吾輩は山椒である・みたび
吾輩は山椒である。
都々逸調で名乗るなら、
「木から摘まれて、干されて摺られ、そして小瓶に詰められた」
ってトコだ。
いやはや、この前はひどい目にあった。
危うく海苔に操を奪われるところであった。
笑う者もいるかもしれないが、そういう輩は一度、髭の生えた相手に縦四方固めをかけられてみるがいい。恐怖と滑稽さに泣けてくるはずだ。
海苔も悪い男――いや、悪い女ではなかった。
しかし吾輩は鰻がいい。どうしても、鰻がいい。
それは、吾輩が山椒であるからだ。
「山越えるのめんどくせえ。もうここで越冬しようぜ」
「命賭けて旅するってバカだよね。時代は温暖化だし」
そう語りあっていた渡り鳥が、季節がくれば仲良く飛び立ってしまうように、
「そろってV字編隊って、ウwケwルw」
などと一文字ごとに草を生やしていたはずが、気付くと隊列の先頭で誇らしげに翼を広げているように、吾輩が鰻を求めるのは、もう本能の域なのだ。
育ちも少しは影響しているだろう。
春の柔らかな日差しを浴びて、ほわほわと頼りない若葉を広げる吾輩に、山椒の木であるじっちゃんは、自分たちの格の高さを繰り返し説いた。
「山椒は異国において、『じゃっぱにーず・ぺっぱー』と呼ばれておる。この世に数多ある香辛料のなか、日本という冠を授けられたのは山椒のみ。山椒は日本であり、日本は山椒なり。しかるに、日本人は山椒人、日本海は山椒海と称されることもある」
じっちゃんはいい木だったが、多少ボケていた。
それでも世界を知らぬ吾輩は、じっちゃんが語る自慢話を、目を輝かせながら聞きいった。
「水戸黄門の印籠のなかに入っていた漢方薬は、山椒を主体としたものだ」
「ジョン万次郎が食した鰻の蒲焼きに添えられた山椒は、まだ若かったころのじっちゃんから採ったものだ」
「山椒を煎じて飲んだら、ひと月で十キロの減量に成功した」
「毎日山椒に手を合わせていたら、宝くじで三億円当たった」
「死者を甦らせる世界樹の葉とは山椒のこと」
当時ですら首を傾げるような話も多かったが、それでも世間知らずの自尊心を刺激するには十分で、吾輩のなかには、大きすぎる夢と高すぎるプライドがむくむくと育っていった。
「これだけ格の高い山椒に釣り合うものは、鰻しかおらぬ。鰻はいいぞ。脂ののった柔肌といったら、それはもう――」
と、エロトークを長々と炸裂させたあと、
「ともかく、山椒として生まれたからには鰻じゃ。鰻を得んために、日々精進するがよい」
という言葉で、じいちゃんの話は締めくくられる。
だから、吾輩が鰻を渇望するのは当然のことなのだ。
しかし、この大森家に買われたが運のツキ。
貧乏で、ケチで、おまけに味覚も狂っている。鰻を食うとは思えない。
おそらく、吾輩が鰻と添うのは、今生では無理だろう。
悲嘆にじめじめと粉を湿気らせているところに、大森家のヘッポコ主婦・郁代の叫び声が響いた。
「あらやだ。パパったら、コレステロール値が上がってる!」
何事かと目をやると、郁代は台所のカウンターテーブルに広げた紙を、睨みつけるようにして眺めていた。丸い肩越しに覗いたそれは、この家の主である飯太郎の健康診断通知書だった。
半分が「要注意」のB、残り三分の二が「問題無し」のA。それ以外が、「要検査・治療」のC。特に、コレステロールと中性脂肪の値が悪く、赤字で記されている。
ボロボロだな、飯太郎。五十も過ぎればこんなものか?
「コレステロールを下げるには青魚がいいって言うけど、パパは嫌いなのよね。野菜もあまり食べないし」
深いため息をついた郁代は、眉間にふと皺を寄せた。
「そういえば、最近疲れやすいとも言ってたっけ。階段を上り下りするだけで息があがるって。これも、コレステロールのせいかしら」
違うぞ、ババア。それは、飯太郎がデブだからだ。
身長168センチに対し体重80キロは重すぎる。
BMI値とメタボ欄にも、しっかり「肥満」と書いてある。
「コレステロールが高い……疲れる……」
口に指を当て、郁代は呟いた。あてどなく空中にさまよわせた視線が、突如、吾輩の上で焦点を結ぶ。
「――これは、鰻しかないわね」
え? 今、何と言った?
鰻……と聞こえた気がするが。
その声が届いたかのように、ババアは吾輩を見てはっきりと言った。
「鰻しか、ないわ」
バ……いや、奥様! 郁代様!
さすがは家族の健康を預かる一家の主婦。よーく判ってらっしゃる!
鰻は、コレステロールや中性脂肪を下げる効果のあるDHAやEPAを豊富に含む食べ物なのだ。
各種ビタミンやミネラル、鉄など、体に必要な栄養素がぎっしりと詰まっており、滋養強壮にも効果がある。
今の飯太郎に、鰻を食わせるのは大正解だ。
「こうしちゃいられないわ。用意しなきゃ」
郁代は急いで立ち上がった。勢いが強すぎて、椅子が大きな音を立てて床に倒れた。
性格が雑な郁代は、動作も粗い。
廊下を走る郁代の、パタパタと鳴るスリッパの音。
玄関に落ちた靴の乾いた音。
鍵をかけたことを確認するために、ドアをガチャンガチャンと引く音。
鍋をガス台に置いた時の、ゴンという音。
コトコトと何かが煮える音。
いつもはうるさいだけのそれらが、今日は福音に感じられた。
飯太郎が帰って来たのは、いつもと同じ夜八時。
「アナタ、今日は鰻よ」
出迎えた郁代が、鞄を受け取りながら得意そうに言う。
「鰻? そりゃあ豪勢な」
ネクタイをほどいて寝室に駆けこんでいった飯太郎は、手にしたズボンに片足ずつ通しながら居間へと戻ってきた。
みっともないが、気持ちは判る。
飯太郎も、吾輩と同じくらい鰻が好きである。
しかし、悲しいかな安月給。そうそう鰻など食べられはせぬ。
二人の子のうち、一人は就職したものの、一人はまだ学生だ。仕送りもあるし学費もかかる。
自分たちの老後まで考えれば、節約生活もやむを得ないだろう。
いそいそと席に着く飯太郎の前に、青い縦縞の丼と、吸いものの器が並べられた。珍しいことに、今日の吸いものはレトルトではないらしい。ほんのりと三つ葉の匂いが漂ってくる。
にやりと笑った郁代は、飯太郎の丼の蓋をぱっと開いた。
「じゃじゃーん!」
「おお!?」
中を見た飯太郎の目が丸くなる。
丸くなったが、それだけだった。
笑顔はない。
不思議そうに、しげしげと丼を覗いている。
そういえば声も変だった。感嘆と言うより驚愕に近かった気がする。
飯太郎は、なかば無意識に吾輩を持ち上げ、丼のなかへと振りおろした。
吾輩が着地した先は、何とも不思議な場所だった。
表面には、たっぷりと鰻のタレがかけられている。
粘つくその内側に、純白の肌が透けて見えた。
触ってみると、ふわふわと柔らかい。柔すぎて、頼りないほどだ。
下側には、皮とおぼしき黒い板状のものが貼りついている。
白い柔肌、片側に皮とくれば、それはもう鰻だ。
しかし、これは鰻ではないと、吾輩の五感が告げている。
「「……何コレ」」
吾輩と飯太郎の言葉が被る。
「何だと思う~?」
いたずらっぽく笑った郁代は、飯太郎の顔の前に、プリントアウトした紙を突きつけた。
「はーい、これは精進うなぎでーす! 豆腐で作ってあるのよぉ」
――に、ニセモノ、ニセモノおぉぉぉぉ!
もはや魚でもなし!
精進うなぎとは、殺生を禁止されている坊主たちが、
「肉、食いてえ。あー、魚、食いてえ」
「もう野菜イヤ。オレら芋虫じゃねえっつーの。なあ」
「だけど、等活地獄に落とされんのはヤだな」
「じゃあさ、野菜でそれっぽく作ってみない?」
ということで、知恵を絞り工夫をこらして作った「なんちゃって料理」のひとつである。
油揚げや豆腐を使った「なんちゃって肉」、コンニャクを使った「なんちゃってイカ」など、種類も材料も多岐にわたる。
精進うなぎは、豆腐やはんぺんを使って作ることが多い。皮の見立てには、たいてい海苔が使われる。
「すごいわよね~。本物とぜんっぜん変わらないわよね!」
プリントアウトした紙を覗き込みながら、ババアが感心したように言った。
確かに、そこに印刷してある精進うなぎのクオリティは高い。下手したら吾輩も騙されたかもしれない。
しかし、しかしだ。
ババアが作ったコレは、どこからどう見ても鰻には見えない。
皮に見立てた海苔は、油を吸ってベタベタだし、何より黒すぎる。
身である豆腐はぼってりとして、潰し方が足りないがゆえに表面はでこぼこだ。
形は楕円。鰻らしさを加えようとしたのだろう。縦に引かれた太い線が、得体の知れなさを醸し出している。丼の縁から眺めれば、おそらくワラジムシに見えるだろう。
「パパ、いつもありがとう」
突然のかしこまった声に、吾輩と飯太郎はそろって顔を上げた。
膝に手を置いたババアが、神妙なおももちで飯太郎を見つめている。
「パパが一生懸命働いてくれたおかげで、子供たちも大学へ行けました。これからは私とパパ、二人だけの時間よね。私、パパとできるだけ長く一緒にいたい。少しでも長生きしてほしい。だから健康には気をつけて。私も精一杯サポートするから」
な、なにこの展開。
飯太郎、目ェうるんでるし。
「さ、アナタ。冷める前に、食・べ・て」
郁代が促す。
飯太郎は、涙をごまかすように丼に顔を伏せ、ワラジムシ、いや、精進うなぎを一口頬張った。
「――美味い!」
飯太郎が叫ぶ。
え、美味いの? これが? ありえないだろ。
そう思うが、どうも本心から言っているようだ。
「良かったぁ」
郁代がほっとしたように笑い、それを見た飯太郎も笑顔を返す。
心がこもれば、味もこもるってことか……?
まあ、なんだ。白黒つけようとするほうが野暮ってことか。
微笑み合う二人を見ていたら、馬鹿らしくなってきた。
馬鹿らしいけど、ちょっとだけ羨ましい。
ああ、吾輩も運命の鰻と出会いたい。
「ジジイとババアがいちゃつく場面なんぞ見たくねえぞ!」
毒づきながら胃の腑へと落ちていく吾輩の胸のなかは、こそばゆく、そしてほんのりと温かかった。




