勢を殺がれてぐっと口を噤む。
「てか、今あいつ居ないのか? 聞いてないけど」
「用事で、出かけた。でも一人で店番できてる」
得意げにニーナが取り出した一枚の紙には、客の名と薬の名が箇条書きされている。どうやら彼女は留守番と、薬の販売については一部注文品の受け渡しのみを任されているらしい。
「ふうん、初めてひとりで店番してるって訳か。で、この有り様についてはどういう訳だ……? 一体何を作ってたんだよ」
知られたくない事を尋ねられ、ニーナは一瞬びくつく。
「……ラウルには、言えない」
ぷいと顔を背けられ、ラウルには、という点に多少気を悪くしつつも、彼は一旦その追及を後に回した。頭をくしゃくしゃと掻いて、今日店に来た目的へと話を持っていく。
「……まあ番してるってんなら、まずそっちをちゃんとやろうか。俺が頼んであった瘴気あたりの薬、出してくれよ。ほら、ここに書いてあるだろ」
イーリスの置いていった紙には、確かにラウルとその薬の名が載っている。ちなみに彼以外には他に二人の名が記されていて、彼等はどちらもラウルの仕事仲間であり、ニーナがこの街において心許せる数少ない存在。いま店が休業中の札を下げて見知らぬ者の来訪を断り、こうして限られた仲間のみへの応対となっているのは、この小さな店番が抱える諸々の『事情』があるからだった。
「その薬はない」
きっぱりと返されて、ラウルは呆気に取られる。
「ない? いや、わざわざ書いてあるのにそんな筈ないだろ。いつまでもふてくされてないで早くくれって」
「ほんとにない」
ニーナは自分の足元に転がっていた小瓶のいくつかを、かちゃかちゃと台に乗せて見せた。それはイーリスがいつも該当の薬を詰めている瓶で、どれも蓋が開けられ空になっている。
「おい、まさかお前」
「さっきのやつの材料に全部使った。だからもうない」
彼女の言う『さっきのやつ』は、炉を呑み込んで床にねばねばと這いつくばり、生み落とされた怨みとばかりに客を忌避する毒々しい悪臭を放ち続けている。ラウルは再び頭を抱えた。
「……大目玉決定だな」
このあと店の主が帰宅した時の事態を思って首をすくめ、むくれていたニーナはぽつりと呟いた。
「今から材料、採りに行く」
使い込んでしまった売り物の薬を再度作るのに材料がいるのは当然だが、ラウルはそれを制する。
「何言ってんだ、店番の最中なんだろ? それに一人で材料集めは危ない。イーリスには正直に話して、謝まろうぜ」
そう言って片肘をついたカウンターに、ニーナが飛び乗って座る。ラウルの鼻先に顔を寄せ、至極真剣に提案する。
「ラウルがついて来ればいい。それなら危なくない」
「俺が? 今から? 無茶言うなよ、今日は次の仕事の準備で忙しいんだ。諦めろ」
「嫌だ! 今すぐ行く!」
ラウルはニーナの駄々に取り合わず、二本の角がちんまり生えた頭をぽんぽんと叩いた。
「わがまま言ってねえで、お前は散らかしたものを片付けて掃除して、言われた通りイーリスが帰るまで留守番。分かったな?」
彼の諭す態度が癇に障り、ニーナは牙を剥いた。
「子供扱いするな!」
臨時休業中とはいえ初めてひとりでの店番を任された事で、彼女が『大人』になった気分でいるとはつゆ知らず、ラウルはその自尊心をへし折る言葉を吐いてしまう。
「わがままは子供の言うもんだろ?」
わななくニーナの瞳に、炎が灯る。気の昂りがそのまま『魔導力』の高まりとなり、この世界の一切の源たる『魔力』が、彼女の身に汲み上げられる。
魔導力は、魔力を自身に集めてこれを操る力を言い、それによって様々な効果を発現させる事やその効果は『魔法』と呼ばれる。ラウルは目の前の幼き魔族が癇癪でそれを暴発させる可能性を考え、気持ち身を退いて構える。しかし彼女が放ったのは、全く予測に反するものだった。
カウンターに叩き置かれた、三枚の銅貨。彼は目を丸くする。
「これでラウルを雇う! これなら文句言えない!」
それはニーナがこの店で働いて稼いだ、全財産だった。働いて稼いだと言っても、要は簡単な手伝いで得た子供の『お駄賃』であり、これまでの分を全額合わせたところで剣士一人を雇用するには到底満たない。しかしごく最近まで人族の間で流通する『お金』というものの概念すら持たなかった彼女は、まだそれに伴う『価値』までを理解出来ておらず、したり顔でラウルを見る。ラウルは三たび頭を抱える羽目になった。
もうこうなったらニーナは説得に耳を貸さないだろうと彼は思う。滅茶苦茶な言い分には違いないが、不慣れな街で彼女なりに筋を通そうとしているところを邪険にするのは決まりが悪い。
しばらく悩んだ末に彼はとうとう折れ、渋々ながら仕事依頼の形式を取るわがままを、きく事にしたのだった。
「……ったく、しょうがねえな。少しだけだぞ?」